第71話「動き出す境界」
地下深くから響いた音は、しばらく止まらなかった。
ズ……ズズ……。
石造りの床が小刻みに震える。
レオは守護者の背中を追いながら、暗い通路を進んでいた。
「この先に何かいる」
ガイアの声が低い。
「分かるのか?」
「ううん。正確には分からない。でも……死者の気配じゃない」
レオが足を止めた。
「生者でもない」
後ろからヴァルドが続く。
「ならば、三百年前に記録された存在と同じなのか?」
「それも分からない」
エレナが答えた。
「記録には『死者ではない。生者でもない』としか書かれていません」
アシュレイが暗闇を見つめる。
「だが、あの気配は昔とは違う」
「違う?」
「三百年前、門の向こうから感じたものは、こちらを探していた。今感じるものは……」
アシュレイが言葉を止める。
「こちらへ向かっている」
その瞬間だった。
ドンッ!
通路の壁が大きく揺れた。
ミナが杖を構える。
「来る……!」
ローディンも剣を抜いた。
「全員、警戒!」
守護者が突然立ち止まる。
その視線の先。
通路の床に、黒い線が一本走っていた。
線はゆっくりと広がっていく。
まるで地面そのものが裂けようとしている。
セイルが白い仮面を外した。
「これは……境界そのものだ」
「境界?」
レオが問い返す。
「生と死を分けている境目だ。だが、これは門とは違う」
セイルは周囲を見回した。
「誰かが開けようとしているわけじゃない」
「じゃあ、何で……」
「向こう側から押している」
全員が沈黙した。
レオは裂け目を見つめる。
「向こうから……」
ギシッ。
黒い線がさらに広がった。
その隙間から、黒い霧が漏れ出す。
しかし、それは死者の霊気とは違っていた。
冷たくもない。
熱くもない。
ただ、周囲の音だけを奪っていく。
「音が……」
カイが呟く。
自分の声が途中から消えていく。
「何だこれ……!」
レオも声を出す。
だが、数歩先ではほとんど聞こえない。
ガイアの声だけが、頭の中に直接響いた。
『レオ、離れないで』
「分かった!」
守護者がレオの前に立つ。
黒い霧が守護者へ触れた。
ギィィィ……。
守護者の身体がわずかに揺らぐ。
「守護者!」
レオが駆け寄る。
しかし守護者は腕を伸ばし、レオを止めた。
そして裂け目を指差す。
そこから何かが見えた。
人間の手。
だが、腕だけだった。
黒い霧の中からゆっくりと伸びてくる。
ローディンが剣を構える。
「敵か!」
「待って!」
レオが制止する。
手は何かを掴もうとしている。
だが、こちらへ襲いかかる様子はない。
「何を探してる……?」
レオが一歩近づく。
その瞬間。
手が止まった。
黒い霧の奥から、声が響く。
『……鍵……』
レオの身体が強張った。
「俺のことか?」
『……違う……』
「違う?」
『……鍵は……一つではない……』
ヴァルドの表情が変わった。
「何だと……」
アシュレイも目を見開く。
「三百年前の記録には、そんなことは書かれていない」
セイルが静かに呟いた。
「記録されていなかっただけだ」
レオが振り返る。
「どういう意味だ?」
「境界監視者にも、全ての記録が残っているわけではない」
セイルは裂け目を見る。
「過去の鍵が一つだけだったとは限らない」
その言葉に反応するように、裂け目の奥で別の気配が生まれた。
黒い霧の中。
今度は二つ。
いや、三つ。
人影が立っている。
「……三人?」
ミナが息を呑む。
しかし、その姿は人間とは違った。
輪郭だけがあり、顔は見えない。
一人が腕を上げる。
すると、レオの胸元にある力が反応した。
ドクン。
レオの身体を死者の気配が駆け抜ける。
「ぐっ……!」
膝をつく。
『レオ!』
ガイアの声が響く。
守護者がすぐにレオを支えた。
その瞬間、レオの周囲に大量の死者の姿が浮かび上がる。
しかし、彼らは敵ではなかった。
何かを恐れている。
「……何だ?」
レオが顔を上げる。
死者たちは裂け目を見つめていた。
一人の老人の霊が、レオへ近づく。
「……逃げろ」
「え?」
「奴らは……死者を食う」
その言葉と同時に、黒い霧が大きく膨れ上がった。
老人の姿が一瞬で霧に飲み込まれる。
「待て!」
レオが手を伸ばす。
だが、間に合わない。
霧の中から何かが老人の霊を掴んだ。
そして――
消えた。
レオの目が見開かれる。
「……死者を……食った?」
ヴァルドが震える声を出す。
「そんな存在は知らない」
アシュレイが首を横に振る。
「俺もだ」
セイルが剣を抜いた。
「ならば、ここで初めて確認された存在ということになる」
その瞬間、裂け目が大きく開いた。
ゴゴゴゴゴ……!
地下全体が揺れる。
黒い霧の奥から、三つの人影が一斉にこちらを見る。
そして中央の影が、初めて姿を現した。
長い腕。
人間に似た身体。
しかし顔には何もない。
ただ、真っ黒な穴が一つあるだけだった。
ガイアが震える。
『あれは……』
レオは立ち上がる。
「知ってるのか?」
『分からない。でも……』
ガイアの声が小さくなる。
『死者の力を奪って、自分のものにしてる』
怪物が一歩、こちらへ踏み出した。
その瞬間。
守護者が前へ出る。
黒い光と白い光がぶつかる。
バァン!
衝撃波が地下通路を走った。
怪物は後退した。
しかし、守護者も片膝をつく。
「守護者!」
レオが駆け寄る。
「大丈夫か!」
守護者は立ち上がる。
そしてレオへ手を伸ばした。
その手が、レオの胸元へ触れる。
すると――
レオの中に、守護者の力が流れ込んできた。
「……!」
身体が熱くなる。
死者の鎖が白い光を帯びる。
ガイアが驚いた。
『守護者が力を分けた……』
レオは自分の腕を見る。
《死者の鎖》に、これまでとは違う力が宿っていた。
ヴァルドが呟く。
「魂を導く力と……境界を閉じる力」
セイルが続ける。
「二つの力が重なった」
レオは怪物を見る。
「だったら……」
鎖を握り締める。
「こいつをここから出させない!」
死者の鎖が伸びる。
黒い霧の中へ突き進む。
怪物の腕へ絡みついた。
ギギギギッ!
怪物が初めて苦しそうな動きを見せる。
「効いてる!」
カイが叫ぶ。
「今だ!」
ローディンが走り出す。
ミナも杖を構える。
アシュレイとヴァルドも死者の力を呼び寄せる。
それぞれが怪物を押し戻そうとする。
だが――
怪物の背後にいた二つの影が動いた。
一体がレオへ。
もう一体が守護者へ向かって走る。
「まだ二体いる!」
戦いは、始まったばかりだった。
――第71話・完――




