第172話「揺らぐ森の結界」
エルフェリア大森林。
エルフ族の集落。
三百年前の約束について聞かされた翌朝、レオたちは監視隊の連絡所へ向かっていた。
森には薄い霧が立ち込め、普段なら聞こえるはずの鳥の声も少なかった。
「……静かすぎるな」
カイが周囲を見渡した。
リュシアは木々の枝を見上げた。
「昨日までは、この辺りにも精霊がいたのに……」
ミナが尋ねる。
「みんな、逃げてしまったんでしょうか?」
「分からない。でも、森の魔力が弱くなってる」
レオは足元へ目を向けた。
木の根に沿って、細い黒い筋が伸びている。
「……ここにも来てる」
ガイアが頷いた。
「侵食の範囲が広がっているな」
白き守護者は静かに立ち止まった。
彼女は森の南側へ顔を向けると、胸元へ手を当てた。
レオが声をかける。
「……何か感じるのか?」
守護者は小さく頷いた。
その表情には、不安が浮かんでいた。
連絡所へ到着すると、フェルンが地図を広げて待っていた。
「……来たか」
レオは尋ねた。
「何かあったんですか?」
フェルンは地図の南側を指差した。
「昨夜、第三監視地点の結界に異常が発生した」
リュシアが顔を上げる。
「第三監視地点って……」
「ああ。集落へ続く巡回路の近くだ」
ミナが息を呑んだ。
「そんなところまで?」
フェルンは頷いた。
「結界そのものは維持されている。だが、魔力の流れが不安定になっている」
ガイアが地図を覗き込んだ。
「侵食が結界へ到達したのか?」
「その可能性が高い」
フェルンは続けた。
「監視隊が確認したところ、結界の外側に黒い魔力が集まっていた」
カイが腕を組んだ。
「……牙狼たちは?」
「姿は確認されていない」
「じゃあ、まだ森の奥にいるのか」
「分からん。だからこそ警戒が必要だ」
レオは地図を見つめた。
第三監視地点。
そこを突破されれば、黒い侵食は集落に近づく。
「……俺たちも行きます」
フェルンは頷いた。
「そのつもりだ。長老からも許可を得ている」
第三監視地点。
そこには、巨大な木々の間を繋ぐように緑色の結界が張られていた。
しかし、その光はところどころ弱まっている。
「……本当に揺らいでる」
リュシアが呟いた。
フェルンは結界の基点へ近づいた。
「……ここだ」
地面には、エルフ族の紋様が刻まれた石が埋め込まれていた。
その表面には、細い黒い筋が浮かんでいる。
ミナが尋ねた。
「……石そのものが侵食されているんですか?」
「まだ断定はできない」
フェルンは答えた。
「だが、結界へ供給される魔力に異常がある」
ガイアが目を細めた。
「……魔力の流れを利用して、侵食が入り込んでいるのかもしれない」
レオは頷いた。
「前に調べた木の根と同じだ」
リュシアは結界を見つめた。
「……このままじゃ、結界が壊れちゃう」
フェルンは首を振った。
「まだ時間はある。まずは、供給経路を調べる」
フェルンは監視隊の兵士二人へ指示を出した。
「東側の基点を確認しろ。異常があればすぐに報告するんだ」
「了解しました!」
兵士たちは森の奥へ向かった。
レオたちは西側の基点を調べることになった。
「……ここにも黒い筋がある」
ミナが呟いた。
地面に埋め込まれた石の周囲には、黒い魔力が薄く広がっていた。
レオは慎重に近づいた。
「……直接触らない方がいいな」
ガイアが頷いた。
「以前、魂導術へ逆流してきたことがある」
カイが周囲を見渡す。
「……じゃあ、どうやって調べる?」
リュシアが答えた。
「魔力を流さずに、表面の紋様だけ確認してみる」
彼女は石の周囲へしゃがみ込んだ。
「……ここ、欠けてる」
レオが覗き込む。
「……本当だ」
石の表面には、小さな亀裂が入っていた。
しかし、その亀裂から黒い魔力が溢れているわけではない。
むしろ、周囲の黒い筋が亀裂へ集まっているように見えた。
ガイアが静かに呟いた。
「……侵食が弱い場所を探しているのかもしれない」
フェルンは険しい表情になった。
「……結界の欠損部分を狙っているということか」
レオは頷いた。
「そう見えます」
その時、通信石から声が届いた。
『フェルン隊長! 東側の基点でも異常を確認しました!』
フェルンが通信石を握った。
「状況は?」
『結界の光が急激に弱まっています! 黒い魔力が基点の周囲へ集まっています!』
フェルンは顔を上げた。
「……全員、東側へ向かう!」
レオたちは急いで移動した。
東側の基点へ到着すると、結界の一部が大きく揺れていた。
「……まずい!」
リュシアが叫んだ。
緑色の光が薄くなり、その向こうに黒い影が見える。
カイが剣を抜いた。
「……何かいるぞ」
ガイアが目を細めた。
「……魔物の気配だ」
結界の向こうから、一頭の牙狼が姿を現した。
全身が黒く変色し、背中には硬い突起が生えている。
リュシアが息を呑んだ。
「……昨日の群れの一頭」
牙狼は結界へ近づいた。
その身体から溢れる黒い魔力が、緑色の光へ触れる。
結界が大きく揺れた。
「……離れろ!」
フェルンが叫んだ。
しかし、牙狼は動かなかった。
まるで、何かに引き寄せられるように結界へ身体を押しつけている。
レオは牙狼を見つめた。
「……自分から壊そうとしてるわけじゃない?」
ガイアが頷いた。
「……黒い魔力が結界に反応している可能性がある」
「……フェルン!」
監視隊の兵士が叫んだ。
「結界の維持が限界です!」
フェルンは即座に指示を出した。
「基点への魔力供給を止めろ!」
リュシアが振り向いた。
「……え?」
「このまま供給すれば、黒い魔力がさらに集まる」
ガイアが頷いた。
「……一時的に流れを断つのか」
「そうだ」
フェルンは続けた。
「ただし、結界が弱まる。全員、迎撃準備!」
兵士たちが基点の術式を解除した。
緑色の光が徐々に薄くなっていく。
牙狼は一歩後退した。
しかし、その赤黒い瞳はレオたちを見つめていた。
カイが剣を構えた。
「……来るぞ」
ミナも杖を握った。
「……はい」
レオは白き守護者を見た。
「……無理はしないでくれ」
彼女は静かに頷いた。
結界の一部が消えた。
牙狼はゆっくりと前へ進んだ。
しかし、すぐには襲いかかってこなかった。
リュシアが一歩前へ出た。
「……ねえ」
フェルンが叫ぶ。
「リュシア、下がれ!」
彼女は足を止めた。
「……大丈夫。近づかない」
リュシアは牙狼を見つめた。
「……私たちは、あなたを傷つけたくない」
牙狼の耳がわずかに動いた。
「……お願い。森の奥へ戻って」
しかし、その直後。
牙狼の身体から黒い魔力が溢れ出した。
ガイアが叫ぶ。
「……下がれ!」
牙狼は地面を蹴り、リュシアへ向かって突進した。
カイが前へ出る。
「……させるか!」
剣の腹で牙狼の前脚を受け流し、進路を変える。
牙狼は体勢を崩した。
その隙にミナが炎の壁を作った。
「《炎界》!」
炎が牙狼の進路を塞ぐ。
フェルンは兵士たちへ指示を出した。
「予備の結界を展開しろ!」
兵士たちが術式を起動する。
淡い緑色の光が、牙狼と集落の間へ広がった。
しかし、その光は以前よりも弱かった。
「……何とか止めたか」
カイが息を吐いた。
牙狼は炎の向こうで立ち止まり、森の奥へ顔を向けた。
そして、ゆっくりと後退していった。
リュシアはその姿を見つめた。
「……また、助けられなかった」
レオは静かに答えた。
「……でも、まだ生きてる」
彼女は頷いた。
「……うん」
フェルンは結界を確認した。
「……第三監視地点は、しばらく使えないな」
ガイアが尋ねた。
「……集落への防衛は?」
「予備の結界を張り、監視隊を増員する」
フェルンは答えた。
「だが、これ以上侵食が広がれば、維持できる保証はない」
レオは森の奥を見つめた。
「……やっぱり、四つ目の石板を調べないと」
ガイアが頷いた。
「……ああ。侵食の流れを断つだけでは、限界がある」
その時、白き守護者が静かに顔を上げた。
彼女は封鎖領域の方向を見つめていた。
そして、レオの腕にそっと触れた。
レオが振り向く。
「……どうした?」
彼女は胸元へ手を当てた。
その白い光が、わずかに揺れている。
まるで、遠くから何かを感じ取っているようだった。
レオは彼女の視線を追った。
封鎖領域の奥。
四つ目の補助石板。
そこでは今も、黒い魔力が逆流し続けている。
そして、森の結界は少しずつ力を失っていた。
――第172話・完――




