第167話「侵食された群れ」
エルフェリア大森林。
封鎖領域の南側。
白き守護者が展開した結界の向こうで、黒く変色した牙狼が苦しそうに身体を震わせていた。
その身体からは、黒い魔力が絶えず溢れ出している。
「……守護者、まだ大丈夫か?」
レオが尋ねた。
白き守護者は小さく頷いた。
しかし、その額には疲労の色が浮かんでいた。
ガイアが静かに口を開く。
「……長くは持たないな」
「分かってる」
レオは牙狼を見つめた。
攻撃すれば侵食が強まる可能性がある。
魂導術で拘束しようとすれば、黒い魔力が逆流してくる。
「……どうすればいいんだ」
その時、森の奥から別の獣の唸り声が聞こえた。
カイが剣を構える。
「……来たぞ」
木々の間に、赤黒い光が二つ浮かび上がった。
続いて、もう二つ。
リュシアが息を呑む。
「……二頭いる」
フェルンは兵士たちへ声をかけた。
「全員、後退しろ! 負傷者の搬送を優先する!」
しかし、牙狼たちはゆっくりと姿を現した。
一頭は右前脚が黒く変色し、もう一頭は背中に硬い突起が生えている。
どちらも、通常の牙狼とは明らかに違っていた。
「……三頭目まで確認」
フェルンが呟いた。
レオは周囲を見渡した。
「……これ以上、増えないといいけど」
ガイアは静かに答えた。
「……そう願いたいな」
「……フェルン隊長」
一人の兵士が近づいた。
「負傷者の搬送準備が整いました」
「よし。二人で連絡所まで運べ」
「はっ!」
兵士たちは負傷者を支えながら、森の外側へ向かった。
しかし、その動きに反応するように、一頭の牙狼が顔を上げた。
「……まずい!」
リュシアが弓を引く。
牙狼は地面を蹴り、負傷者たちへ向かって走り始めた。
「《裂空斬》!」
カイが剣を振るった。
鋭い斬撃が牙狼の進路を横切る。
地面が深く削れ、牙狼は咄嗟に方向を変えた。
「……こっちだ!」
カイが叫ぶ。
牙狼は赤黒い目を向けた。
そして、カイへ襲いかかった。
「……来い!」
カイは剣を構え直した。
牙狼の前脚が振り下ろされる。
カイは身体を横へずらし、攻撃をかわした。
しかし、牙狼はすぐに体勢を立て直す。
「……しつこいな」
ミナが杖を構えた。
「カイさん、援護します!」
「頼む!」
ミナは地面へ手を向けた。
「《炎界》!」
淡い炎が広がり、牙狼の周囲を囲む。
ただし、直接身体を焼くのではなく、進路を制限するための炎だった。
牙狼は炎を避けながら動きを止めた。
「……今のうちに!」
フェルンの指示で、負傷者たちは森の外側へ離れていった。
一方、レオたちは残る二頭と向き合っていた。
白き守護者の結界に閉じ込められた一頭。
そして、新たに現れたもう一頭。
「……ガイア」
レオが声をかけた。
「どうした?」
「この牙狼たち、何かおかしくないか?」
ガイアは目を細めた。
「……何がだ?」
「動きが、ばらばらなんだ」
レオは説明した。
「一頭は俺たちを襲ってくる。でも、もう一頭はずっと森の奥を見てる」
ガイアは牙狼を観察した。
確かに、新たに現れた一頭は攻撃する様子を見せていなかった。
ただ、何かを警戒するように森の奥を見つめている。
「……侵食の進行度が違うのかもしれない」
「……進行度?」
「ああ。完全に意思を奪われている個体と、まだ抵抗している個体がいる可能性がある」
レオは頷いた。
「……だったら、助けられるかもしれない」
その時、リュシアが声を上げた。
「……レオ!」
振り向くと、彼女が一頭の牙狼を指差していた。
「……あの子、首を見て!」
レオは目を凝らした。
牙狼の首には、古い木製の輪が巻かれていた。
そこには、エルフ族の紋様が刻まれている。
「……あれは?」
フェルンが近づいた。
「……森の監視隊が使う識別具だ」
リュシアが頷いた。
「……やっぱり」
レオが尋ねる。
「知ってる牙狼なのか?」
「うん。あの子たちは、森の奥に住んでる群れなんだ」
リュシアは悲しそうに続けた。
「昔からエルフ族の巡回路に近づくことがあって、危険な魔物が来ると知らせてくれることもあった」
レオは牙狼を見つめた。
「……じゃあ、本来は敵じゃないんだな」
「……うん」
リュシアは弓を握りしめた。
「だから、できるなら傷つけたくない」
その時、結界の中にいた牙狼が突然、頭を持ち上げた。
黒い魔力が身体から溢れ出す。
白き守護者の結界が大きく揺れた。
「……守護者!」
レオが叫ぶ。
彼女は両手を広げ、結界を維持しようとした。
しかし、黒い魔力が白い光を押し返していく。
ガイアが険しい表情になる。
「……限界が近い」
レオは拳を握った。
「……何か方法は」
その時、リュシアが一歩前へ出た。
「……私に、やらせて」
フェルンが振り向く。
「何をするつもりだ?」
「この子たちに、呼びかけてみる」
「危険だ!」
フェルンが即座に止めた。
しかし、リュシアは首を振った。
「分かってる。でも、まだ自分の意思が残っているなら……」
彼女は牙狼を見つめた。
「私の声が届くかもしれない」
レオは少し考えた。
「……どうやって?」
「精霊術を使うんじゃない。ただ、声をかけるだけ」
ガイアが頷いた。
「……それなら、魔力の逆流は起きないだろう」
フェルンは険しい表情のまま答えた。
「……結界の外からだ。それ以上は近づくな」
リュシアは頷いた。
「……分かった」
リュシアは弓を下ろした。
そして、牙狼へ向かって静かに声をかけた。
「……ねえ」
牙狼は赤黒い目を向けた。
「……覚えてる?」
リュシアはゆっくりと続けた。
「昔、森の東側で会ったことがあるよね」
牙狼は動かなかった。
「あなたたちが怪我をした時、私たちが手当てしたこともあった」
レオは黙って見守った。
リュシアの声には、強い願いが込められていた。
「……お願い。もう、苦しまないで」
その時。
牙狼の耳が、わずかに動いた。
「……今」
ミナが呟いた。
リュシアは続けた。
「……私たちは、敵じゃないよ」
牙狼は低く唸った。
しかし、先ほどまでの激しい動きは収まり始めていた。
ガイアが目を細めた。
「……反応している」
レオも頷いた。
「……まだ、意思が残ってるんだ」
白き守護者は結界を維持したまま、静かに牙狼を見つめていた。
だが、その直後。
森の奥から、別の気配が近づいてきた。
フェルンが振り向く。
「……何だ?」
木々の間に、さらに大きな影が現れた。
その姿を見たリュシアの表情が凍りつく。
「……嘘」
レオが尋ねる。
「……どうした?」
リュシアは震える声で答えた。
「……あの子は」
木々の間から現れたのは、他の牙狼よりも一回り大きな個体だった。
その全身には黒い筋が走り、額には深い傷跡が残っている。
フェルンが息を呑んだ。
「……群れの長か」
リュシアは頷いた。
「……うん」
巨大な牙狼は、仲間たちを見つめた。
そして、ゆっくりとレオたちへ顔を向ける。
その赤黒い瞳には、強い敵意が宿っていた。
カイが剣を握り直した。
「……こいつは、さっきまでの連中とは違いそうだな」
ガイアが静かに呟いた。
「……侵食も、かなり進んでいる」
レオは一歩前へ出た。
「……それでも、助ける方法を探す」
リュシアは頷いた。
「……うん」
しかし、群れの長はすでに前脚へ力を込めていた。
その身体から、黒い魔力が地面へ流れ出していく。
森の空気が重くなった。
四頭の牙狼。
そのすべてが、黒い侵食に蝕まれている。
そして、群れの長が姿を現したことで、戦いは新たな局面を迎えようとしていた。
――第167話・完――




