第149話「揺らぐ結界」
エルフェリア大森林、精霊の試練場。
六本の石柱に囲まれた広場には、重苦しい沈黙が流れていた。
先ほどまで淡い緑色の光を放っていた石柱。その一本に、細い黒い線が浮かび上がっている。
線は石柱の表面を斜めに横切り、古代文字の一部を覆っていた。
「……これは、一体どういうことだ?」
フェルンが険しい表情で尋ねた。
長老エルディンは石柱へ近づき、刻まれた文字を調べていた。
「まだ分からぬ。だが、自然に生じた傷ではない」
「何者かが結界を破壊しようとしているのですか?」
「その可能性もある」
フェルンは周囲のエルフたちへ視線を向けた。
「監視隊は警戒を強めろ。外縁部に異常がないか確認するんだ」
「了解しました」
二人のエルフが広場を離れていった。
レオは石柱を見つめていた。
黒い線から、かすかな魔力を感じる。
それは、以前にも触れたことのある気配だった。
「……ガイア」
「どうした?」
「この魔力、何かに似てないか?」
ガイアは石柱へ近づいた。
彼はレオが初めて契約した死者であり、生者とは異なる感覚で魂の気配を捉えることができる。
しばらく観察した後、ガイアは静かに答えた。
「……似ているな」
「やっぱり?」
「ああ。ただし、同じものとは断定できない」
カイが二人を見た。
「何の話だ?」
レオは答えた。
「北方の境界で見た、あの黒い印だ」
ミナの表情が変わった。
「……三百年前の記録にあった?」
「ああ」
ヴァルドたちが封じた境界の向こう側。
そこには、魂を侵食する謎の存在がいた。
その正体は、今も分かっていない。
レオは石柱を見つめた。
「……もし関係しているなら、放っておけない」
その時、エルディンが振り向いた。
「今、何と言った?」
レオは老人を見た。
「この黒い線に、見覚えがあるんです」
エルディンの目が細くなった。
「……詳しく聞かせてもらおう」
レオは、地下遺跡で見た三百年前の記録について説明した。
ヴァルドとアシュレイ。
魂導院。
北方の境界。
そして、魂を侵食する黒い印。
エルディンは途中で口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
「……なるほど」
話を聞き終えた老人は、深く息を吐いた。
「北方の封印については、私も一部しか知らぬ」
レオが尋ねた。
「エルフ族も関係していたんですか?」
「ああ。境界術は、もともと人間だけが扱っていた技術ではない」
エルディンは石柱に刻まれた文字へ手を伸ばした。
「古い時代、エルフ族は精霊の力を利用して、世界の境界を安定させる術を研究していた」
ガイアが頷いた。
「……自然の魔力を使った境界術か」
「そうだ」
エルディンは続けた。
「だが、死者の魂を扱う術とは相性が悪かった。生と死の魔力は、性質が大きく異なるからな」
レオは考え込んだ。
「……それをヴァルドが結びつけた?」
「正確には、互いの術を補い合う方法を探していた」
老人は静かに答えた。
「彼は死者を支配することを嫌っていた。だからこそ、私たちも彼の研究に耳を傾けたのだ」
リュシアが驚いた。
「おじいちゃん、ヴァルドって人と一緒に研究してたの?」
「短い間だけだがな」
「……初めて聞いた」
「森の中でも、知っている者は少ない」
フェルンが口を開いた。
「長老。今は昔話をしている場合ではありません」
エルディンは頷いた。
「分かっておる」
フェルンはレオへ視線を向けた。
「それに、黒い印が現れたのは、このネクロマンサーが石台に触れた後です」
レオの表情が変わった。
「……俺が原因だって言いたいのか?」
「可能性はある」
カイが一歩前へ出た。
「おい、ちょっと待てよ」
フェルンは冷静に続けた。
「これまで、この試練場で同じ現象が起きた記録はない。少なくとも、俺が知る限りはな」
「だからって、レオのせいにするのはおかしいだろ」
「原因を調べるために疑っているだけだ」
二人の間に緊張が走った。
「カイ」
レオが声をかけた。
カイは振り向く。
「……何だよ」
「いいんだ。確かに、俺が来てから反応したのは事実だから」
「でもよ……」
「疑われる理由は分かる」
レオはフェルンを見た。
「ただ、俺も原因を知りたい。調べるなら協力する」
フェルンは少し意外そうな表情を浮かべた。
「……本気か?」
「ああ」
「自分が疑われているのに?」
「何もしてないなら、調べてもらった方がいいだろ」
フェルンは答えなかった。
その様子を見ていたリュシアが、小さく口を開いた。
「……私も、レオが何かしたようには見えなかった」
フェルンが振り向く。
「リュシア」
「だって、ずっと座ってただけだよ。魔法も使ってなかった」
「それは分かっている」
「じゃあ、決めつけるのは早いと思う」
フェルンは眉をひそめた。
しかし、反論はしなかった。
エルディンが杖を持ち上げる。
「……よかろう」
全員の視線が老人へ集まった。
「まずは石柱を調べる。それまでは、審査を中断する」
レオが尋ねた。
「俺たちは、どうすれば?」
「この場で待っていてほしい。森の奥へ進むことは許可できぬ」
「分かりました」
エルディンは頷いた。
「リュシア。客人たちの監督を頼む」
「うん」
「フェルンは、私と共に石柱を調べるのだ」
「承知しました」
試練場の端。
レオたちは、大きな樹木の根元で休んでいた。
カイは地面に座り込み、腕を組んでいる。
「……何だか面倒なことになったな」
ミナが隣に腰を下ろした。
「仕方ありませんよ。エルフの皆さんにとって、森の結界は大切なものですから」
「それは分かるけどよ」
カイは石柱の方角を見た。
「俺たちが来たせいだって思われるのは、気分が良くねえ」
レオは苦笑した。
「まだ、そう決まったわけじゃないだろ」
「お前は気にならねえのか?」
「気にならないわけじゃないよ」
レオは静かに答えた。
「でも、怒っても何も変わらないからな」
カイはしばらくレオを見つめた。
「……お前、前より落ち着いたな」
「そうか?」
「ああ。昔なら、もう少し慌ててただろ」
ガイアが小さく笑った。
「確かにな」
レオは二人を見た。
「……何だよ、二人して」
「成長したということだ」
ガイアは穏やかに答えた。
ミナも微笑んだ。
「私もそう思います」
レオは少し照れくさそうに顔を背けた。
その様子を、リュシアが不思議そうに見つめていた。
「……ねえ」
レオが振り向く。
「どうした?」
リュシアはガイアを指差した。
「ずっと気になってたんだけど……ガイアって、本当に死者なの?」
ガイアは頷いた。
「ああ」
「でも、普通に話すし、歩くし……」
「死者だからといって、必ずしも意思を失うわけではない」
ガイアは静かに答えた。
「私は、レオとの契約によって現世に留まっている」
リュシアは首を傾げた。
「……契約をやめたいと思ったことはないの?」
レオは黙ってガイアを見た。
ガイアは少し考えた。
「今のところはないな」
「……どうして?」
「まだ、見届けたいものがあるからだ」
「見届けたいもの?」
ガイアはレオへ視線を向けた。
「この少年が、どのような未来を選ぶのか」
レオが驚いた。
「……ガイア」
「初めて出会った頃から、随分と成長した。だが、まだ道の途中だ」
ガイアは穏やかに笑った。
「だから、もうしばらく付き合うつもりだ」
リュシアは二人を見比べた。
「……不思議な関係」
レオが笑った。
「そうかもしれないな」
「普通のネクロマンサーと死者って、もっと怖い関係だと思ってた」
「そういう奴もいると思う」
レオは頷いた。
「でも、俺は違うやり方を選びたいんだ」
リュシアは少し考えた。
「……そっか」
彼女はガイアを見た。
「じゃあ、ガイアも旅の仲間なんだね」
「ああ」
ガイアは頷いた。
「そのつもりだ」
リュシアは小さく微笑んだ。
「……なんか、いいね」
その頃。
試練場の中央では、エルディンとフェルンが石柱を調べていた。
「……長老」
フェルンが声をかけた。
「この黒い線、魔力を流しても消えません」
エルディンは杖の先端を石柱へ近づけた。
緑色の光が黒い線を包み込む。
しかし、光はその部分だけを避けるように流れていった。
「……やはりな」
「何か分かったのですか?」
「これは、結界そのものの傷ではない」
フェルンが眉をひそめた。
「……どういう意味です?」
エルディンは石柱の根元を指差した。
「結界を維持する魔力の流れが、外部から干渉を受けている」
「外部から?」
「そうだ。石柱に現れた黒い線は、その影響が表面化したものだろう」
フェルンは考え込んだ。
「……では、森の外から何者かが術を使っている?」
「それも考えられる。だが、魔力の流れを辿る限り、異変の中心は森の深部にある」
「深部……」
エルディンは静かに頷いた。
「古い石碑が置かれている場所だ」
フェルンの表情が変わった。
「……境界の石碑ですか?」
「ああ」
老人は昨夜の出来事を思い出していた。
石碑に広がる黒い濁り。
そして、どこからともなく聞こえた声。
『……森を……守れ……』
あれが何者の声だったのか、エルディンにも分からない。
しかし、石碑の異変と試練場の反応が無関係とは思えなかった。
「……フェルン」
「はい」
「深部の監視隊へ連絡を取れ。石碑の周辺に異常がないか確認させるのだ」
「承知しました」
フェルンは頷き、近くにいたエルフの兵士へ指示を出した。
兵士は森の奥へ向かって走り出した。
エルディンは石柱を見つめた。
「……ヴァルド」
老人は小さく呟いた。
「お前が恐れていたことが、起ころうとしているのか……?」
しばらくして。
レオは白き守護者と共に、試練場の端を歩いていた。
守護者は先ほどから、落ち着かない様子だった。
何度も森の奥を見つめ、胸元に手を当てている。
「……守護者」
レオが声をかけた。
彼女は顔を上げた。
「何か感じるのか?」
守護者は頷いた。
「……黒い印のこと?」
再び頷く。
レオは少し考えた。
「北方の境界で見たものと、同じなのか?」
守護者は、すぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……違う?」
守護者は頷いた。
そして、少し迷うように手を動かした。
レオは彼女の仕草を見つめた。
「……似てるけど、同じじゃないってことか?」
守護者は、今度ははっきりと頷いた。
「……なるほど」
レオは森の奥へ視線を向けた。
三百年前、北方の境界でヴァルドたちは謎の存在を封じた。
しかし、あの存在が何者なのかは分かっていない。
そして今、エルフの森にも黒い異変が現れている。
二つの出来事には、何らかの繋がりがあるのだろうか。
レオが考えていると、守護者が彼の手を取った。
「……どうした?」
彼女の掌から、淡い白い光が広がる。
光は細い線となり、森の奥へ伸びていった。
その先には、巨大な樹木が立ち並んでいる。
レオは目を細めた。
「……あっちに、何かあるんだな」
守護者は頷いた。
「分かった。でも、今は勝手に行けない」
レオは静かに続けた。
「長老に話してみよう」
守護者は少し安心したように微笑んだ。
試練場の中央。
レオはエルディンへ近づいた。
「……長老」
老人が振り向く。
「どうした?」
「守護者が、森の奥に何かを感じているみたいなんです」
エルディンの表情が変わった。
「……何?」
レオは守護者を見た。
彼女は森の奥を指差した。
その方角を見た瞬間、エルディンは眉をひそめた。
「……あちらか」
レオが尋ねた。
「何かあるんですか?」
エルディンは少し迷った。
そして、静かに答えた。
「古い石碑がある」
「……石碑?」
「ああ。三百年前から、この森の境界を見守ってきたものだ」
レオの表情が変わった。
「……ヴァルドに関係しているんですか?」
エルディンは頷いた。
「深い関係がある」
レオは思わず一歩前へ出た。
「だったら、俺たちも……」
「待ちなさい」
エルディンが制した。
「まだ入森の審査は終わっておらぬ」
レオは足を止めた。
「……そうでした」
「お前たちを森の深部へ案内するには、長老として正式な判断が必要だ」
「……分かりました」
エルディンは守護者を見つめた。
「だが、この者が異変を感じ取っているのなら、無視するわけにもいかぬ」
老人は考え込んだ。
「……ひとまず、審査を続けるかどうかを判断しよう」
その時だった。
森の奥から、一人のエルフの兵士が姿を現した。
先ほど、石碑の調査へ向かった伝令だった。
兵士は息を切らしながら、エルディンの前で立ち止まった。
「長老!」
エルディンが振り向く。
「何事だ?」
「深部の監視隊から報告です!」
兵士の表情には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「境界の石碑に異変が発生しています!」
エルディンの目が細くなる。
「……詳しく話せ」
「石碑の周囲で、精霊たちが次々と姿を消しています!」
リュシアが顔を上げた。
「……精霊が?」
「はい。それだけではありません」
兵士は言葉を続けた。
「石碑を中心に、森の魔力が不安定になっています。周囲の木々にも異常が現れ始めました」
フェルンが険しい表情になる。
「監視隊は何をしている?」
「現場の封鎖を進めています。しかし、原因が分からず……」
エルディンは杖を握り直した。
「……そうか」
レオは守護者を見た。
彼女は、じっと森の奥を見つめていた。
その表情には、強い不安が浮かんでいる。
レオは静かに尋ねた。
「……長老」
エルディンが振り向く。
「俺たちに、何かできることはありませんか?」
フェルンが口を開いた。
「勝手なことを言うな。お前たちは、まだ審査中の身だ」
レオは頷いた。
「分かってる」
「ならば……」
「でも、守護者は何かを知っているかもしれない」
レオは続けた。
「それに、俺たちは三百年前の境界で何が起きたのか、記録を見てきたんです」
エルディンは黙って聞いていた。
「役に立てるかどうかは分かりません。でも、何もしないで待っているだけなのは……」
レオは言葉を止めた。
そして、静かに頭を下げた。
「……お願いします。調査に協力させてください」
エルディンは、しばらくレオを見つめていた。
やがて、口を開いた。
「……今すぐ答えを出すことはできぬ」
レオが顔を上げる。
「……はい」
「森の掟は、私一人の判断で軽々しく曲げられるものではない」
老人は続けた。
「だが、お前たちの力が必要になる可能性はある」
フェルンが振り向いた。
「長老……」
エルディンは静かに告げた。
「まずは森の評議会へ報告する。その結果が出るまでは、試練場から出ないように」
レオは頷いた。
「……分かりました」
エルディンは兵士へ向き直った。
「監視隊には、石碑への接近を控えるよう伝えよ。原因が分からぬ以上、無理に調べるべきではない」
「承知しました!」
兵士は頭を下げ、再び森の奥へ向かった。
夕刻。
試練場には、再び静けさが戻っていた。
レオたちは、広場の端で待機していた。
エルディンは評議会への報告のため、森の深部へ戻っている。
フェルンも監視隊の指揮へ向かった。
残っているのは、リュシアと数人のエルフの監視者だけだった。
「……ねえ、レオ」
リュシアが声をかけた。
「何だ?」
「本当に、森の異変を調べるつもりなの?」
レオは頷いた。
「ああ」
「……危険かもしれないよ」
「分かってる」
「それでも?」
レオは少し考えた。
「俺たちは、ヴァルドたちが残したものを守りたいんだ」
リュシアは黙って聞いていた。
「それに、この森で暮らしている人たちが困ってるんだろ?」
「……うん」
「だったら、できることがあるなら手伝いたい」
リュシアは、しばらくレオを見つめた。
そして、小さく笑った。
「……本当に変わってるね」
レオも笑った。
「またそれか」
「だって、普通は森に入れないって言われたら怒るか、諦めるかするのに」
「……そうかな」
「うん」
リュシアは森の奥を見た。
「……でも」
レオが顔を上げる。
「……でも?」
「少しだけ、あなたたちのことが分かってきた気がする」
レオは微笑んだ。
「……そっか」
リュシアは頷いた。
しかし、その表情にはまだ迷いが残っていた。
彼女はエルフ族の一員だった。
森の掟を守ることは、幼い頃から教えられてきた大切な務めである。
一方で、目の前の人間たちが森を傷つけようとしているようには見えなかった。
その二つの思いの間で、リュシアは答えを出せずにいた。
同じ頃。
エルフェリア大森林、深部。
巨大な樹木の根元に置かれた、古い石碑。
その周囲には、数人のエルフの監視者が配置されていた。
石碑の表面には、黒い線が広がっている。
昨日よりも、その範囲は明らかに大きくなっていた。
監視隊の一人が、隣の仲間へ声をかけた。
「……妙だな」
「何が?」
「石碑の周囲だけ、精霊の気配が消えている」
もう一人の監視者は周囲を見渡した。
「……確かに」
普段なら、石碑の周囲には多くの精霊が集まっている。
しかし、今は一つの光も見えなかった。
「……長老の指示がある。近づくな」
「ああ、分かっている」
二人は距離を保ったまま、石碑を見つめていた。
その時。
石碑の表面に刻まれた古代文字が、淡く輝き始めた。
「……何だ?」
監視者の一人が顔を上げる。
黒い線の周囲から、わずかな魔力が漏れ出していた。
それは地面へ流れ込み、樹木の根へ向かってゆっくりと広がっていく。
「……まずい」
監視者が後退した。
「全員、距離を取れ!」
エルフたちは一斉に石碑から離れた。
しかし、黒い魔力は彼らを追うことなく、地面へ染み込んでいった。
そして。
石碑の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……まだ……』
監視者たちは動きを止めた。
『……届かない……』
一人が震える声で呟いた。
「……誰だ?」
返事はなかった。
ただ、石碑の中央に刻まれた白い紋様が、一瞬だけ強く輝いた。
その光は黒い線を押し戻そうとしたが、すぐに弱まってしまった。
監視者は、石碑を見つめた。
「……何かが」
彼は静かに呟いた。
「……内側から、抵抗しているのか?」
その問いに答える者はいなかった。
森の奥では、夜の闇がゆっくりと広がり始めていた。
――第149話・完――




