第147話「森の掟」
エルフェリア大森林。
朝日が森の上空を照らし始めた頃、レオたちは野営地で目を覚ました。
森の入口には、昨日と変わらず巨大な樹木が立ち並んでいる。
淡い緑色の光が木々の間を漂い、冷たい朝の空気には草木の香りが混じっていた。
「……よく眠れたか?」
ガイアが焚き火の跡を片付けながら尋ねた。
カイは大きく背伸びをした。
「まあまあだな。地面が硬かったけど」
「野営なのだから仕方あるまい」
「分かってるって」
ミナは水筒を取り出し、残っていた水を小さな鍋へ移した。
「朝ご飯、簡単なものでいいですか?」
「食えるなら何でもいい」
カイが即答すると、ミナは苦笑した。
「カイは本当に食べることばかりですね」
「腹が減ってたら戦えねえだろ」
「今日は戦わずに済むといいんだけどな」
レオがそう言うと、カイは肩をすくめた。
「向こう次第だろ」
レオは森へ視線を向けた。
昨日、銀色の髪を持つエルフの少女が訪ねてきた。
彼女は森の長老に話を通すと約束してくれたが、入森の許可が下りるとは限らない。
何より、エルフの森にはネクロマンサーを拒む掟があるという。
レオは胸元に収めた『魂導秘録』へ手を当てた。
「……話だけでも聞いてもらえればいいんだけど」
白き守護者が隣へ近づいた。
彼女はレオを見上げ、静かに頷く。
「ありがとう」
レオは微笑んだ。
「お前のことも、ちゃんと説明するからな」
守護者は小さく頷いた。
その時、ガイアが森の方角を見た。
「……誰か来る」
カイが顔を上げる。
「昨日のエルフか?」
「恐らくな」
森の木々の間から、三つの人影が現れた。
先頭を歩くのは、銀色の髪を持つ少女。
昨日、レオたちの前に姿を現したエルフだった。
その後ろには、深緑色の外套を纏った青年。
そして、長い杖を手にした年老いたエルフが歩いていた。
「……おはよう」
少女が声をかけた。
レオは立ち上がった。
「おはよう。昨日はありがとう」
「……別に、お礼を言われるようなことはしてないけど」
少女は少しだけ顔を背けた。
その隣にいた青年が、一歩前へ出た。
「お前たち、森へ入っていないだろうな」
カイが眉をひそめる。
「入ってねえよ」
「本当か?」
「疑うなら足跡でも調べろよ」
「カイ」
レオが小声で制した。
カイは不満そうに口を閉じた。
年老いたエルフが一歩前へ出る。
「……私はエルフェリアの長老、エルディンだ」
レオは姿勢を正した。
「レオです。こちらはカイ、ミナ、ガイア。それから……」
レオは白き守護者を見た。
「俺たちの仲間です」
エルディンの視線が守護者へ向けられた。
その瞬間、老人の表情が変わった。
「……その者は」
白き守護者もエルディンを見つめた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
少女が不思議そうに尋ねた。
「おじいちゃん?」
エルディンは杖を握り直した。
「……いや」
そして、レオへ向き直った。
「昨夜、孫娘のリュシアから話を聞いた。三百年前の境界術を調べているそうだな」
レオが少女を見た。
「……リュシアっていうのか」
少女は頷いた。
「うん。リュシア・エルフェリス」
「俺はレオ。改めてよろしくな」
レオは微笑んだ。
リュシアは少し戸惑いながら答えた。
「……まだ、森に入れるって決まったわけじゃないからね」
「分かってる」
その様子を見ていた青年が口を開いた。
「俺はフェルン。外縁監視隊の一員だ」
カイが腕を組む。
「……ずいぶん警戒してるんだな」
「当然だ。ここは人間が自由に出入りできる場所ではない」
レオは二人の話を聞きながら、エルディンへ向き直った。
「長老。俺たちは、森を荒らしに来たわけじゃありません」
「……分かっておる」
エルディンは静かに頷いた。
「だが、それだけでは入森を認められぬ」
エルディンは杖を地面へ立てた。
淡い緑色の光が、その先端から広がる。
空中に古い文字が浮かび上がった。
「エルフェリアには、古くから守られてきた掟がある」
レオたちは黙って耳を傾けた。
「外部の者に関係する掟は、主に三つだ」
エルディンは最初の文字を指差した。
「第一に、許可なき者は森の結界を越えてはならない」
フェルンが頷く。
「侵入者は、監視隊が拘束する」
続いて、二つ目の文字が光った。
「第二に、森の精霊を傷つけたり、その意思を奪う術を使用してはならない」
ミナが真剣な表情になる。
「……精霊の意思を奪う術?」
エルディンは頷いた。
「精霊は、森と共に生きる存在だ。人間の魔法の道具ではない」
レオは静かに頷いた。
「……分かります」
そして、三つ目の文字が浮かび上がった。
「第三に、死者の魂を使役する術を、森の内部で行ってはならない」
レオの表情が変わった。
「……それが、ネクロマンサーを拒む理由ですか?」
「そうだ」
フェルンが一歩前へ出た。
「特に第三の掟は厳しい。違反した者は森から追放され、二度と立ち入りを認められない」
カイが腕を組んだ。
「……死者の魂を使うだけで、そんなに悪いのか?」
フェルンの表情が険しくなる。
「お前たち人間には分からないだろうな」
「何だと?」
「カイ」
レオが制した。
そして、エルディンへ尋ねた。
「……どうして、その掟ができたんですか?」
老人は、しばらく沈黙した。
「……かつて、この森で多くの精霊が傷つけられた」
リュシアが顔を上げた。
「おじいちゃん……」
「死者の魂を強引に縛り、精霊の力と結びつけようとした者がいたのだ」
ミナの表情が曇った。
「そんなことが……」
「術式は失敗した。束縛された魂は苦しみ、精霊たちは逃げ場を失った」
エルディンは森を見つめた。
「その傷は、今も完全には癒えておらぬ」
レオは拳を握った。
「……それは、許されないことだと思います」
フェルンが眉をひそめた。
「ネクロマンサーのお前が言うのか?」
「ああ」
レオは迷わず答えた。
「死者が嫌がっているのに、無理やり従わせるなんて間違ってる」
「……」
「俺は、そんなことをしたくない」
フェルンはレオを見つめた。
「言葉なら何とでも言える」
「そうだな」
レオは頷いた。
その返答に、フェルンは少し驚いた。
「……何?」
「初めて会った俺を、すぐ信用できるわけないよな」
レオは続けた。
「だから、俺がどういうネクロマンサーなのか、行動で判断してほしい」
エルディンは静かにレオを見つめた。
「……ならば、一つ尋ねよう」
「はい」
「もし、死者の力を借りなければ仲間を救えない状況になったら、どうする?」
レオは少し考えた。
「……まず、本人に頼みます」
「断られたら?」
「別の方法を探します」
「それでも、見つからなかったら?」
レオはエルディンを見つめた。
「……それでも、無理やり従わせることはしません」
フェルンが口を開く。
「仲間が死ぬかもしれないんだぞ?」
「分かってる」
「ならば、なぜだ!」
レオは静かに答えた。
「誰かの意思を奪って助かったとしても、それを正しいとは思えないからだ」
エルディンは目を閉じた。
その言葉は、老人がかつて聞いたある人物の言葉とよく似ていた。
三百年前。
エルフェリア大森林。
まだ若かったエルディンは、森の外縁で一人の人間と向き合っていた。
灰色の外套を纏った男。
その男は、古い術式図を手にしていた。
「……死者の魂を使う術など、信用できない」
若きエルディンが告げる。
男は苦笑した。
「そう言われると思ったよ」
「ならば、なぜここへ来た?」
「森に残された境界術について、教えてほしいんだ」
「……人間に教える理由はない」
男は頷いた。
「それも分かってる」
エルディンは眉をひそめた。
「……随分と物分かりがいいな」
「無理に頼んだって、意味がないだろ」
男は笑った。
「誰かに協力してもらうなら、まず相手の意思を尊重しないとな」
エルディンは、その言葉を覚えていた。
男の名は、ヴァルド。
魂導院のネクロマンサーだった。
現在。
森の入口。
エルディンは、ゆっくりと目を開いた。
レオは不思議そうに老人を見ていた。
「……長老?」
「……すまぬ」
エルディンは小さく息を吐いた。
「昔のことを思い出していた」
「昔のこと?」
「……ああ」
老人はレオの胸元にある書物へ視線を向けた。
「昨夜、リュシアから聞いた。お前たちは三百年前のネクロマンサーについて調べているそうだな」
「はい」
「……名前を聞かせてもらえるか?」
レオは頷いた。
「ヴァルドとアシュレイです」
その瞬間。
エルディンの表情が変わった。
「……ヴァルド?」
レオが顔を上げる。
「……知っているんですか?」
老人はしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……知っている」
レオの表情が変わった。
「……本当ですか!?」
「ああ」
エルディンは続けた。
「かつて、この森を訪れた人間のネクロマンサーだ」
レオは胸元から『魂導秘録』を取り出した。
「……これを見てください」
エルディンは慎重に書物を受け取った。
古びた表紙に刻まれた紋様。
そして、最初の頁に記された十三人の名前。
老人の手が止まった。
「……これは」
「アシュレイが残した記録です」
エルディンは長い時間、書物を見つめていた。
やがて、静かに閉じる。
「……本物のようだ」
リュシアが驚いた。
「おじいちゃん、それ知ってるの?」
「ああ」
「……初めて聞いた」
エルディンは小さく笑った。
「話す機会がなかったからな」
フェルンが口を開いた。
「長老。たとえその書物が本物でも、入森を認める理由にはなりません」
エルディンは頷いた。
「その通りだ」
レオは少し残念そうに頷いた。
「……そうですか」
「だが、話を聞く価値はある」
エルディンは、書物をレオへ返した。
「お前たちは、森で何を探している?」
レオは白き守護者を見た。
守護者は、ゆっくりと前へ出た。
そして胸元へ手を当てる。
白い光が、その身体を包み込んだ。
エルディンの表情が変わった。
「……その光」
守護者は静かに手を伸ばした。
掌に、小さな紋様が浮かび上がる。
白き境界の紋章。
エルディンは、杖を握る手に力を込めた。
「……まさか」
レオが尋ねた。
「知っているんですか?」
老人は深く頷いた。
「……三百年前、ヴァルドと共にいた守護者だな」
白き守護者は頷いた。
リュシアが驚いて彼女を見た。
「……三百年前って」
ミナが静かに答えた。
「守護者さんは、ずっと昔から生きているんです」
「……そんな」
エルディンは、守護者の前へ進んだ。
そして、深く頭を下げた。
「……久しいな」
守護者は静かに老人を見つめた。
「まさか、再び会えるとは思わなかった」
守護者の目が揺れた。
エルディンは続けた。
「……ヴァルドのことは、聞いている」
守護者は俯いた。
「……あの男は、最後まで自分の信念を貫いたのだな」
白き守護者は、小さく頷いた。
老人はしばらく沈黙した。
そして、レオへ向き直った。
「……分かった」
レオが顔を上げる。
「……何がですか?」
「お前たちの事情は理解した」
フェルンが一歩前へ出た。
「長老!」
しかし、エルディンは手で制した。
「まだ入森を許可するとは言っておらぬ」
レオは頷いた。
「……はい」
「だが、話を聞く価値はある」
老人は森の奥へ視線を向けた。
「森の掟を守れるか、確かめさせてもらおう」
エルフェリア大森林、外縁監視区。
フェルンは、長老の言葉に納得していなかった。
「……危険です」
エルディンが振り向く。
「何がだ?」
「ネクロマンサーを森へ近づけることです」
「……」
「たとえヴァルドと関係があったとしても、今の人間が信用できるとは限りません」
エルディンは頷いた。
「その通りだ」
フェルンは少し驚いた。
「……では」
「だからこそ、見極める必要がある」
「……」
「追い返すだけでは、何も分からぬ」
フェルンは黙り込んだ。
エルディンは続けた。
「それに、森の結界に起きている異変も気になる」
リュシアが顔を上げた。
「……昨日の話?」
「ああ」
老人は森の奥を見た。
「自然の魔力が、少しずつ乱れている」
フェルンの表情が変わった。
「……結界の異常は、まだ続いているのですか?」
「そうだ」
「原因は?」
「……分からぬ」
エルディンは静かに答えた。
「だが、境界術に関係している可能性がある」
リュシアはレオたちの方角を見た。
「……だから、話を聞くんだね」
「そういうことだ」
森の入口。
エルディンは、レオたちの前へ戻った。
「……明日、入森の審査を行う」
レオが顔を上げる。
「……審査?」
「森の掟を理解し、守れるかを確かめるものだ」
カイが眉をひそめた。
「……試験みたいなもんか?」
「そう考えてもらって構わぬ」
ミナが尋ねた。
「どんなことをするんですか?」
エルディンは答えた。
「森の精霊との接触、魔力の適性、そして意思の確認だ」
ガイアが頷いた。
「……なるほど」
フェルンが続ける。
「ただし、ネクロマンサーのお前には、特別な審査がある」
レオが振り向く。
「……俺だけ?」
「ああ」
「……分かった」
カイが口を開いた。
「何でレオだけなんだよ」
フェルンは冷たく答えた。
「森にとって、最も危険な術を扱うからだ」
カイの表情が険しくなる。
しかし、レオが肩に手を置いた。
「……大丈夫だ」
「でもよ」
「ちゃんと説明すれば、分かってもらえるかもしれない」
カイは少し不満そうに頷いた。
「……分かったよ」
エルディンは静かに告げた。
「明日の朝、リュシアが迎えに来る」
リュシアが頷いた。
「うん」
「それまでは、森の外で待っていてほしい」
レオは頭を下げた。
「……ありがとうございます」
エルディンは小さく頷いた。
そして、森の奥へ戻っていった。
夜。
レオたちは、再び野営地で焚き火を囲んでいた。
カイは剣の手入れをしている。
ミナは荷物を整理していた。
ガイアは、エルディンから聞いた掟を手帳へ書き留めている。
レオは少し離れた場所で、『魂導秘録』を読んでいた。
その隣には、白き守護者が座っている。
「……なあ」
守護者が顔を上げる。
「ヴァルドは、この森にも来ていたんだな」
守護者は頷いた。
「……どんなことをしていたんだ?」
守護者は、少し考えた。
そして、レオの手へ触れた。
淡い白い光が広がる。
一瞬だけ、古い記憶が浮かび上がった。
森の中で、若きエルディンと話すヴァルド。
古い石碑。
そして、巨大な樹木の根元に刻まれた紋様。
レオは目を見開いた。
「……今のは?」
守護者は森の奥を指差した。
レオは考え込んだ。
「……森の中に、何かあるんだな」
守護者は頷いた。
「……分かった」
レオは『魂導秘録』を閉じた。
「明日の審査、絶対に通ろう」
守護者は静かに微笑んだ。
同じ頃。
エルフェリア大森林、深部。
長老エルディンは、一人で古い石碑の前に立っていた。
石碑には、三つの紋様が刻まれている。
白き守護者。
黒き守護者。
魂を導く者。
エルディンは、その中央へ手を伸ばした。
「……ヴァルド」
老人は静かに呟いた。
「お前が残した約束を、私は忘れていない」
石碑の表面に、淡い光が広がる。
しかし、その光の一部が黒く濁っていた。
エルディンの表情が変わった。
「……やはり」
黒い濁りは、石碑の中央から少しずつ広がっている。
老人は杖を握り直した。
「……境界が、再び揺らぎ始めている」
その時。
石碑の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……守れ』
エルディンは目を見開いた。
『……森を……』
声は、すぐに消えた。
老人は石碑を見つめた。
「……今のは」
やがて、静かに呟いた。
「……三百年前の封印が、何かを伝えようとしているのか」
夜の森に、再び静寂が戻った。
しかし、石碑の黒い濁りは消えていなかった。
――第147話・完――




