第163話「隔絶の印」
エルフェリア大森林。
早朝。
監視隊の連絡所では、フェルンが古い地図を広げていた。
その隣には、エルディンとリュシアが立っている。
「……準備は整いました」
フェルンが報告した。
エルディンは頷いた。
「では、出発しよう」
今日の目的は、封鎖された領域に残る観測術式を調べることだった。
百年前、エルフ族は四つ目の補助石板を封鎖した。
しかし、その際に設けられた観測術式は、現在も結界の外側に残されているという。
レオたちは、その仕組みを利用して石板の状態を確かめることになった。
「……本当に、結界の中へ入らなくても調べられるんですか?」
ミナが尋ねた。
エルディンは頷く。
「少なくとも、術式が正常に機能していればな」
カイが苦笑した。
「……その言い方、ちょっと不安になるな」
「古い術式だから仕方ないよ」
リュシアが答えた。
「百年前から、ほとんど使われていないんだから」
ガイアは静かに口を開いた。
「……だからこそ、慎重に確認する必要がある」
レオは頷いた。
「無理に動かすことはしない。まずは状態を見るだけだ」
白き守護者も、小さく頷いた。
森の奥へ進むにつれて、周囲の景色が変わり始めた。
緑色だった葉は灰色に近づき、木々の根には細い黒い筋が走っている。
リュシアが足を止めた。
「……また広がってる」
彼女の視線の先には、小さな花が咲いていた。
しかし、その花弁の半分は黒く変色している。
ミナがしゃがみ込んだ。
「……昨日までは、こんなところまで来ていませんでしたよね」
フェルンが険しい顔になる。
「侵食の速度が上がっているのかもしれない」
エルディンは花を見つめた。
「……急がねばならぬな」
レオは、森のさらに奥へ視線を向けた。
四つ目の補助石板。
その周囲で起きている異変は、確実に外側へ広がり始めていた。
しばらくして、一行は古い結界の前へ到着した。
二本の巨大な樹木の間に、淡い緑色の光が広がっている。
以前よりも、その光は弱くなっていた。
「……やっぱり薄くなってるな」
カイが呟いた。
フェルンが頷く。
「結界の維持に必要な魔力が不足しているようだ」
エルディンは杖を持ち上げた。
「まずは観測術式を探そう」
老人は結界の左側にある古木へ近づいた。
その根元には、苔に覆われた小さな石柱が埋まっていた。
「……これだ」
リュシアがしゃがみ込む。
「こんなところにあったんだ」
フェルンが苔を取り除く。
石柱の表面には、円形の紋様が刻まれていた。
その中央には、小さな窪みがある。
レオが尋ねた。
「……これが観測術式ですか?」
「ああ」
エルディンは頷いた。
「封鎖された領域の魔力を、外側から確認するためのものだ」
ガイアが石柱を見つめる。
「……だが、魔力の流れがほとんど感じられない」
「長い間、使われていなかったからな」
エルディンは杖を石柱へ向けた。
「まずは、術式そのものが壊れていないか確かめる」
淡い緑色の光が、石柱の表面を流れ始めた。
古い文字が浮かび上がる。
しかし、途中で光が途切れた。
「……やはり、損傷しているか」
エルディンが呟いた。
フェルンが尋ねる。
「修復は可能でしょうか?」
「完全な修復には時間がかかる。だが、観測だけなら一時的に動かせるかもしれぬ」
レオは石柱を見つめた。
「……俺にも手伝えることはありますか?」
エルディンは少し考えた。
「お前の魂導術は、古い境界術と共通する部分がある」
「……はい」
「ただし、魔力を直接流し込むのは危険だ」
レオは頷いた。
「じゃあ、魔力の流れを見るだけにします」
ガイアが隣へ立った。
「……私も確認しよう」
エルディンは杖を握り直した。
「では、始めるぞ」
石柱から、細い緑色の光が結界へ伸びた。
その光は結界の表面を伝い、内側へ向かって広がっていく。
やがて、空中に複雑な術式図が浮かび上がった。
「……すごい」
ミナが呟いた。
リュシアも目を見開く。
「こんな仕組みだったんだ……」
エルディンは術式図を見つめた。
「……これが、封鎖領域の現在の状態だ」
図には、四つの石板を示す紋様が描かれていた。
三つは淡い緑色に輝いている。
しかし、最後の一つだけが暗く沈んでいた。
レオが指差す。
「……これが、四つ目の石板?」
「ああ」
エルディンは頷いた。
「隔絶の印を刻まれた、特別な補助石板だ」
ガイアが目を細めた。
「……魔力の流れがおかしいな」
レオも術式図を見つめた。
三つの石板から伸びる光は、森の中心へ向かっている。
しかし、四つ目の石板から伸びる光だけは、途中で何度も途切れていた。
「……これじゃ、力が届いてない」
レオが呟いた。
エルディンの表情が険しくなる。
「……隔絶の印が弱まっている」
「……隔絶の印って、具体的には何をするものなんですか?」
ミナが尋ねた。
エルディンは術式図を指差した。
「三つの補助石板は、森の魔力を安定させる役割を持っている」
「……はい」
「だが、四つ目は違う」
老人は続けた。
「森のさらに奥から流れ込む異質な力を遮断するためのものだ」
カイが腕を組む。
「……つまり、森を守るための壁みたいなものか」
「そう考えてよい」
ガイアが口を開いた。
「……だが、現在はその壁が弱まっている」
エルディンは頷いた。
「そして、黒い侵食がその隙間から広がっている可能性がある」
レオは術式図を見つめた。
「……じゃあ、四つ目の石板を修復できれば」
「侵食の拡大を抑えられるかもしれぬ」
エルディンは答えた。
「ただし、すでに広がった侵食まで消せるとは限らない」
レオは頷いた。
「……分かりました」
その時だった。
術式図の一部が、突然黒く染まり始めた。
「……長老!」
フェルンが声を上げた。
エルディンはすぐに杖を引いた。
しかし、黒い筋は術式図の中をゆっくりと広がっていく。
ガイアが目を細めた。
「……これは、観測術式を通じて侵食が流れてきているのか?」
「違う」
エルディンは首を振った。
「これは、内側の状態が映し出されているだけだ」
レオは黒い筋を見つめた。
その筋は、四つ目の石板を示す紋様へ集中していた。
「……石板が狙われてる?」
ガイアが頷いた。
「……少なくとも、黒い力がそこへ集まっている」
白き守護者が、静かに前へ出た。
彼女は術式図を見つめた。
そして、四つ目の石板の紋様へ指を向けた。
その指先から、淡い白い光が浮かび上がる。
レオが声をかける。
「……守護者?」
彼女は振り向いた。
その表情には、強い不安が浮かんでいた。
「……何か分かるのか?」
守護者は小さく頷いた。
そして、黒い筋の中心を指差した。
レオは目を凝らした。
そこには、かすかな白い光が残っていた。
「……まだ、石板は抵抗してる」
ガイアが呟いた。
「……だが、長くは持たないかもしれない」
エルディンは静かに頷いた。
「……そのようだ」
観測術式を停止すると、空中の図が消えた。
エルディンは石柱から杖を離した。
「……今日の調査は、ここまでだ」
フェルンが尋ねる。
「長老、今後はどうされますか?」
老人は結界の向こうを見つめた。
「四つ目の石板を調べる必要がある」
リュシアが顔を上げる。
「……中へ入るの?」
「まだ決めておらぬ」
エルディンは答えた。
「まずは、隔絶の印がどのように損傷しているのか、詳しく調べねばならん」
レオは頷いた。
「……俺たちも協力します」
「頼む」
エルディンは静かに答えた。
その時、白き守護者が再び結界を見つめた。
彼女の胸元に、淡い白い光が浮かび上がる。
そして、一瞬だけ。
結界の向こうから、同じ色の光が応えるように輝いた。
レオは目を見開いた。
「……今の」
ガイアが静かに呟いた。
「……四つ目の石板が反応したのか?」
エルディンは答えなかった。
ただ、古い結界の向こうを見つめていた。
三百年前、ヴァルドが残した隔絶の印。
百年前、エルフ族が封鎖した領域。
そして現在、黒い侵食によって弱まり続ける石板。
そのすべてが、少しずつ繋がり始めていた。
しかし、石板の向こうに何が存在するのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
――第163話・完――




