第161話「記憶を映す声」
エルフェリア大森林。
監視隊の連絡所に、夕暮れの光が差し込んでいた。
レオは机に置かれた黒い土を見つめていた。
昨日、古い結界の周辺から採取されたものだ。
その土に残された魔力を調べた時、何者かがレオの名前を呼んだ。
しかし、声の主は分からなかった。
「……ガイア」
「何だ?」
「昨日の声、どう思う?」
ガイアは窓際から振り向いた。
「……私には聞こえなかった」
「うん」
「だが、お前が名前を呼ばれたと感じたことは確かだ」
ガイアは机へ近づいた。
「気になるのは、なぜお前だけに聞こえたのかということだな」
レオは頷いた。
「……魂導術を使っていたからかな」
「可能性はある」
ガイアは『魂導秘録』へ視線を向けた。
「ただし、魂に直接語りかける力なら、私にも何か感じ取れたはずだ」
レオは考え込んだ。
「……じゃあ、魂じゃない?」
「まだ分からない」
ガイアは静かに答えた。
「だが、相手の記憶に触れる力だとすれば、話は変わってくる」
「……記憶?」
「ああ」
ガイアは百年前の封鎖記録を開いた。
「セリアという精霊術師の言葉を覚えているか?」
レオは頷いた。
「『私が聞きたい声を使っていた』……だったよな」
「そうだ」
ガイアは記録を指差した。
「声の主が変わったのではなく、聞く者によって声が変化していた可能性がある」
レオは目を見開いた。
「……つまり、相手の記憶を利用してる?」
「その可能性を調べたい」
翌朝。
エルディンは、連絡所へ一冊の古い日誌を持ってきた。
「……これが見つかった」
レオが顔を上げる。
「何ですか?」
「セリア・ルーフェン本人が残した調査日誌だ」
ガイアが立ち上がった。
「……まだ残っていたのか」
「封鎖後、彼女の遺品と共に保管されていた」
エルディンは日誌を机へ置いた。
表紙は色褪せ、端には細かな傷が残っている。
リュシアが興味深そうに覗き込んだ。
「……セリアさんって、どんな人だったの?」
エルディンは少し考えた。
「優秀な精霊術師だった。慎重で、誰よりも森を大切にしていた」
「……そうなんだ」
「だからこそ、あの異変を放っておけなかったのだろう」
レオは日誌を開いた。
最初の数ページには、森の魔力の流れや精霊の生息状況が細かく記されていた。
しかし、後半になるにつれて内容が変わっていた。
『封鎖区域の内側から、声が聞こえる』
『声は近くにいるようで、姿は見えない』
『呼びかけに応じた者ほど、強い疲労を訴えている』
レオはページをめくった。
そして、ある一文で手を止めた。
『私は、亡き母の声を聞いた』
「……亡くなった母親?」
ミナが呟いた。
レオは続きを読んだ。
『母は私の幼い頃の呼び名を使った。あの名を知る者は、もうほとんどいない』
カイが眉をひそめる。
「……それって、本当に母親だったんじゃないのか?」
ガイアは首を振った。
「そう考えたくなるだろう。だが、日誌には続きがある」
レオは次の行へ視線を落とした。
『母は、私に結界を越えるよう求めた』
『しかし、母が生前に私へ教えた言葉を尋ねると、答えなかった』
レオは息を呑んだ。
『代わりに、同じ言葉を繰り返した』
『こちらへ来て』
「……怖いですね」
ミナが静かに呟いた。
リュシアも険しい表情で日誌を見つめていた。
「亡くなった人の声を使って、結界の中へ誘ってたってこと?」
エルディンが答えた。
「セリアは、そう疑った」
フェルンが腕を組む。
「ならば、声に応じなければ問題ないのでは?」
「それだけでは済まなかったようだ」
ガイアが日誌の最後を指差した。
レオは続きを読んだ。
『声を無視しても、頭の中に知らない景色が浮かぶようになった』
『私は母の顔を思い出そうとした。しかし、思い浮かぶのは見知らぬ暗い場所ばかりだった』
『何かが、私の記憶に別のものを重ねようとしている』
レオは本を閉じかけた。
「……記憶を書き換えようとしていた?」
「断定はできない」
ガイアは答えた。
「だが、少なくとも声を聞かせるだけの現象ではなかったようだ」
エルディンは深く息を吐いた。
「百年前、セリアは意識を失った。目覚めた後も、しばらく母親の顔を思い出せなかったそうだ」
リュシアが俯いた。
「……そんな」
「幸い、時間と共に記憶は戻った。しかし、彼女は二度と封鎖区域へ近づかなかった」
レオは日誌を見つめた。
自分の名前を呼んだ声。
もし、あれに応じていたら。
自分も、何かを失っていたのだろうか。
「……一つ、確認したい」
ガイアが口を開いた。
「レオ。昨日、名前を呼ばれた時、何か景色は見えなかったか?」
レオは考え込んだ。
「……景色?」
「ああ。声以外に、何か感じたことは?」
「……そういえば」
レオは目を閉じた。
昨日の出来事を思い返す。
黒い魔力が伸びてきた瞬間。
自分の名前を呼ぶ声。
そして、一瞬だけ感じた奇妙な懐かしさ。
「……誰かに呼ばれた気がしたんだ」
ガイアが尋ねる。
「誰に?」
「分からない。でも、知らない声なのに……知ってる気がした」
エルディンの表情が変わった。
「……セリアの記録と似ておるな」
レオは頷いた。
「……はい」
その時、白き守護者が静かに近づいてきた。
彼女はレオの手を握った。
淡い白い光が、二人の手の間に広がる。
レオは驚いた。
「……守護者?」
彼女はレオの胸元を指差した。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
ガイアが静かに呟く。
「……記憶を探ろうとするな、ということか?」
守護者は頷いた。
レオは彼女を見つめた。
「……思い出そうとするだけでも危険なのか?」
守護者は少し迷った後、再び頷いた。
エルディンが口を開いた。
「……無理に思い出す必要はない」
レオは静かに答えた。
「……分かりました」
その日の午後。
レオたちは、日誌の最後のページを調べていた。
そこには、セリアが意識を失う直前に書いた短い文章が残されていた。
『声は、私の記憶を映している』
『しかし、すべてを知っているわけではない』
『私が思い出せないことには、答えられない』
ガイアが目を細めた。
「……なるほど」
レオが尋ねる。
「何か分かった?」
「ああ。もし声が記憶を利用しているのなら、相手の知らないことまで自由に語れるわけではないのかもしれない」
レオは頷いた。
「……つまり、偽物かどうか確かめる方法がある?」
「可能性はある」
しかし、エルディンが首を振った。
「それを確かめるために、再び声を聞くのは危険だ」
「……はい」
レオは素直に頷いた。
「今は、記録を調べるだけにします」
フェルンが少し意外そうな顔をした。
「……無理に試そうとはしないんだな」
レオは苦笑した。
「俺だって、危険だって分かれば慎重になるよ」
カイが笑った。
「たまにな」
「たまにって何だよ」
ミナも小さく笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
夕暮れ。
レオは連絡所の外に出て、森の奥を見つめていた。
白き守護者が隣へ並ぶ。
「……守護者」
彼女が顔を上げる。
「昨日の声、俺の記憶を使ってたのかな」
守護者は答えなかった。
ただ、静かに森の奥を見つめている。
レオは続けた。
「もしそうなら、俺のことをどこまで知ってるんだろう」
彼女はレオの袖を握った。
その仕草には、強い不安が感じられた。
レオは小さく頷いた。
「……分かってる。無理はしない」
その時、守護者の胸元に淡い白い光が浮かび上がった。
光は一瞬だけ、森の奥へ伸びた。
そして、すぐに消えた。
レオは目を見開いた。
「……今のは?」
守護者は険しい表情で、古い結界の方角を見つめていた。
まるで、何かの存在を感じ取ったかのように。
森の奥。
封鎖された領域では、黒い侵食が静かに広がり続けていた。
そして、その奥に残された四つ目の石板は、今も弱々しい白い光を放っている。
声の正体は、まだ分からない。
しかし、一つだけ明らかになったことがあった。
その声は、聞く者の記憶を利用している。
そして、何者かが結界の向こうへ人を誘い込もうとしていた。
――第161話・完――




