第169話「森を蝕む黒」
エルフェリア大森林。
監視隊の連絡所。
夕暮れが近づく中、エルディンは机に広げられた地図を見つめていた。
地図には、赤い印がいくつも書き込まれている。
それらは、黒い侵食が確認された場所だった。
「……ここまで広がっているのか」
エルディンが呟いた。
フェルンは頷いた。
「はい。南側の巡回路を中心に、六か所で新たな侵食を確認しています」
レオが地図を覗き込む。
「……全部、牙狼たちが通った場所なんですか?」
「正確には分からない。だが、足跡が残されていた場所と重なっている」
ガイアが口を開いた。
「……魔物が侵食を運んでいる可能性は高いな」
リュシアは地図を見つめた。
「……このままだと、森の外側まで広がっちゃう」
ミナが尋ねる。
「何か、食い止める方法はないんでしょうか?」
エルディンは少し考えた。
「……まずは、侵食の広がり方を調べる必要がある」
カイが腕を組んだ。
「でも、調べてる間にも広がるんじゃないか?」
「その通りだ」
エルディンは頷いた。
「だからこそ、調査と防衛を同時に進める」
フェルンが顔を上げた。
「……監視隊を動かしますか?」
「ああ。侵食が確認された場所を封鎖し、森の住民が近づかぬようにする」
「承知しました」
レオは地図を見つめた。
「……俺たちにも、手伝わせてください」
エルディンは頷いた。
「頼む。ただし、無理はするな」
翌朝。
レオたちは、南側の巡回路へ向かっていた。
同行しているのは、フェルンとリュシア。
監視隊の兵士たちは、別の場所で封鎖作業を進めている。
「……ここだ」
フェルンが足を止めた。
目の前には、黒く変色した地面が広がっていた。
その中心には、牙狼の足跡が残されている。
ミナがしゃがみ込んだ。
「……昨日より、かなり広がっていますね」
リュシアが頷いた。
「うん。昨日は足跡の周りだけだったのに」
レオは地面を見つめた。
黒い筋が、木の根へ向かって伸びている。
「……ガイア」
「何だ?」
「これ、足跡から広がってるように見える」
ガイアは頷いた。
「……ああ。だが、足跡そのものが原因とは限らない」
「……どういうこと?」
「牙狼が運んできた黒い魔力が、地面に残った可能性がある」
レオは考え込んだ。
「……じゃあ、牙狼たちが移動するたびに」
「新たな侵食が生まれるかもしれない」
リュシアは唇を噛んだ。
「……そんな」
フェルンは周囲を確認した。
「……まずは、この場所を隔離する」
彼は腰から小さな石を取り出した。
表面には、エルフ族の紋様が刻まれている。
「……それは?」
レオが尋ねた。
「精霊結界の基点だ」
フェルンは答えた。
「複数配置することで、一定範囲の魔力の流れを抑えられる」
ミナが顔を上げた。
「……それなら、侵食も止められるんですか?」
「完全には分からない。だが、広がる速度を落とせる可能性はある」
フェルンは四つの石を地面へ置いた。
そして、短い詠唱を行った。
淡い緑色の光が広がり、黒く変色した地面を囲む。
リュシアが目を凝らした。
「……止まった?」
黒い筋の動きが、わずかに鈍くなった。
しかし、完全には止まっていない。
ガイアが静かに呟いた。
「……抑制はできているが、長くは持たないだろう」
フェルンは頷いた。
「……そのようだ」
レオは結界を見つめた。
「……他の場所にも設置するんですか?」
「ああ。監視隊が順番に封鎖している」
「……でも、全部を守れるとは限らない」
フェルンは答えなかった。
その沈黙が、状況の厳しさを物語っていた。
「……一つ、気になることがあります」
ミナが口を開いた。
レオが振り向く。
「どうした?」
「黒い侵食って、魔力が流れる場所を優先して広がっているんじゃないでしょうか?」
ガイアが目を細めた。
「……続けてくれ」
ミナは地面を指差した。
「ここを見てください。黒い筋は、何もない地面よりも木の根に沿って伸びています」
レオもしゃがみ込んだ。
「……本当だ」
リュシアが頷いた。
「森の魔力は、木々の根を通って流れることがあるの」
ガイアが考え込む。
「……ならば、侵食は魔力の通り道を利用している可能性がある」
フェルンが顔を上げた。
「……それなら、魔力の流れを一時的に遮断すれば」
「広がる速度を抑えられるかもしれない」
レオが答えた。
ミナは頷いた。
「……はい」
フェルンはすぐに通信石を取り出した。
「監視隊各員へ。侵食の進路を確認しろ。特に、木の根と魔力の流れが重なる場所を優先して封鎖せよ」
通信石から返答が届いた。
『了解しました』
レオはミナを見た。
「……よく気づいたな」
ミナは少し照れたように笑った。
「……たまたまです」
カイが笑う。
「いや、こういう時のミナは頼りになるな」
「カイさんだって、ちゃんと見てくださいよ」
「見てるって!」
短いやり取りに、リュシアも少しだけ笑った。
午後。
レオたちは、別の侵食地点へ移動していた。
そこでは、監視隊の兵士たちが結界を設置していた。
しかし、地面の黒い筋は、すでに結界の外側へ伸び始めている。
「……間に合ってない」
リュシアが呟いた。
フェルンは険しい表情になった。
「……この場所は、魔力の流れが強い」
ガイアが頷いた。
「……結界だけでは抑えきれないな」
レオは周囲を見渡した。
近くには、大きな古木が立っている。
その根元には、淡い緑色の光が残っていた。
「……あれは?」
リュシアが答えた。
「森の精霊が集まる古木だよ」
「……精霊が?」
「うん。でも、今はほとんどいない」
レオは古木を見つめた。
その根には、黒い筋が迫っていた。
「……このままだと、あの木も」
リュシアは頷いた。
「……うん」
その時、白き守護者が古木へ近づいた。
彼女は幹にそっと手を触れた。
淡い白い光が広がる。
黒い筋の動きが、わずかに止まった。
「……守護者」
レオが声をかけた。
彼女は静かに頷いた。
しかし、その光は長く続かなかった。
やがて、白い光が弱まり、黒い筋が再び動き始める。
ガイアが口を開いた。
「……やはり、一時的に抑えることしかできない」
レオは拳を握った。
「……根本的な原因を何とかしないと」
フェルンは頷いた。
「……その通りだ」
夕方。
連絡所へ戻ったレオたちは、調査結果をエルディンへ報告した。
「……侵食は、魔力の流れに沿って広がっているか」
エルディンは地図を見つめた。
フェルンが頷いた。
「はい。精霊結界によって、ある程度は抑制できています」
「だが、完全には止められぬ」
「……その通りです」
エルディンは深く息を吐いた。
「……やはり、四つ目の石板を調べる必要があるな」
レオが顔を上げた。
「……封鎖領域へ入るんですか?」
エルディンは少し考えた。
「……まだ決断はできぬ」
フェルンが尋ねる。
「……長老、何か問題が?」
「封鎖領域の内側には、我々が知らぬ危険が残されている」
老人は続けた。
「百年前、声に誘われた精霊術師たちは、意識を失った。今はさらに黒い侵食が広がっている」
レオは頷いた。
「……確かに、危険ですね」
「だが、外側からの対策だけでは限界がある」
エルディンは地図を見つめた。
「……明日、評議会へ報告しよう」
リュシアが顔を上げた。
「……おじいちゃん」
「封鎖領域への立ち入りについて、正式に判断する必要がある」
フェルンは頷いた。
「……承知しました」
レオは森の奥へ視線を向けた。
黒い侵食は、今も広がり続けている。
牙狼たちは、まだ森のどこかを彷徨っている。
そして、四つ目の石板は、少しずつ力を失っていた。
森を守るためには、危険を承知で一歩踏み込む必要があるのかもしれない。
しかし、その先に何が待っているのか。
誰にも分からなかった。
――第169話・完――




