第174話「破られた防衛線」
エルフェリア大森林。
第三監視地点。
緑色の結界が崩れた場所から、巨大な牙狼が足を踏み入れた。
額に古い傷跡を持つ、群れの長。
その背後では、二頭の牙狼が結界の隙間を窺っている。
「右側の防衛線が破られた! 第二班、後退しろ!」
フェルンの指示が飛んだ。
監視隊の兵士たちは弓を構えたまま、集落へ続く巡回路から距離を取る。
「……あいつを先へ行かせるな!」
カイが剣を握り直した。
しかし、フェルンが叫ぶ。
「カイ! お前は中央の森猪を抑えろ!」
「……分かった!」
カイは歯を食いしばり、中央へ向き直った。
レオは牙狼の長を見つめた。
「……ガイア」
「分かっている」
ガイアが隣へ立つ。
「俺たちで足止めするぞ」
「……ああ」
牙狼の長は低く身を沈めた。
その赤黒い瞳が、レオを捉える。
次の瞬間、巨体が前方へ飛び出した。
「レオ、右だ!」
ガイアの声に反応し、レオは身体を横へ投げ出した。
牙狼の前脚が地面を深く削る。
「……危なかった」
立ち上がったレオの前で、ガイアが牙狼の進路を塞いだ。
「……こちらを見ろ」
牙狼はガイアへ顔を向けた。
しかし、その身体から溢れる黒い魔力が、彼の足元へ伸び始める。
「……まずいな」
ガイアは素早く距離を取った。
死者である彼の身体は、魂を形作る力によって維持されている。
黒い侵食に直接触れれば、どのような影響があるか分からなかった。
「……レオ!」
リュシアが声を上げた。
「右の木の根を見て!」
レオが振り向く。
牙狼の長が通った場所から、黒い筋が広がっていた。
それは地面を伝い、巡回路の脇にある古木へ向かっている。
「……また侵食が」
ガイアが頷いた。
「戦闘が長引けば、それだけ被害も増える」
レオは拳を握った。
「……でも、殺したくない」
「分かっている」
ガイアは静かに答えた。
「だからこそ、動きを封じる方法が必要だ」
その時、牙狼の長が再び動いた。
今度はレオではなく、後方にいるリュシアへ向かって走り始める。
「……リュシア!」
フェルンが叫んだ。
リュシアは弓を構えた。
しかし、矢を放たなかった。
「……お願い、止まって!」
牙狼の長は止まらない。
レオは右手を伸ばした。
「《死者の鎖》!」
紫色の鎖が地面から伸びる。
だが、牙狼へ直接絡ませることはしなかった。
鎖は近くの太い枝へ巻きつき、その枝を引き下ろした。
牙狼の進路へ枝が倒れ込む。
巨大な牙狼は方向を変え、リュシアの横を通り過ぎた。
「……助かった!」
リュシアが息を吐く。
しかし、牙狼の長はすぐに振り向いた。
「……まだ来る!」
ガイアが叫んだ。
中央の巡回路。
カイとミナは、二頭の森猪を相手に防戦を続けていた。
「……こいつら、全然疲れねえな!」
カイが剣を構え直した。
一頭の森猪が突進する。
カイは身体を横へずらし、その巨体をかわした。
しかし、もう一頭が反対側から迫ってくる。
「カイさん、下がって!」
ミナが杖を振るった。
「《フレイム・サークル》!」
炎が円を描き、森猪の進路を遮った。
だが、森猪は炎の前で立ち止まると、苦しそうに頭を振った。
ミナはその姿を見つめた。
「……この子たちも、苦しんでる」
カイが頷いた。
「……ああ」
「……できれば、傷つけたくありません」
「分かってる。でも、こっちがやられたら意味ねえぞ」
ミナは唇を噛んだ。
「……はい」
その時、一頭の森猪が突然、地面へ膝をついた。
「……何だ?」
カイが眉をひそめる。
森猪の身体から黒い魔力が溢れ、周囲の草木を変色させていく。
ミナが息を呑んだ。
「……侵食が進んでる?」
ガイアの声が遠くから届いた。
「カイ! 黒い魔力に近づくな!」
カイはすぐに距離を取った。
「……分かった!」
しかし、倒れた森猪は再び立ち上がった。
その赤黒い瞳には、先ほどまで以上に強い光が宿っていた。
右側の防衛線。
フェルンは監視隊の兵士たちへ指示を出していた。
「予備の結界石を運べ! 巡回路の内側に第二防衛線を作る!」
「了解しました!」
兵士たちは急いで結界石を配置し始めた。
だが、残る二頭の牙狼が動き出す。
「……まずい!」
リュシアが弓を引いた。
放たれた矢は牙狼の足元へ突き刺さり、進路を変えさせた。
しかし、もう一頭は別の方向へ走り始める。
「……フェルン!」
レオが叫んだ。
「左から一頭来る!」
フェルンは振り向いた。
「第三班、迎撃準備!」
兵士たちが弓を構える。
しかし、牙狼は木々の間へ姿を消した。
「……どこへ行った?」
一人の兵士が呟いた。
その時、リュシアが顔を上げた。
「……上!」
牙狼は倒れかけた木の幹を足場にし、兵士たちの頭上へ飛び出した。
「……伏せろ!」
フェルンが叫ぶ。
兵士たちは地面へ身を伏せた。
牙狼は彼らの背後へ着地した。
その先には、集落へ続く巡回路がある。
「……突破される!」
レオが叫んだ。
白き守護者が静かに前へ出た。
彼女は両手を広げ、淡い白い光を放った。
牙狼の前方に、薄い壁が現れる。
牙狼はその壁へ触れた瞬間、足を止めた。
しかし、白き守護者の身体がわずかに揺れた。
「……守護者!」
レオが駆け寄る。
彼女は小さく首を振った。
まだ大丈夫だと伝えるように。
だが、ガイアは険しい表情を浮かべていた。
「……これ以上、力を使わせるのは危険だ」
レオは頷いた。
「……分かってる」
その時、牙狼の長が突然、動きを止めた。
レオは振り向いた。
「……何だ?」
巨大な牙狼は、白き守護者の光を見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
リュシアが息を呑んだ。
「……反応してる?」
ガイアが目を細める。
「……いや、何か違う」
牙狼の長の身体から、黒い魔力が溢れ始めた。
その魔力は地面へ広がり、白き守護者の結界へ向かって流れていく。
「……まずい!」
ガイアが叫んだ。
「白い光に、黒い力が引き寄せられている!」
レオは守護者へ声をかけた。
「……結界を解除して!」
彼女は頷いた。
白い光が消える。
すると、黒い魔力の流れも一瞬だけ弱まった。
しかし、その隙に牙狼の長が再び動き出した。
「……全員、第二防衛線まで後退!」
フェルンが叫んだ。
兵士たちは結界石の配置を終え、後方へ下がっていく。
カイとミナも中央から合流した。
「……レオ!」
カイが声をかけた。
「こっちも限界だ!」
ミナが続ける。
「森猪たちの侵食が、さらに強まっています!」
レオは周囲を見渡した。
牙狼の長。
残る二頭の牙狼。
そして、二頭の森猪。
黒い侵食を受けた魔物たちは、まだ動き続けている。
フェルンは剣を構えた。
「……ここから先は、絶対に通さない」
リュシアも弓を握り直した。
「……うん」
レオは深く息を吸った。
「……みんな」
仲間たちが振り向く。
「次の結界まで下がろう。今は無理に倒そうとしない」
ガイアが頷いた。
「……それがいい」
カイは剣を肩に担いだ。
「……了解」
ミナも頷いた。
「……はい」
その時、第二防衛線の結界石が淡い緑色の光を放ち始めた。
新たな結界が、集落へ続く巡回路を塞ぐ。
しかし、フェルンの表情は険しいままだった。
「……これで止まってくれればいいが」
レオは黒く変色した森を見つめた。
第一防衛線は破られた。
そして、魔物たちはまだ侵食を広げ続けている。
このままでは、第二防衛線も長くは持たないかもしれない。
レオは拳を握った。
「……必ず、止める」
その言葉に、ガイアが静かに頷いた。
だが、森の奥では、さらに濃い黒い魔力が広がり始めていた。
――第174話・完――




