第145話「受け継がれる意思」
三百年前。
北方、旧境界域。
第七監視地点。
雪は、まだ降り続いていた。
巨大な石の門には、三つの紋様が刻まれている。
白き守護者の紋様。
黒き守護者の紋様。
そして、二つの力を繋いだネクロマンサー、ヴァルドの紋様。
門は閉じられた。
境界の崩壊も止まった。
しかし、その場所にヴァルドの姿はなかった。
「……ヴァルド」
アシュレイは、何度目かも分からない呼びかけを口にした。
返事はない。
白き守護者は門の前に座り込み、動こうとしなかった。
その手には、ヴァルドが最後に残した小さな光が宿っている。
アシュレイは彼女の隣に膝をついた。
「……もう、行こう」
守護者は首を振った。
「ここにいても、あいつは戻ってこない」
その言葉を口にした瞬間、アシュレイ自身の胸が苦しくなった。
自分が一番、認めたくないことだった。
守護者は門へ手を伸ばした。
白い光が石の表面を伝う。
だが、ヴァルドの紋様は静かなままだった。
「……俺だって」
アシュレイは俯いた。
「俺だって、置いていきたくない」
守護者が顔を上げる。
「でも、あいつが守ったものを、ここで終わらせるわけにはいかないんだ」
アシュレイは門を見上げた。
「……そうだろ、ヴァルド」
返事はなかった。
ただ、三つの紋様が淡い光を放っていた。
第七監視地点、外周。
三人目のネクロマンサーは、負傷した仲間たちの手当てを続けていた。
黒い紋様を刻まれた者もいる。
崩れた監視塔の下敷きになり、足を負傷した者もいた。
それでも、生き残った者たちは互いに支え合っていた。
「……門は、本当に閉じたのか?」
腕を負傷した男が尋ねた。
三人目の男は頷いた。
「ああ。今のところ、境界から異常な魔力は流れていない」
「……そうか」
男は安堵したように息を吐いた。
そして、辺りを見回した。
「……ヴァルドは?」
三人目の男は答えられなかった。
「……おい」
男が身体を起こそうとする。
「ヴァルドは、どこにいる?」
「……」
「まさか……」
三人目の男は目を伏せた。
その沈黙だけで、男には十分だった。
「……嘘だろ」
誰も否定しなかった。
やがて、男は顔を覆った。
「……あいつ、帰ったら全員で飯を食おうって……」
三人目の男は拳を握った。
魂導院を創設した十三人。
彼らは、死者の魂を正しく導くために集まった。
誰かを支配するためではない。
誰かを犠牲にするためでもない。
死者にも、生者にも、尊厳があると信じていたからだ。
だが今、その中心にいたヴァルドはいない。
「……俺たちは」
三人目の男が呟く。
「何を、間違えたんだろうな」
負傷した男は答えなかった。
三人目の男は、かつて自分が教会へ送った報告書を思い出していた。
恐怖から書いた報告。
仲間への疑いを生んだ言葉。
その結果、魂導院は引き裂かれた。
「……もう、同じことはしない」
男は静かに立ち上がった。
「今度こそ、真実を残す」
数日後。
魂導院。
北方から帰還した者たちは、重い沈黙の中にいた。
ヴァルドの研究室は、出発した時のままだった。
机の上には、書きかけの術式図。
棚には、古い魂導術の記録。
窓際には、十三人で撮った小さな肖像画が置かれていた。
アシュレイは、その肖像画を手に取った。
「……懐かしいな」
そこには、まだ誰も失われていなかった頃の仲間たちがいた。
ヴァルドは中央で笑っている。
アシュレイは、その隣に立っていた。
「……お前は、いつもそうだった」
アシュレイは椅子に腰掛けた。
「誰かが困っていたら、放っておけない」
肖像画を机へ戻す。
「……だから、みんなお前を頼ったんだ」
しばらく、部屋には沈黙が流れた。
やがて、扉が開いた。
三人目のネクロマンサーだった。
「……アシュレイ」
「どうした?」
「教会から使者が来た」
アシュレイの表情が変わった。
「……何の用だ」
「北方の封印について、正式な報告を求めている」
「……そうか」
「それと……」
三人目の男は言いにくそうに目を伏せた。
「魂導院の今後についても、話し合いたいらしい」
アシュレイは静かに立ち上がった。
「……分かった」
魂導院、大広間。
聖王教会の指揮官が、数人の騎士と共に立っていた。
その隣には、老司祭もいる。
アシュレイが入室すると、指揮官は彼へ視線を向けた。
「……アシュレイ」
「何だ」
「北方の門が閉じられたことは確認した」
「……そうか」
「お前たちの封印術式が成功したことも認めよう」
アシュレイは黙っていた。
指揮官は続けた。
「だが、魂導院が危険な研究を行っていた事実は変わらない」
三人目の男が顔を上げた。
「……それは!」
アシュレイが手で制した。
「……最後まで聞こう」
指揮官は一枚の書類を取り出した。
「教会は、魂導院の研究活動を停止させる方針だ」
広間に動揺が広がった。
「……何だと?」
「研究を停止?」
「俺たちは世界を救ったんだぞ!」
指揮官は表情を変えなかった。
「だからこそ、これ以上の危険を防がねばならない」
アシュレイは一歩前へ出た。
「……教会は、あの青年をどうした?」
指揮官の眉が動く。
「……青年?」
「封印の核にしようとしていた男だ」
「……」
「門は閉じた。もう拘束する理由はない」
指揮官は少しの間、黙っていた。
そして答えた。
「……解放した」
アシュレイは老司祭を見た。
老司祭が静かに頷いた。
「彼は家族のもとへ帰った」
アシュレイは安堵したように息を吐いた。
「……そうか」
指揮官は続けた。
「だが、魂導院の処分は別問題だ」
アシュレイは顔を上げた。
「……分かっている」
「ならば、従うか?」
アシュレイは首を振った。
「……いや」
指揮官の表情が険しくなった。
「……何?」
「研究を止めるつもりはない」
「お前は、まだ危険な術を続けるつもりか!」
アシュレイは静かに答えた。
「……死者を導くことが、危険だと言うのか?」
「……」
「確かに、俺たちは間違えた」
アシュレイは続けた。
「黒い石を調べ、境界の向こう側へ触れてしまった」
「……」
「その結果、仲間を失った」
アシュレイの声が、わずかに震えた。
「……ヴァルドも失った」
広間が静まり返る。
「だが、だからといって、魂導術そのものを否定するつもりはない」
アシュレイは指揮官を見つめた。
「……俺たちの術は、誰かを支配するためのものじゃない」
「……」
「死者の声を聞き、その意思を尊重し、正しい場所へ導くためのものだ」
老司祭が静かに目を閉じた。
アシュレイは続けた。
「俺は、その考えを捨てない」
指揮官はしばらく沈黙した。
そして、書類を机へ置いた。
「……ならば、教会は魂導院を正式な研究機関として認めない」
「……構わない」
「今後、お前たちの活動は監視対象となる」
「……好きにしろ」
指揮官はアシュレイを睨んだ。
「……後悔するぞ」
アシュレイは静かに答えた。
「後悔なら、もう十分している」
指揮官は何も言わなかった。
やがて騎士たちを連れ、広間を出ていった。
老司祭だけが、その場に残った。
「……アシュレイ」
アシュレイが振り向く。
「……何ですか?」
老司祭は深く頭を下げた。
「……すまなかった」
アシュレイは目を見開いた。
「……」
「私たちは、守るべき命を見失いかけた」
老司祭は続けた。
「そして、その過ちを止められなかった」
アシュレイはしばらく老司祭を見つめていた。
そして、静かに答えた。
「……あなたは、あの青年を助けようとした」
「……」
「俺を地下牢から出してくれた」
老司祭が顔を上げる。
「……それだけは、忘れません」
老司祭の目に涙が浮かんだ。
その夜。
魂導院、地下封印庫。
アシュレイは、白き守護者と向き合っていた。
守護者は、以前よりも静かになっていた。
ヴァルドを失ってから、ほとんど誰とも目を合わせようとしない。
「……少し、話をしてもいいか?」
守護者は頷いた。
アシュレイは床に腰を下ろした。
「……ヴァルドのことだ」
守護者の表情が変わる。
「……あいつは、最後に何と言った?」
守護者は、ゆっくりと手を伸ばした。
白い光が、アシュレイの胸元へ触れる。
その瞬間。
ヴァルドの最後の言葉が、アシュレイの脳裏に浮かんだ。
『……いつか、俺たちの意思を継ぐ者が現れる』
『……その時は、力を貸してやってくれ』
アシュレイは目を閉じた。
「……そうか」
守護者は俯いた。
アシュレイは、静かに続けた。
「……ならば、俺にもできることがある」
守護者が顔を上げる。
「ヴァルドが残した術式を、記録に残す」
「……」
「共同封印の仕組みも、黒い石の危険性も、全部だ」
アシュレイは小さく笑った。
「……いつか、同じ危機が訪れた時のために」
守護者は、静かに頷いた。
数日後。
魂導院、地下記録室。
アシュレイは、一冊の分厚い書物を開いていた。
表紙には、古い文字で題名が刻まれている。
『魂導秘録』
そこには、ヴァルドたちが経験した出来事が記されていた。
黒い石の発見。
最初の研究者の侵食。
二人目の研究者の失踪。
三人目の研究者が犯した過ち。
白き守護者と黒き守護者の存在。
そして、北方の門で行われた共同封印。
アシュレイは、最後の頁へ筆を走らせた。
我々は、境界の向こう側に存在するものの正体を知らない。
だが、確かなことが一つある。
それは、魂の繋がりを利用し、人の意思を奪おうとする存在だということ。
魂導術は、使い方を誤れば恐ろしい力となる。
しかし、本来の魂導術は、死者を支配するためのものではない。
死者の意思を尊重し、魂を導くためのものだ。
アシュレイは筆を止めた。
そして、最後の一文を書き加えた。
『死者を従わせるな。死者と共に歩め。』
その言葉を書き終えると、アシュレイは静かに書物を閉じた。
「……これでいいか、ヴァルド」
返事はない。
しかし、部屋の隅に置かれた白い石が、淡く光った。
現在。
地下遺跡、記憶の間。
長い記憶が終わった。
周囲に広がっていた三百年前の光景が、ゆっくりと消えていく。
レオたちは、元の地下遺跡へ戻っていた。
目の前には、古い石台。
その上には、一冊の書物が置かれていた。
アシュレイが残した『魂導秘録』だった。
「……これが」
レオが呟く。
死者の男が頷いた。
『ああ』
「……本物なのか?」
『そうだ』
レオは、ゆっくりと書物へ手を伸ばした。
表紙は古びていたが、文字ははっきりと残っていた。
カイが隣から覗き込む。
「……ずいぶん古い本だな」
ミナが答える。
「三百年前のものですからね」
ガイアは書物を見つめていた。
「……しかし、よく残っていたものだ」
死者の男が静かに答えた。
『アシュレイが、特殊な魂導術で保護していた』
レオは書物を開いた。
最初の頁には、十三人のネクロマンサーの名前が記されていた。
そして、その下には一つの文章。
我々は、死者を恐れない。
死者を道具として扱わない。
生者と死者が、互いの意思を尊重できる世界を目指す。
レオは、しばらくその文章を見つめていた。
「……俺と、同じだ」
ガイアが頷く。
「……ああ」
レオは続けた。
「俺も、死者を無理やり従わせたくない」
「……」
「一緒に戦ってくれるなら、その意思を尊重したい」
カイが小さく笑った。
「……お前らしいな」
ミナも頷いた。
「だから、私たちはレオについてきたんですよ」
レオは少し照れたように笑った。
「……そうか」
その時、白き守護者がレオの隣へ近づいた。
守護者は、書物の最後の頁を指差した。
レオは頁をめくった。
そこには、アシュレイが残した最後の言葉があった。
『死者を従わせるな。死者と共に歩め。』
レオは、静かに読み上げた。
「……死者と共に歩め」
守護者は頷いた。
レオは書物を閉じた。
「……分かった」
守護者が顔を上げる。
「俺が、受け継ぐ」
カイが隣へ立った。
「……俺たちが、だろ?」
レオは振り向いた。
カイは笑った。
「一人で背負うなよ」
ミナも頷く。
「そうですよ」
ガイアが静かに答えた。
「我々は、冥夜の旅団だ」
レオは仲間たちを見つめた。
そして、小さく笑った。
「……そうだったな」
白き守護者の表情が、少しだけ和らいだ。
地下遺跡、最深部。
死者の男は、レオたちを一つの石扉の前へ案内した。
「……ここが、最後だ」
レオが尋ねる。
「……何がある?」
死者の男は答えた。
『アシュレイが、未来のネクロマンサーへ残したものだ』
石扉が、ゆっくりと開いた。
その奥には、小さな部屋があった。
中央には、白い台座。
そして、その上には、一つの結晶が浮かんでいた。
淡い青色の結晶。
内部には、複雑な魂導術の紋様が刻まれている。
「……これは?」
レオが尋ねた。
死者の男が答える。
『魂導の記憶を封じた結晶だ』
ガイアが顔を上げる。
「……記憶?」
『ああ』
死者の男は続けた。
『アシュレイは、自分たちの術式を後世へ残そうとした』
「……」
『だが、文字だけでは伝えきれないものがあった』
レオは結晶を見つめた。
「……何を?」
死者の男は静かに答えた。
『魂導術を使う者の意思だ』
レオは、ゆっくりと結晶へ手を伸ばした。
その瞬間。
淡い光が広がった。
レオの脳裏に、一人の男の姿が浮かぶ。
アシュレイだった。
三百年前の姿のまま、静かに立っている。
『……これを見ている者へ』
アシュレイの声が響いた。
『お前が、どんな時代に生きているのか、俺には分からない』
レオは息を呑んだ。
『だが、もしお前がネクロマンサーなら』
アシュレイは続けた。
『一つだけ、覚えていてほしい』
「……」
『魂には、意思がある』
『死者にも、願いがある』
『そして、その願いを踏みにじる者に、魂を導く資格はない』
レオは、静かに頷いた。
アシュレイの姿が、少しずつ薄くなっていく。
『……どうか』
最後に、アシュレイは微笑んだ。
『俺たちが守ろうとしたものを、忘れないでくれ』
そして、光は消えた。
地下遺跡、出口。
レオたちは、長い階段を上っていた。
地上へ続く道の先には、朝日が差し込んでいる。
「……長かったな」
カイが呟いた。
ミナが頷く。
「でも、来てよかったですね」
ガイアは静かに答えた。
「……多くのことを知ることができた」
レオは、胸元に収めた『魂導秘録』へ手を当てた。
「……ああ」
白き守護者が、レオの隣を歩いている。
以前よりも、その足取りは軽く見えた。
レオは守護者を見た。
「……なあ」
守護者が顔を上げる。
「次は、どこへ行きたい?」
守護者は少し考えた。
そして、遠くの森が広がる方角を指差した。
レオが首を傾げる。
「……森?」
ガイアが答えた。
「……エルフの森かもしれない」
ミナが顔を上げる。
「エルフの森?」
「ああ。古い文献には、境界に関する知識を持つエルフたちがいると記されている」
カイが笑った。
「……面白そうじゃねえか」
レオは守護者を見た。
「……そこに、何かあるのか?」
守護者は頷いた。
そして、胸元へ手を当てた。
白い光が、遠くの森へ向かって伸びる。
レオは小さく笑った。
「……分かった」
仲間たちを振り向く。
「次の目的地は、エルフの森だ!」
カイが頷いた。
「……おう!」
ミナが笑う。
「楽しみですね!」
ガイアも静かに頷いた。
「……新たな旅の始まりだな」
五人は、朝日の差し込む道へ歩き出した。
その頃。
遠く離れた森の奥。
巨大な樹木に囲まれた集落で、一人の少女が弓を構えていた。
長い銀色の髪。
尖った耳。
澄んだ緑色の瞳。
少女は、遠くの木に吊るされた小さな標的を見つめていた。
そして、静かに矢を放つ。
矢は、標的の中央を正確に射抜いた。
「……よし」
少女は小さく笑った。
その時。
森の奥から、年老いたエルフが近づいてきた。
「……リュシア」
少女が振り向く。
「……おじいちゃん?」
老人は、真剣な表情をしていた。
「……森の結界に、異変が起きている」
リュシアの表情が変わった。
「……異変?」
老人は頷いた。
「……外の世界から、何者かが近づいている」
リュシアは弓を握り直した。
「……敵?」
老人は首を振った。
「……まだ分からない」
そして、静かに続けた。
「だが、その者たちの中に……」
老人は森の奥を見つめた。
「……死者の気配を纏う者がいる」
リュシアは目を見開いた。
「……死者?」
老人は頷いた。
「……ネクロマンサーだ」
リュシアは、遠くの空を見上げた。
「……ネクロマンサー」
その言葉を、静かに繰り返した。
そして、まだ見ぬ旅人たちの姿を想像していた。
――第145話・完――




