第168話「黒き牙狼の長」
エルフェリア大森林。
封鎖領域の南側。
巨大な牙狼が、木々の間から姿を現した。
他の三頭よりも一回り大きな身体。
額には古い傷跡があり、黒く変色した毛並みの隙間から異質な魔力が溢れている。
「……全員、距離を取れ」
フェルンが静かに命じた。
監視隊の兵士たちは後退し、弓を構え直した。
カイは剣を握り、巨大な牙狼の動きを見つめていた。
「……あいつ、他の連中とは雰囲気が違うな」
ガイアが頷く。
「侵食の進行が深い。それに、魔力の流れも不自然だ」
レオは牙狼の長を見つめた。
その赤黒い瞳は、こちらを睨みつけている。
しかし、視線は時折、白き守護者の結界に閉じ込められた仲間へ向けられていた。
「……仲間を気にしてる?」
レオが呟いた。
リュシアが頷く。
「……あの子は、群れを守るためにいつも先頭に立ってた」
「知ってるのか?」
「うん。森の巡回路で何度も見かけたことがある」
リュシアは弓を握りしめた。
「……あんな姿になる前は、私たちを襲ったことなんてなかった」
その言葉を聞き、レオは拳を握った。
「……だったら、なおさら助けたい」
牙狼の長がゆっくりと前進した。
その動きに合わせて、地面に黒い筋が広がっていく。
フェルンが声を上げる。
「全員、警戒!」
次の瞬間、牙狼の長が地面を蹴った。
「……速い!」
カイが剣を構える。
巨大な前脚が振り下ろされる。
カイは剣の腹で受け流そうとした。
しかし、衝撃を受け止めきれず、身体を横へ飛ばされた。
「カイさん!」
ミナが叫んだ。
カイは地面に手をつき、すぐに立ち上がった。
「……大丈夫だ!」
だが、右腕には強い痺れが残っていた。
「……力も桁違いだな」
牙狼の長は再び動き出した。
今度はミナへ向かって突進する。
「《フレイム・ランス》!」
ミナが炎の槍を放った。
しかし、牙狼の長は身体を低くし、炎をかわした。
炎の槍は背後の地面へ突き刺さり、土を焦がした。
「……避けた?」
ミナが目を見開く。
ガイアが叫ぶ。
「ミナ、下がれ!」
彼は前へ出て、牙狼の進路を塞いだ。
牙狼の長はガイアへ飛びかかった。
ガイアは身体を横へずらし、その巨体をかわす。
しかし、牙狼の爪が肩をかすめた。
衣服が裂け、霊体を形作る魔力が一瞬揺らいだ。
「……ガイア!」
レオが叫ぶ。
「問題ない!」
ガイアは答えた。
だが、その表情には緊張が浮かんでいた。
「……このままじゃ、全員が危ない」
レオは周囲を見渡した。
白き守護者は一頭を結界で抑え続けている。
カイとミナは牙狼の長を相手に防戦一方。
フェルンと兵士たちは、残る二頭の動きを警戒していた。
「……リュシア」
レオが声をかけた。
「何?」
「さっき、牙狼が君の声に反応したよな」
「……うん」
「長にも、届くと思う?」
リュシアは牙狼の長を見つめた。
「……分からない。でも、試したい」
レオは頷いた。
「俺たちが時間を作る」
リュシアは弓を下ろした。
「……ありがとう」
その時、フェルンが二人の会話に気づいた。
「待て! 何をするつもりだ?」
「……声をかけてみる」
リュシアが答えた。
フェルンは険しい表情になった。
「危険すぎる!」
「分かってる。でも……」
リュシアは牙狼の長を見つめた。
「この子たちは、森の仲間なんだよ」
フェルンは言葉を失った。
レオが口を開く。
「無理に近づかせたりしません。俺たちが守ります」
フェルンは少し考えた。
「……結界の外側からだ。少しでも危険を感じたら、すぐに退け」
リュシアは頷いた。
「……分かった」
カイが再び牙狼の長の前へ立った。
「……おい、でかいの」
牙狼は赤黒い瞳を向けた。
「こっちを見ろ!」
カイは剣を振り、地面へ斬撃を放った。
土が削れ、牙狼の進路が塞がれる。
その隙にミナが炎の壁を作った。
「《炎界》!」
炎が広がり、牙狼の長を一定の範囲へ誘導する。
しかし、牙狼はすぐに別の方向へ走り始めた。
「……くそっ!」
カイが追いかけようとした。
その時、リュシアが声を上げた。
「……待って!」
牙狼の長が足を止めた。
リュシアはゆっくりと前へ出た。
「……覚えてる?」
巨大な牙狼は彼女を見つめた。
「昔、森の東側で会ったことがあるよね」
リュシアは静かに続けた。
「あなたが怪我をした時、私たちが手当てしたこともあった」
牙狼の長は動かなかった。
しかし、その耳がわずかに動いた。
「……あなたは、ずっと群れを守ってきた」
リュシアの声が震える。
「だから、今も仲間を守ろうとしてるんでしょ?」
牙狼の長は低く唸った。
その視線が、白き守護者の結界へ向けられる。
「……大丈夫」
リュシアは続けた。
「私たちは、あなたの仲間を傷つけたくない」
レオは息を呑んだ。
牙狼の長の身体から溢れていた黒い魔力が、一瞬だけ弱まった。
「……届いてる」
ミナが呟いた。
ガイアも頷いた。
「……まだ意思が残っている」
しかし、その直後。
牙狼の長が突然、苦しそうに頭を振った。
黒い魔力が再び身体から溢れ出す。
「……まずい!」
ガイアが叫んだ。
牙狼の長はリュシアへ向かって突進した。
「リュシア!」
フェルンが駆け出す。
しかし、距離が遠い。
レオは咄嗟に右手を伸ばした。
「《死者の鎖》!」
紫色の鎖が地面から伸びる。
だが、レオは牙狼の身体へ直接絡ませなかった。
鎖は近くの倒木へ巻きつき、その巨体を引き寄せる。
倒木が牙狼の進路を塞いだ。
牙狼は方向を変え、リュシアの横を通り抜けた。
フェルンが彼女の腕を掴み、後方へ引き寄せる。
「……無茶をするな!」
「……ごめんなさい」
リュシアは俯いた。
レオは鎖を解除した。
「……でも、少しだけ反応してた」
ガイアが頷いた。
「……ああ。完全に意思を失っているわけではない」
その時、白き守護者が結界を解除した。
閉じ込められていた牙狼は、地面へ倒れ込んだ。
しかし、すぐには立ち上がらなかった。
守護者は片膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。
レオが駆け寄った。
「……大丈夫か?」
彼女は小さく頷いた。
だが、その身体を包む白い光は弱まっていた。
「……フェルン」
ガイアが声をかけた。
「何だ?」
「このまま戦い続ければ、牙狼たちも我々も消耗する」
フェルンは頷いた。
「……分かっている」
「一度、距離を取るべきだ」
フェルンは周囲を確認した。
負傷者の搬送はすでに完了している。
監視隊の兵士たちにも、大きな負傷はなかった。
「……全員、後退する!」
カイが振り向いた。
「……いいのか?」
「今は無理に倒す必要はない。群れの動きを監視しながら、連絡所へ戻る」
レオは牙狼の長を見つめた。
「……でも、このまま放っておいたら」
フェルンは答えた。
「森の外側へ出ないよう、監視隊が警戒を続ける」
リュシアは唇を噛んだ。
「……助けられなかった」
レオは静かに首を振った。
「……まだ終わってない」
彼女が顔を上げる。
「……え?」
「少なくとも、あの子たちには意思が残ってるって分かった」
レオは続けた。
「だから、次はもっと安全な方法を考えよう」
リュシアは小さく頷いた。
「……うん」
夕方。
連絡所へ戻ったレオたちは、エルディンへ報告を行っていた。
「……四頭の牙狼が侵食を受けていたか」
エルディンは険しい表情で呟いた。
フェルンが頷く。
「はい。群れの長も確認しました」
「負傷者は?」
「行方不明だった兵士は救助しました。現在、治療を受けています」
エルディンは安堵した。
「……それは何よりだ」
レオが口を開いた。
「長老。牙狼たちを助ける方法を探したいんです」
エルディンは彼を見つめた。
「……危険だぞ」
「分かっています。でも、あの子たちは自分の意思で襲っているわけじゃないかもしれません」
ガイアも頷いた。
「……侵食を受けながらも、仲間を守ろうとする反応が見られた」
エルディンは考え込んだ。
「……ならば、精霊術師たちにも協力を求めよう」
リュシアが顔を上げた。
「……おじいちゃん」
「森の命を救うことも、我々の役目だからな」
リュシアは小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
しかし、その時。
連絡所の扉が開いた。
一人の監視隊員が駆け込んでくる。
「長老! 緊急報告です!」
エルディンが振り向く。
「どうした?」
「南側の監視地点で、新たな異変が確認されました!」
フェルンが立ち上がった。
「……牙狼たちが移動したのか?」
「いえ……」
兵士は息を整えた。
「牙狼たちが通った場所から、黒い侵食が急速に広がっています!」
部屋が静まり返った。
レオは目を見開いた。
「……まさか」
ガイアが静かに呟いた。
「……魔物そのものが、侵食を運んでいるのか」
エルディンは険しい表情で森の奥を見つめた。
黒い侵食は、封鎖領域の中だけに留まらなくなっていた。
そして、その脅威は今、森の外側へ広がろうとしていた。
――第168話・完――




