第179話「森を守る誓い」
エルフェリア大森林。
封鎖領域から戻ったレオたちは、長老エルディンの屋敷へ向かっていた。
四つ目の補助石板で確認した黒い亀裂。
三つの円のうち、一つだけが放っていた白い光。
そして、森のさらに奥から逆流する黒い魔力。
調査によって得られた情報は多かったが、侵食を止める方法は見つかっていなかった。
「……結局、何も直せなかったな」
カイが呟いた。
ミナは首を振った。
「でも、石板がまだ動いていることは分かりました」
「そうだけどよ」
「それに、黒い魔力がどこから流れているのかも、少しだけ分かったじゃないですか」
ガイアが頷いた。
「……ああ。少なくとも、石板そのものが侵食を生み出しているとは限らない」
レオは黙って歩いていた。
その隣には、白き守護者がいる。
彼女は時折、森の奥を振り返っていた。
「……気になるのか?」
レオが尋ねる。
白き守護者は小さく頷いた。
「……俺もだよ」
レオは静かに答えた。
「でも、今はみんなを守る方が先だ」
彼女はレオを見つめ、ゆっくりと頷いた。
エルディンの屋敷。
報告を聞き終えた老人は、深く息を吐いた。
「……そうか。四つ目の石板は、まだ機能していたのだな」
フェルンが頷いた。
「はい。ただし、黒い亀裂が広がり、侵食が強まっています」
エルディンは目を閉じた。
「……三百年前、ヴァルドはあの石板を『流れを選ぶ門』と呼んでいた」
レオが顔を上げた。
「……門?」
「ああ。必要な力を通し、危険な力を退けるためのものだ」
ガイアが口を開く。
「……だが、今は黒い魔力が逆流している」
「そのようだ」
エルディンは頷いた。
「石板が壊れれば、森の均衡がさらに崩れる可能性がある」
リュシアは拳を握った。
「……じゃあ、早く直さないと」
フェルンが首を振った。
「方法が分からない以上、無理に触れることはできない」
「……でも!」
「リュシア」
フェルンの声が少し強くなった。
「焦って失敗すれば、集落まで危険に晒す」
リュシアは唇を噛んだ。
「……分かってる」
エルディンは孫娘を見つめた。
「……リュシア。お前の気持ちは分かる」
彼女は顔を上げた。
「だが、森を守るとは、ただ危険へ飛び込むことではない」
リュシアは何も答えなかった。
その日の夕方。
リュシアは集落の外れにある大樹の前へ向かっていた。
そこは、幼い頃から彼女がよく訪れていた場所だった。
巨大な幹には、古い精霊文字が刻まれている。
「……ただいま」
リュシアは大樹へ手を当てた。
かつて、この場所には多くの精霊が集まっていた。
幼い彼女は母親に連れられ、何度もここを訪れた。
『リュシア。森の声を聞いてごらん』
母はいつも、そう言っていた。
『木も、風も、動物たちも、みんな違う声を持っているの』
幼いリュシアは尋ねた。
『……精霊も?』
『もちろん』
母は優しく笑った。
『でもね、聞こえないからって、何も感じていないわけじゃないのよ』
リュシアは大樹を見上げた。
今、その枝には精霊の姿がほとんど見えない。
「……お母さん」
彼女は小さく呟いた。
「私、ちゃんと森の声を聞けてるのかな」
返事はなかった。
ただ、冷たい風が頬を撫でた。
「……ここにいたんだ」
背後から声が聞こえた。
リュシアが振り向くと、レオが立っていた。
「……レオ」
「探したよ」
「……ごめん」
レオは首を振った。
「別に怒ってない」
彼は大樹を見上げた。
「……立派な木だな」
リュシアは頷いた。
「私が小さい頃から、ずっとここにあるの」
「……そうなんだ」
「お母さんとも、よく来た」
レオは彼女を見た。
「……封鎖領域で聞いた声」
リュシアは頷いた。
「……うん」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、リュシアが口を開いた。
「……私、あの声を聞いた時、嬉しかった」
レオは黙って耳を傾けた。
「偽物だって分かってた。でも、もう一度お母さんの声が聞けるなら、それでもいいって思っちゃった」
彼女は俯いた。
「……情けないよね」
「……そんなことない」
レオは静かに答えた。
「大切な人の声を、もう一度聞きたいと思うのは普通だよ」
リュシアは顔を上げた。
「……レオも?」
「……ああ」
レオは頷いた。
「俺だって、会いたい人はいる」
彼は大樹を見つめた。
「でも、あの声に応じたら、きっと本当に大切なものまで失う」
リュシアは静かに頷いた。
「……うん」
「……ねえ、レオ」
「何?」
「私、ずっとこの森を守りたいって思ってた」
リュシアは大樹から手を離した。
「でも、今回のことで分かったの」
レオは彼女を見た。
「……何が?」
「森の外で何が起きているのか、私はほとんど知らない」
リュシアは続けた。
「黒い侵食も、ヴァルドのことも、境界のことも」
彼女は拳を握った。
「この森だけを見ていても、守れないものがあるんだね」
レオは静かに頷いた。
「……そうかもしれない」
「だから、もっと知りたい」
リュシアは顔を上げた。
「森の外の世界を。黒い侵食の正体を。そして、どうすれば大切なものを守れるのか」
レオは少し驚いた表情を浮かべた。
「……リュシア」
彼女は真剣な眼差しでレオを見つめた。
「……私、決めた」
「……何を?」
「この森を守るために、森の外へ出たい」
レオは言葉を失った。
リュシアは続けた。
「レオたちと一緒に旅をしたいの」
翌朝。
エルディンの屋敷。
リュシアは祖父の前に立っていた。
「……おじいちゃん」
エルディンは静かに顔を上げた。
「何だ?」
「……お願いがあるの」
彼女は深く頭を下げた。
「私を、レオたちと一緒に旅へ行かせてください」
エルディンは目を見開いた。
フェルンも驚いた表情を浮かべた。
「……リュシア、お前」
しかし、彼女は顔を上げた。
「ちゃんと考えたの」
エルディンは黙っていた。
「この森を離れるのは怖い。でも、何も知らないまま守られるだけじゃ嫌なの」
リュシアは続けた。
「外の世界で学んで、強くなって、いつか必ずこの森へ帰ってくる」
エルディンは静かに目を閉じた。
「……そうか」
長い沈黙が続いた。
やがて、老人は口を開いた。
「……お前の母も、若い頃に同じことを言った」
リュシアは息を呑んだ。
「……お母さんが?」
「ああ。森を守るためには、森の外を知る必要があるとな」
エルディンは穏やかに笑った。
「……似てきたな」
リュシアの瞳が潤んだ。
「……おじいちゃん」
「だが、旅は危険だ」
エルディンは真剣な表情になった。
「黒い侵食の正体も分からぬ。お前が無事に帰れる保証もない」
リュシアは頷いた。
「……分かってる」
「それでも行くのか?」
「……うん」
彼女は迷わず答えた。
エルディンはしばらく孫娘を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……ならば、止めはせぬ」
リュシアは目を見開いた。
「……本当に?」
「ああ」
エルディンは答えた。
「ただし、レオたちの意思も聞かねばならぬ」
リュシアは大きく頷いた。
「……ありがとう!」
その頃。
レオたちは集落の外で、森の様子を確認していた。
第三監視地点の結界は修復が進み、黒い侵食の拡大も一時的に落ち着いていた。
しかし、完全に止まったわけではない。
ガイアが静かに口を開いた。
「……四つ目の石板について、まだ調べる必要がある」
レオは頷いた。
「……ああ」
カイが尋ねた。
「……次はどうする?」
レオは森の奥を見つめた。
「まずは、エルディンさんに相談しよう」
ミナが頷いた。
「……そうですね」
その時、遠くからリュシアの声が聞こえた。
「……レオ!」
全員が振り向いた。
リュシアがこちらへ走ってくる。
その表情には、昨日までの迷いはなかった。
「……みんなに、話したいことがあるの!」
レオは彼女を見つめた。
「……何?」
リュシアは深く息を吸った。
そして、真っ直ぐに顔を上げた。
「……私も、一緒に旅をさせてほしい」
レオたちは驚いた表情を浮かべた。
リュシアは続けた。
「森を守るために、もっと強くなりたい。だから、みんなと一緒に行きたいの」
レオは彼女を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そっか」
彼は手を差し出した。
「じゃあ、ちゃんと話そう」
リュシアはその手を見つめた。
新しい旅への決意が、彼女の胸に芽生えていた。
――第179話・完――




