第177話「記憶を呼ぶ声」
エルフェリア大森林。
封鎖領域。
百年間、人々の立ち入りを禁じられてきた森の奥を、レオたちは慎重に進んでいた。
先頭を歩くフェルンは、周囲の木々を確認しながら足を進める。
「……全員、離れるな」
カイが剣の柄に手を添えた。
「分かってる。それにしても、妙な森だな」
「何がですか?」
ミナが尋ねる。
「風は吹いてるのに、葉っぱがほとんど動かねえ」
リュシアが頭上を見上げた。
「……本当だ」
枝の先に残された葉は、まるで時間が止まったかのように静止していた。
ガイアが口を開く。
「魔力の循環が弱まっているのかもしれない」
レオは足元の根を見つめた。
「……ここにも黒い筋がある」
古い木の根に沿って、細い黒い魔力が流れている。
しかし、その流れは集落付近で見たものとは違っていた。
「……奥へ向かってる?」
レオが呟く。
ガイアは首を振った。
「いや。奥からこちらへ流れている」
リュシアの表情が曇った。
「……やっぱり、四つ目の石板から?」
「正確には、そのさらに奥からかもしれない」
ガイアは答えた。
フェルンは振り向いた。
「推測は後だ。まず石板を確認する」
一行は頷き、再び歩き始めた。
しばらく進んだ頃だった。
『……リュシア』
不意に、森の奥から声が聞こえた。
リュシアの足が止まる。
「……え?」
レオが振り向いた。
「リュシア?」
彼女は青ざめた顔で木々を見つめていた。
『……こっちへおいで』
優しい女性の声。
リュシアは唇を震わせた。
「……お母さん?」
フェルンが即座に声を上げる。
「リュシア! 返事をするな!」
その言葉に、彼女は我に返った。
「……ごめん」
レオが近づいた。
「知っている声だったのか?」
リュシアは頷いた。
「……小さい頃に聞いていた、お母さんの声」
ミナが心配そうに尋ねる。
「……お母さんは?」
「……もう、いないの」
リュシアは俯いた。
「私が幼い頃に亡くなったから」
レオは言葉を失った。
ガイアが静かに口を開いた。
「……だからこそ、その声を使ったのかもしれない」
リュシアは顔を上げた。
「……私の記憶を?」
「ああ。百年前の記録と同じならな」
フェルンは険しい表情で森を見つめた。
「声の主は、こちらの記憶を辿っている。決して応じるな」
リュシアは弓を握り直した。
「……分かった」
しかし、その瞳には動揺が残っていた。
さらに奥へ進むと、木々の間に小さな広場が現れた。
中央には、苔に覆われた古い石柱が立っている。
フェルンが足を止めた。
「……ここは」
リュシアが顔を上げた。
「知ってるの?」
「古い記録にあった中継地点だ」
フェルンは石柱へ近づいた。
「四つ目の補助石板まで、もう遠くない」
レオは周囲を見渡した。
広場には、三つの細い道が伸びていた。
しかし、そのうち二つは倒木によって塞がれている。
カイが尋ねた。
「……どっちへ進む?」
フェルンは地図を開いた。
「本来なら中央の道だが……」
彼は眉をひそめた。
「……地図と地形が一致しない」
ガイアが石柱を見つめた。
「……長い年月で、森の形が変わったのかもしれない」
その時、白き守護者が静かに前へ出た。
彼女は石柱へ近づき、表面に手をかざした。
淡い白い光が広がる。
すると、苔の下から古い紋様が浮かび上がった。
「……三つの円」
レオが呟いた。
リュシアが頷く。
「均衡の紋様だね」
白き守護者は石柱から手を離した。
そして、右側の道を指差した。
フェルンが尋ねる。
「……そちらなのか?」
彼女は頷いた。
ガイアが口を開く。
「……守護者は、この場所を覚えているのかもしれない」
レオは彼女を見た。
「……無理してないか?」
白き守護者は小さく首を振った。
フェルンは少し考えた後、頷いた。
「……分かった。ただし、慎重に進む」
右側の道。
そこには、黒く変色した木々が並んでいた。
ミナが眉をひそめる。
「……ここだけ、侵食が強いですね」
ガイアが頷いた。
「……魔力の流れが集中している」
レオは木の根を見つめた。
黒い筋が何本も重なり、森の奥へ続いている。
「……この先に石板があるなら」
「……侵食の経路を確認できるかもしれない」
ガイアが言葉を継いだ。
その時だった。
『……レオ』
再び、声が聞こえた。
レオは足を止めた。
『……どうして、私を置いていったの?』
それは、女性の声だった。
しかし、レオには聞き覚えがなかった。
「……誰だ?」
思わず呟きかけたレオは、すぐに口を閉じた。
ガイアが彼の肩に手を置く。
「……応じるな」
レオは頷いた。
「……分かってる」
しかし、声は続いた。
『……思い出して』
『……あなたは、約束したでしょう?』
レオは眉をひそめた。
「……約束?」
その言葉に、白き守護者が突然立ち止まった。
彼女の瞳が大きく見開かれる。
そして、両手で頭を押さえた。
「……守護者!?」
レオが駆け寄る。
彼女の身体から淡い白い光が溢れ始めた。
ガイアが叫ぶ。
「……レオ、触れるな!」
レオは足を止めた。
白き守護者の周囲に、黒い魔力が集まり始めていた。
「……何で!?」
ミナが杖を構えた。
ガイアは周囲を見渡した。
「……声が、守護者の記憶にも触れようとしているのかもしれない」
フェルンが叫ぶ。
「全員、後退!」
しかし、白き守護者は動かなかった。
彼女は苦しそうに胸元を押さえている。
レオは拳を握った。
「……守護者!」
その時、彼女がゆっくりと顔を上げた。
そして、レオへ向かって首を振った。
まるで、何かを拒んでいるようだった。
「……このままじゃ危険だ!」
カイが叫んだ。
ガイアが頷いた。
「……声の届く場所から離れるぞ」
レオは白き守護者へ手を伸ばした。
しかし、彼女は一歩後退した。
「……守護者?」
彼女は自分の胸元へ手を当てた。
そして、ゆっくりと地面を指差した。
レオが足元を見る。
そこには、黒い魔力の筋が伸びていた。
しかし、その中に、細い白い光が混じっている。
「……白い光?」
ガイアが目を細めた。
「……黒い侵食の中に、別の魔力が残っている」
リュシアが呟いた。
「……まさか、石板から?」
白き守護者は頷いた。
そして、森の奥を指差した。
レオは顔を上げた。
「……この先に、何かあるんだな」
彼女は再び頷いた。
フェルンは険しい表情になった。
「……だが、これ以上進むのは危険だ」
レオは振り向いた。
「……分かっています」
「ならば、どうする?」
レオは白き守護者を見た。
彼女の呼吸は落ち着き始めていた。
しかし、顔色は悪い。
「……少し休もう」
ガイアが頷いた。
「……それがいい」
フェルンは周囲を確認した。
「……ここで短時間だけ休息を取る。異常が続くなら撤退する」
レオたちは倒木の近くで休息を取った。
リュシアは白き守護者の隣へ座った。
「……大丈夫?」
彼女は小さく頷いた。
リュシアは俯いた。
「……私も、さっきお母さんの声が聞こえた時、少しだけ行きたくなった」
白き守護者は彼女を見つめた。
「……もう一度、会えるならって思っちゃったんだ」
リュシアは苦笑した。
「……駄目だよね」
白き守護者は静かに首を振った。
そして、リュシアの手にそっと触れた。
リュシアは驚いたように顔を上げた。
「……ありがとう」
その様子を見ていたレオは、静かに呟いた。
「……記憶って、怖いな」
ガイアが隣へ立った。
「……ああ」
「……大切なものだからこそ、利用される」
ガイアは頷いた。
「だが、記憶そのものが悪いわけではない」
レオは顔を上げた。
「……そうだな」
その時、フェルンが近づいてきた。
「……休息は終わりだ」
レオは立ち上がった。
「……進めますか?」
フェルンは少し考えた。
「……石板までの距離は、もうわずかだ」
彼は続けた。
「ただし、次に異常が起きたら即座に撤退する」
レオは頷いた。
「……分かりました」
一行は再び歩き始めた。
そして、しばらく進んだ先。
木々の間に、巨大な石の影が見え始めた。
リュシアが息を呑んだ。
「……あれが」
フェルンは静かに頷いた。
「……四つ目の補助石板だ」
レオはその石板を見つめた。
表面には、三つの円が重なる紋様が刻まれている。
しかし、その中心には、黒い亀裂が走っていた。
そして、亀裂の奥からは、かすかな白い光が漏れていた。
――第177話・完――




