第160話「呼びかける声」
エルフェリア大森林。
監視隊の連絡所に、朝の光が差し込んでいた。
レオは机に広げられた二冊の記録を見比べていた。
一冊は、三百年前の魂導術について記された『魂導秘録』。
もう一冊は、エルディンが持参した百年前の封鎖記録だった。
「……やっぱり、おかしい」
レオが呟く。
向かいに座っていたガイアが顔を上げた。
「何か見つけたのか?」
「ああ。昨日聞こえた声についてなんだけど」
レオは封鎖記録の一節を指差した。
「百年前にも、結界の向こうから助けを求める声が聞こえていたらしい」
「……同じ現象だな」
「でも、記録を読むと、少し変なんだ」
ガイアは身を乗り出した。
レオが指差した文章には、こう記されていた。
『第一調査隊、声を確認。女性と思われる声が救助を求める』
その下には、別の日付の記録があった。
『第二調査隊、男性と思われる声を確認。負傷者の存在を疑う』
ガイアが目を細めた。
「……声の主が違うのか」
「それだけじゃない」
レオは次の記録を示した。
『第三調査隊、幼い子供の声を確認』
ガイアは黙り込んだ。
「……三つとも、違う声だったんだ」
レオが続ける。
「でも、誰も結界の内側で人を見つけていない」
ガイアは腕を組んだ。
「……声を聞いた者によって、聞こえ方が変わっている可能性があるな」
レオは頷いた。
「俺もそう思う」
「……それなら、私にも聞かせてください」
背後から声がした。
振り向くと、ミナが立っていた。
その隣にはカイもいる。
「お前ら、朝からずっと調べてたのか?」
カイが呆れたように尋ねた。
「気になって、早く目が覚めたんだ」
レオが答える。
カイは机の記録を覗き込んだ。
「……声が変わるって、どういうことだ?」
「まだ分からない。でも、百年前の調査隊は、それぞれ違う声を聞いてる」
ミナは記録を読み進めた。
「……あれ?」
レオが顔を上げる。
「どうした?」
「ここに、気になることが書いてあります」
彼女は最後の調査報告を指差した。
『声を聞いた者の一部に、強い疲労と記憶の混乱を確認』
レオの表情が変わった。
「……記憶の混乱?」
「はい。声を聞いた後、自分が誰に呼ばれたのか思い出せなくなった人もいたようです」
ガイアが静かに呟く。
「……ただの幻聴ではなさそうだ」
カイは腕を組んだ。
「だったら、昨日の声も危険だったってことか」
「その可能性はある」
レオは『魂導秘録』へ視線を戻した。
『境界の向こうより届く声を、すべて真実と思うな』
ヴァルドが残した警告。
その意味が、少しずつ見えてきた気がした。
昼前。
エルディンが連絡所へ姿を現した。
フェルンとリュシアも同行している。
「調査は進んだか?」
老人の問いに、レオは記録を差し出した。
「はい。百年前の声について、気になることが分かりました」
エルディンは説明を聞き終えると、深く考え込んだ。
「……確かに、当時も声の主は特定できなかった」
リュシアが尋ねる。
「おじいちゃん、その声を聞いた人たちは、どうなったの?」
「大半は数日で回復した。だが、一人だけ長く意識を取り戻せなかった者がおる」
「……一人?」
「ああ」
エルディンは記録の最後のページを開いた。
そこには、一人の精霊術師の名前が記されていた。
セリア・ルーフェン。
「当時、封鎖術式の調査を担当していた術師だ」
フェルンが尋ねる。
「その者は、何を見たのですか?」
「目覚めた後、ある言葉を残した」
エルディンは静かに続けた。
「『あれは私を呼んでいたのではない。私が聞きたい声を使っていた』とな」
部屋が静まり返った。
レオは息を呑んだ。
「……聞きたい声?」
ガイアが口を開いた。
「相手の記憶にある声を真似ていた、ということか」
「セリアは、そう考えていたようだ」
ミナが不安そうに尋ねる。
「では、昨日聞こえた声も……」
「誰かが本当に助けを求めていたとは限らぬ」
エルディンは答えた。
「ただし、これだけで声の正体を断定することもできん」
レオは頷いた。
「……確かめる必要がありますね」
「一つ、試したいことがあります」
レオの言葉に、フェルンが眉をひそめた。
「何をするつもりだ?」
「声が魂に直接届いているのか、それとも魔力を通じて聞こえているのか、調べたいんです」
ガイアが顔を上げる。
「……なるほど」
レオは彼を見た。
「ガイアなら、俺たちとは違う形で声を感じ取れるかもしれない」
フェルンは首を振った。
「危険だ。昨日の現象が何だったのかも分かっていない」
「結界には近づきません」
レオは答えた。
「まずは、ここに残された魔力の記録を調べるだけです」
エルディンが尋ねる。
「……方法はあるのか?」
「『魂導秘録』に、魂へ干渉する魔力を見分ける術式が載っています」
レオは本を開いた。
「ただ、俺だけでは難しいと思います」
ガイアが静かに頷いた。
「……私も手伝おう」
フェルンは二人を見つめた。
「死霊術を使うのか?」
「魂を呼び出したり、縛ったりする術じゃない」
レオは説明した。
「魔力の痕跡を調べるための術式だよ」
エルディンは少し考えた。
「……私も立ち会おう。異常があれば、すぐに中止する」
フェルンは渋々頷いた。
「……分かりました」
午後。
連絡所の裏手にある小さな広場。
レオは地面に簡単な術式を描いていた。
中央には、昨日フェルンが採取した結界周辺の土が置かれている。
「……これでいいかな」
ガイアが術式を確認する。
「ああ。ただし、魔力を流しすぎるな」
「分かってる」
エルディンとフェルンは少し離れた場所で見守っていた。
ミナとカイ、リュシアもその後ろに立っている。
白き守護者は、レオの隣で静かに待っていた。
レオは両手を術式へ向けた。
「……始めるぞ」
淡い紫色の光が地面に広がった。
採取された土の中から、細い黒い魔力が浮かび上がる。ガイアが目を細めた。
「……やはり、何かが残っている」
レオは集中した。
黒い魔力は細い糸のように伸び、術式の中央で揺れている。
「……魂の気配は?」
ガイアが尋ねる。
レオは首を振った。
「……まだ分からない」
その時。
黒い糸が、突然レオの方へ伸びた。
「レオ!」
ミナが声を上げる。
レオは魔力の供給を止めようとした。
しかし、その直前。
耳元で、かすかな声が聞こえた。
『……レオ……』
彼の身体が固まった。
「……え?」
それは、確かに自分の名前だった。
ガイアが異変に気づく。
「……レオ、術を止めろ!」
レオは慌てて魔力を遮断した。
紫色の光が消える。
黒い糸も、土の中へ沈んでいった。
「……大丈夫か?」
カイが駆け寄った。
レオは額の汗を拭った。
「……ああ」
ミナが心配そうに尋ねる。
「何か聞こえたんですか?」
レオは頷いた。
「……俺の名前を呼ばれた」
リュシアが息を呑んだ。
「……名前?」
「うん。確かに、レオって」
ガイアは険しい表情で術式を見つめた。
「……私には聞こえなかった」
エルディンが近づいた。
「……何者かが、お前に直接呼びかけたのかもしれぬな」
レオは首を振った。
「……でも、誰の声なのか分からなかった」
白き守護者が、そっとレオの手を握った。
彼女は心配そうに彼を見つめている。
レオは小さく笑った。
「……大丈夫」
しかし、守護者は首を横に振った。
そして、地面に残された術式を指差した。
その指先から、淡い白い光が広がる。
光が土に触れると、黒い魔力が一瞬だけ浮かび上がった。
ガイアが目を見開いた。
「……これは」
黒い糸の先端には、極めて小さな紋様が浮かんでいた。レオは息を呑んだ。
「……見たことがある」
それは、北方の境界で目撃した黒い侵食に似た形をしていた。
しかし、完全に同じではなかった。
エルディンが静かに呟いた。
「……古い境界の力と、何らかの繋がりがあるのかもしれぬ」
レオは黒い紋様を見つめた。
名前を呼ぶ声。
相手が聞きたい声を使う謎の存在。
そして、境界に残された黒い魔力。
そのすべてが、一つの疑問へ繋がっていた。
なぜ、声はレオの名前を知っていたのか。
答えは、まだ見つからなかった。
――第160話・完――




