第158話「長老の記憶」
エルフェリア大森林、深部。
翌朝。
監視隊の連絡所に、一人の老人が姿を現した。
「……待たせたな」
エルフ族の長老、エルディンだった。
「おじいちゃん!」
リュシアが駆け寄る。
「こんな奥まで来て大丈夫なの?」
「まだお前に心配されるほど衰えてはおらんよ」
エルディンは微笑んだ。
しかし、その表情には疲労が滲んでいた。
フェルンが一歩前へ出る。
「長老。昨夜の報告についてですが……」
「ああ。書簡は読んだ」
エルディンはレオを見た。
「四つ目の補助石板を発見したそうだな」
「正確には、石板と思われる光を確認しただけです」
レオは地図を広げた。
「でも、位置は『魂導秘録』に描かれたものと一致しています」
エルディンは地図を覗き込んだ。
そして、ある一点で視線を止めた。
「……やはり、あそこか」
レオが顔を上げる。
「……何か知っているんですか?」
老人はしばらく沈黙した。
やがて、静かに頷いた。
「……話しておかねばならぬようだな」
連絡所の奥にある小さな部屋。
レオたちは、エルディンを囲むように座っていた。
窓の外では、朝日が木々の間から差し込んでいる。
エルディンは古びた巻物を机に広げた。
「これは、私が若い頃に記したものだ」
カイが驚いた。
「若い頃って……三百年前か?」
「ああ」
エルディンは頷いた。
「ヴァルドが、この森を訪れた頃の記録だ」
白き守護者が静かに顔を上げた。
エルディンは彼女へ視線を向ける。
「……お前も覚えておるだろう」
守護者は小さく頷いた。
老人は巻物の一節を指差した。
「当時、この森の結界は今ほど安定しておらんかった」
レオが尋ねる。
「どうしてですか?」
「森の地下には、古くから複雑な魔力の流れがあった。精霊術だけでは制御しきれぬ場所も存在したのだ」
ガイアが頷く。
「……そこで、魂導術を取り入れたのか」
「その通りだ」
エルディンは続けた。
「ヴァルドは、魂と精霊の力を直接混ぜ合わせようとはしなかった。互いの性質を保ったまま、境界を支える仕組みを考えた」
レオは『魂導秘録』を開いた。
「……四つの補助石板ですね」
「ああ」
老人は地図を指差した。
「三つは森の魔力を整えるためのもの。そして、最後の一つには別の役割があった」
リュシアが身を乗り出す。
「……別の役割?」
エルディンは静かに答えた。
「境界の奥から流れ込む異質な力を、食い止めることだ」
部屋が静まり返った。
レオは四つ目の石板が描かれた場所を見つめた。
「……つまり、今の黒い侵食を止めるためのものだったんですか?」
「断言はできぬ」
エルディンは首を振った。
「当時の異変と、今起きている現象が同じものとは限らんからな」
ガイアが口を開く。
「……だが、役割は似ている」
「そうだ」
エルディンは巻物をめくった。
そこには、四つ目の石板の詳細な図が描かれていた。
円の中央に、一本の線。
レオが昨日見つけた紋様と同じものだった。
「……この印は?」
「境界を隔てるためのものだ」
エルディンは指先で線をなぞった。
「ヴァルドは、これを『隔絶の印』と呼んでいた」
レオは呟いた。
「……隔絶の印」
「本来、この石板は森の奥から流れ込む異質な魔力を遮断する役目を担っていた」
ミナが尋ねる。
「それなら、どうして今は侵食が広がっているんでしょうか?」
エルディンの表情が曇った。
「……分からぬ」
老人は少し間を置いた。
「ただし、石板が正常に機能していない可能性は高い」
フェルンが腕を組む。
「……修復できれば、侵食を止められるかもしれないということですか」
「可能性はある」
レオは顔を上げた。
「……だったら、調べる必要がありますね」
エルディンは頷いた。
「そのために、私はここへ来た」
「……でも、一つ気になることがあります」
レオが口を開いた。
「百年前の地図では、四つ目の石板がある場所が立入禁止区域になっています」
エルディンは目を閉じた。
「……それについても、話さねばならんな」
リュシアが首を傾げる。
「おじいちゃん?」
老人は静かに続けた。
「百年ほど前、この森で大きな異変が起きた」
フェルンが顔を上げた。
「……古い結界の封鎖記録ですか?」
「ああ」
エルディンは頷いた。
「ある日、四つ目の石板の周辺で精霊たちが姿を消し始めた」
レオたちの表情が変わった。
「……今と同じだ」
カイが呟いた。
エルディンは続けた。
「当時の精霊術師たちは原因を調べようとした。しかし、石板へ近づいた者の中に、意識を失う者が現れた」
ミナが息を呑む。
「……そんな」
「幸い、命を落とした者はいなかった。だが、目覚めた者たちは、奇妙なことを口にした」
ガイアが尋ねる。
「……何を?」
エルディンは静かに答えた。
「『誰かが、向こう側から呼んでいた』とな」
レオは目を見開いた。
「……向こう側?」
「ああ。声の主は分からなかった」
老人は巻物を閉じた。
「当時の評議会は、これ以上の被害を防ぐため、石板周辺を封鎖した」
フェルンが頷く。
「……それで、結界の境界線が変更されたのですね」
「そうだ」
リュシアは俯いた。
「……そんなことがあったなんて」
エルディンは孫娘を見た。
「封鎖の理由を知る者は、今では少ない」
レオは考え込んでいた。
三百年前に造られた四つの補助石板。
百年前に起きた異変。
そして、現在広がり続ける黒い侵食。
「……長老」
「何だ?」
「百年前に聞こえた声は、ヴァルドのものだった可能性はありませんか?」
エルディンは首を振った。
「分からぬ。ヴァルドの魂は境界に残されているが、あの場所から声が届く仕組みまでは、私も知らぬ」
ガイアが静かに続けた。
「……それに、声の主が善意を持っているとは限らない」
「そうだな」
レオは頷いた。
その時、白き守護者が静かに立ち上がった。
彼女は机の上の巻物へ近づいた。
そして、四つ目の石板を指差した。
エルディンが尋ねる。
「……何か思い出したのか?」
守護者は頷いた。
彼女の指先に、淡い白い光が宿る。
その光が巻物の上に広がった。
すると、一つの光景が浮かび上がった。
巨大な樹木の根元。
四つ目の石板。
その前に立つヴァルド。
そして、もう一人。
黒い外套をまとった人物が、石板へ手を伸ばしていた。
レオが息を呑む。
「……この人は?」
エルディンは目を細めた。
「……顔が見えぬ」
ガイアが静かに呟く。
「……三百年前の記憶か」
守護者は頷いた。
しかし、映像はそこで途切れた。
レオは彼女を見た。
「……まだ、思い出せないのか?」
守護者は悲しげに目を伏せた。
レオは静かに答えた。
「……無理しなくていい」
彼女は小さく頷いた。
しばらくして。
エルディンは杖を手に立ち上がった。
「……決めた」
フェルンが顔を上げる。
「長老?」
「四つ目の石板を調べる必要がある」
老人はレオたちを見渡した。
「ただし、危険な場所であることに変わりはない」
レオは頷いた。
「分かっています」
「私が同行し、古い結界の状態を確認する」
フェルンが驚いた。
「……長老自らですか?」
「ああ。あの石板を設置した時代を知る者として、責任がある」
リュシアが心配そうに尋ねた。
「……おじいちゃん、大丈夫?」
エルディンは微笑んだ。
「心配するな。無茶をするつもりはない」
そして、レオへ視線を向けた。
「明朝、古い結界の入口へ向かう。まずは外側から石板の状態を調べる」
「はい」
レオは力強く頷いた。
夜。
連絡所の外では、静かな風が吹いていた。
レオは一人、木々の間から見える星空を眺めていた。
そこへ、ガイアが近づいてきた。
「……眠れないのか?」
「ちょっとな」
レオは微笑んだ。
「三百年前も、百年前も、何かが起きてたんだなって」
ガイアは頷いた。
「……ああ」
「それなのに、まだ誰も原因を突き止められてない」
「簡単に答えが出る問題ではないのだろう」
レオは森の奥を見つめた。
「……でも、放っておけない」
ガイアが静かに尋ねる。
「……怖くはないのか?」
レオは少し考えた。
「……怖いよ」
そして、小さく笑った。
「でも、一人じゃないから」
ガイアは穏やかに頷いた。
「……そうだな」
森の奥。
黒い侵食に囲まれた四つ目の石板は、今も弱々しい白い光を放っている。
三百年前の記憶。
百年前の異変。
そして、現在。
異なる時代に起きた出来事が、一つの場所へ集まり始めていた。
――第158話・完――




