第166話「森に現れた異形」
エルフェリア大森林。
早朝。
監視隊の連絡所に、一人のエルフ兵が駆け込んできた。
「フェルン隊長! 報告があります!」
フェルンは机から顔を上げた。
「どうした?」
「封鎖領域の南側で、魔物を確認しました!」
「魔物だと?」
「はい。しかし、通常の魔物とは様子が違います」
エルディンが立ち上がった。
「詳しく話してくれ」
兵士は息を整えた。
「森に生息する牙狼と思われます。ですが、全身が黒く変色し、周囲の木々を傷つけながら移動しています」
リュシアの表情が変わった。
「……牙狼が?」
牙狼は、エルフェリア大森林に生息する狼型の魔物だった。
普段は群れで行動するものの、エルフ族を積極的に襲うことは少ない。
「負傷者は?」
フェルンが尋ねた。
「現在のところ、確認されていません。ただ、巡回中の兵士が一人、行方不明になっています」
「何だと……」
フェルンは剣を手に取った。
「直ちに捜索隊を編成する」
レオも立ち上がった。
「俺たちも行きます」
フェルンは振り向いた。
「危険だぞ」
「分かっています。でも、黒い侵食が関係しているなら、俺たちにも調べられることがあるかもしれません」
エルディンは少し考えた。
「……フェルン。彼らを同行させてくれ」
「長老……」
「ただし、指揮はお前が執れ。封鎖領域への立ち入りは引き続き禁止だ」
フェルンは頷いた。
「承知しました」
森の南側。
レオたちは監視隊の兵士四人と共に、異変が報告された場所へ向かっていた。
先頭を歩くフェルンが足を止める。
「……ここから先は警戒しろ」
地面には、深い爪痕が残されていた。
カイがしゃがみ込む。
「……でかいな」
「普通の牙狼なら、ここまで深い傷は残さないよ」
リュシアが答えた。
ミナは周囲の木々を見つめた。
「……この黒い筋」
樹皮には、細い黒い線が広がっていた。
レオが近づく。
「封鎖領域で見たものと似てる」
ガイアも頷いた。
「……同じ侵食の影響を受けている可能性が高い」
その時、白き守護者が立ち止まった。
彼女は右手を伸ばし、森の奥を指差した。
レオが尋ねる。
「……何かいるのか?」
守護者は頷いた。
フェルンが兵士たちへ合図を送る。
「全員、戦闘準備」
カイが剣を抜いた。
「……来るか」
木々の間から、低く唸る声が聞こえた。
やがて、一頭の巨大な狼が姿を現した。
灰色だったはずの毛並みは黒く変色し、身体の一部には硬い突起が生えている。
そして、その両目には赤黒い光が宿っていた。
「……あれが牙狼?」
リュシアが呟いた。
フェルンは険しい表情で答えた。
「……以前の姿とは、まるで違う」
牙狼は一行を見つめたまま、ゆっくりと歩き始めた。
カイが剣を構える。
「……どうする?」
フェルンが答えた。
「まずは距離を取れ。こちらから刺激するな」
しかし、牙狼は突然、近くの木へ身体をぶつけた。
太い幹が大きく揺れる。
その身体から黒い魔力が溢れ、地面へ染み込んでいった。
ミナが息を呑んだ。
「……苦しんでいるんでしょうか?」
レオは牙狼を見つめた。
その動きは不自然だった。
何かに抵抗するように頭を振り、時折、自分の身体を傷つけている。
「……ガイア」
「……ああ」
ガイアは静かに頷いた。
「自分の意思で動いているようには見えない」
リュシアが弓を構えた。
「……助けられないの?」
レオは答えられなかった。
以前、侵食を受けた精霊へ魔力を与えたことで、黒い力が強まったことがある。
安易に治療すれば、かえって危険かもしれない。
「……まずは動きを止めよう」
レオが言った。
フェルンは頷いた。
「殺さずに済むなら、それが望ましい」
だが、その直後。
牙狼が地面を蹴った。
「散開!」
フェルンの指示で、一行は左右へ分かれた。
牙狼の巨体が、先ほどまでレオたちの立っていた場所を通り抜ける。
カイが剣を振り上げた。
「……速い!」
牙狼は方向を変え、再び襲いかかってきた。
カイは剣の腹でその前脚を受け流した。
しかし、想像以上の力に押され、数歩後退する。
「……普通の牙狼じゃねえな」
ミナが杖を構えた。
「カイさん、下がってください!」
「分かってる!」
ミナの周囲に炎が浮かび上がる。
「《フレイム・サークル》!」
炎が円を描き、牙狼の進路を塞いだ。
しかし、牙狼は炎を避けるどころか、その中へ踏み込もうとした。
「……待って!」
リュシアが叫んだ。
「その子、炎が見えてない!」
ミナは慌てて術を解除した。
牙狼は勢いを失い、地面へ倒れ込んだ。
だが、すぐに立ち上がる。
その身体から、さらに濃い黒い魔力が溢れ始めた。
「……まずいな」
ガイアが呟いた。
レオは牙狼を見つめた。
「……あの黒い魔力、増えてないか?」
「ああ。攻撃を受けるたびに、侵食が強まっているようにも見える」
フェルンが声を上げた。
「全員、攻撃を控えろ! 距離を保て!」
兵士たちは弓を構えたまま後退した。
しかし、牙狼は再び動き出した。
今度はレオではなく、後方にいた一人の兵士へ向かって走り始める。
「危ない!」
リュシアが弓を引いた。
放たれた矢は牙狼の足元へ突き刺さり、進路を逸らした。
その隙にフェルンが兵士を引き寄せる。
「下がれ!」
牙狼は地面を削りながら方向を変えた。
そして、レオへ向かって突進した。
「レオ!」
カイが叫ぶ。
レオは右手を伸ばした。
「《死者の鎖》!」
紫色の鎖が地面から伸び、牙狼の前脚へ絡みつく。
しかし、次の瞬間。
鎖の表面に黒い筋が走った。
「……何だ!?」
レオは目を見開いた。
黒い魔力が、鎖を伝って彼の方へ流れ込もうとしていた。
「レオ、切れ!」
ガイアが叫ぶ。
レオはすぐに術を解除した。
鎖が消えると同時に、黒い魔力は地面へ落ちた。
「……危なかった」
ガイアがレオの前へ立つ。
「……あの侵食は、魂導術にも反応するようだ」
レオは頷いた。
「……分かった。もう直接繋がない」
白き守護者が二人の前へ進み出た。
彼女は両手を広げ、淡い白い光を放った。
光が薄い壁となり、牙狼の進路を遮る。
牙狼はその壁に触れた瞬間、動きを止めた。
黒い魔力が身体の表面で揺れている。
しかし、侵食が消える様子はなかった。
「……抑えられてる」
ミナが呟いた。
レオは守護者を見つめた。
「……でも、長くは持たない」
彼女の表情には、苦しさが浮かんでいた。
「……フェルン!」
その時、後方から兵士の声が聞こえた。
「行方不明だった兵士を発見しました!」
フェルンが振り向く。
「無事なのか?」
「意識はあります! ですが、負傷しています!」
フェルンは一瞬だけ安堵した。
しかし、兵士は続けた。
「それと……」
「どうした?」
「負傷した兵士が、妙なことを言っています」
「……妙なこと?」
兵士は息を整えた。
「この牙狼は、一頭だけではなかったと」
その言葉に、全員の表情が変わった。
カイが森の奥を見つめる。
「……まさか」
リュシアも弓を握り直した。
「……群れがいる?」
フェルンは兵士へ尋ねた。
「何頭だ?」
「正確な数は分かりません。ただ、少なくとも三頭以上を見たそうです」
レオは息を呑んだ。
目の前の牙狼一頭でさえ、簡単には止められない。
もし、同じ状態の魔物が複数存在するなら。
「……フェルン」
レオが声をかけた。
「このままじゃ、森の外側まで危険が広がる」
フェルンは頷いた。
「……分かっている」
彼は兵士たちへ指示を出した。
「負傷者を連絡所へ運べ。残りの者は周囲を警戒しろ」
そして、レオたちを見た。
「まずは、この一頭をどうにかする」
白き守護者の結界の向こうで、牙狼は苦しそうに身体を震わせていた。
黒い侵食は、今もその身体を蝕んでいる。
レオは拳を握った。
「……絶対に、助ける方法を見つける」
しかし、森の奥からは、別の獣の唸り声が聞こえ始めていた。
黒い侵食は、すでに一頭の魔物だけに留まっていなかった。
――第166話・完――




