第144話「ヴァルドの最期」
三百年前。
北方、旧境界域。
第七監視地点。
巨大な石の門から、黒い影が溢れ出していた。
白い封印は失われ、地面に刻まれた境界術式も次々と崩壊している。
門の向こう側では、巨大な瞳が現世を見つめていた。
『……ようやく』
低い声が、周囲に響く。
『……道が開いた』
ヴァルドは門の前に立っていた。
その隣には、白き守護者。
少し離れた場所では、黒き守護者が膝をついている。
「……アシュレイ!」
ヴァルドが叫んだ。
「外側の結界は!?」
アシュレイは地面に手をついた。
《魂導結界・三重固定》
白い光が広がる。
しかし、黒い影は結界を侵食し続けていた。
「……長くは持たない!」
「どのくらいだ!」
「……分からない! だが、数分が限界だ!」
ヴァルドは門を見上げた。
亀裂は、既に人間が通れるほどの幅まで広がっていた。
このままでは、向こう側の存在が現世へ侵入する。
そして、一度でも門を完全に突破されれば、被害は北方だけでは済まない。
「……くそ」
ヴァルドは拳を握った。
その時、黒き守護者が口を開いた。
『……俺が、戻る』
ヴァルドが振り向く。
「……何?」
『……門の内側へ戻り、繋がりを断つ』
白き守護者が首を振った。
黒き守護者は、静かに彼女を見つめた。
『……他に方法はない』
「……ある」
ヴァルドが答えた。
黒き守護者の表情が変わる。
『……何?』
ヴァルドは、門の中央に刻まれた古い術式を見つめた。
「……まだ、一つ残っている」
第七監視地点、外周。
三人目のネクロマンサーは、仲間たちと共に結界を維持していた。
「……全員、魔力を集中させろ!」
《魂導結界・連結》
白い光が、外周を包み込む。
しかし、黒い影は結界の内側へ入り込もうとしていた。
一人のネクロマンサーが叫んだ。
「……もう限界だ!」
三人目の男が振り向く。
「……まだ諦めるな!」
「でも、このままじゃ!」
「……ヴァルドたちが、何とかしてくれる!」
その言葉に、仲間たちは再び術式を維持した。
しかし。
黒い影が、一人のネクロマンサーの足元へ伸びた。
「……何だ!?」
男は後退しようとした。
だが、影は足首に絡みついた。
三人目の男が駆け寄る。
《魂流遮断》
白い光が影を切り離す。
男は倒れ込んだ。
「……大丈夫か!」
「……ああ……助かった」
しかし、その右腕には、黒い紋様が残っていた。
三人目の男は、唇を噛んだ。
「……感染が広がっている」
その時、門の中央から白い光が広がり始めた。
三人目の男が顔を上げる。
「……ヴァルド?」
門の中央。
ヴァルドは、古い封印術式を見つめていた。
アシュレイが近づく。
「……何を考えている?」
ヴァルドは答えた。
「共同封印を、もう一度行う」
アシュレイの表情が変わった。
「……正気か?」
「ああ」
「さっき失敗したばかりだぞ!」
「分かっている」
ヴァルドは門を見上げた。
「でも、失敗した理由も分かった」
アシュレイが眉をひそめる。
「……理由?」
「向こう側の存在が、二つの守護者の繋がりを利用した」
「……ああ」
「だったら、その繋がりを守ればいい」
アシュレイは考え込んだ。
「……どうやって?」
ヴァルドは自分の胸元へ手を当てた。
「俺が、間に入る」
アシュレイの表情が変わった。
「……何?」
「魂を導く者として、二つの守護者の力を繋ぐ」
「……待て」
「そして、向こう側の存在との繋がりだけを切り離す」
アシュレイは首を振った。
「……それは危険すぎる!」
ヴァルドは静かに答えた。
「分かっている」
「分かっていない!」
アシュレイはヴァルドの肩を掴んだ。
「お前の魂が、境界の中心に固定されるんだぞ!」
「……」
「失敗すれば、魂そのものが消える!」
ヴァルドはアシュレイを見つめた。
「……だから、頼みがある」
アシュレイは何も言えなかった。
「俺が術式を維持している間、外側の結界を守ってくれ」
「……ヴァルド」
「お前にしか頼めない」
アシュレイは拳を握った。
「……ふざけるな」
ヴァルドが顔を上げる。
「……何?」
「そんな頼みを、簡単に引き受けられると思うか!」
アシュレイの声が震えた。
「俺たちは、十三人で始めたんだぞ!」
「……ああ」
「誰も犠牲にしないって、言っていただろ!」
ヴァルドは目を伏せた。
「……そうだな」
「だったら!」
「……でも」
ヴァルドは顔を上げた。
「今、俺たちが何もしなければ、もっと多くの人が死ぬ」
アシュレイは言葉を失った。
ヴァルドは続けた。
「だから、俺は選ぶ」
「……」
「誰かに命令されたからじゃない」
ヴァルドは、自分の胸元に手を当てた。
「……俺自身の意思で」
門の前。
白き守護者は、ヴァルドを見つめていた。
その表情には、不安が浮かんでいる。
ヴァルドは静かに微笑んだ。
「……そんな顔をするな」
守護者は首を振った。
「大丈夫だ」
しかし、守護者は再び首を振った。
ヴァルドは少しだけ笑った。
「……嘘はつけないな」
守護者は、ヴァルドの手を握った。
白い光が二人を包み込む。
ヴァルドの脳裏に、これまでの記憶が浮かんだ。
魂導院を作った日。
十三人で笑い合った日。
初めて死者の魂を導いた日。
そして、白き守護者と出会った日。
「……楽しかったな」
ヴァルドが呟いた。
守護者の目から、涙が流れた。
「……ありがとう」
ヴァルドは、守護者の手を握り返した。
「お前と出会えて、よかった」
門の中央。
ヴァルドは、最後の術式を展開した。
《魂導結界・境界連結》
白い光が地面に広がる。
その中央に、三つの円が浮かび上がった。
一つ目。
魂を導く者の円。
二つ目。
白き守護者の円。
三つ目。
黒き守護者の円。
アシュレイが後方から叫んだ。
「……ヴァルド!」
ヴァルドは振り向いた。
「……頼んだぞ!」
アシュレイは拳を握った。
そして、涙を堪えながら頷いた。
「……必ず、戻ってこい!」
ヴァルドは小さく笑った。
「……ああ」
白き守護者が、門の外側へ手を伸ばす。
黒き守護者が、門の内側へ手を伸ばす。
二つの光が重なった。
その中央に、ヴァルドの魂導術が流れ込む。
《魂導秘術・三界封環》
白と黒の光が、巨大な門を包み込んだ。
向こう側の瞳が、大きく開いた。
『……何をする』
ヴァルドは答えた。
「……門を閉じる」
『……不可能だ』
「……そうかもな」
ヴァルドは目を閉じた。
「でも、俺は諦めない」
その瞬間。
三つの円が、完全に重なった。
境界の内側。
黒き守護者は、向こう側の存在との繋がりを断ち切ろうとしていた。
『……今だ!』
ヴァルドが叫ぶ。
黒き守護者は頷いた。
《境界守護・黒環断絶》
黒い光が、異質な紋様を押し返した。
巨大な瞳が、初めて大きく揺れた。
『……何?』
白き守護者も術式を展開する。
《境界守護・白環封鎖》
白い光が、門の外側を包み込む。
そして、ヴァルドが最後の力を注ぎ込んだ。
《魂導秘術・境界再封》
門の亀裂が、ゆっくりと閉じ始める。
黒い影が、向こう側へ押し戻されていく。
アシュレイが叫んだ。
「……成功している!」
外周のネクロマンサーたちも、結界を維持した。
三人目の男が顔を上げる。
「……ヴァルド!」
しかし、その瞬間。
ヴァルドの身体が、淡い光に包まれ始めた。
アシュレイの表情が変わった。
「……待て」
ヴァルドは、自分の手を見つめた。
指先が、少しずつ透けている。
「……そうか」
彼は静かに呟いた。
「……これが、代償か」
アシュレイが駆け寄ろうとした。
「……ヴァルド!」
しかし、ヴァルドは首を振った。
「……来るな!」
「……何を言っている!」
「術式が完成するまで、誰も近づくな!」
アシュレイは足を止めた。
ヴァルドは、門の向こう側を見つめた。
「……あと少しだ」
門の中央。
黒き守護者は、ヴァルドの異変に気づいていた。
『……お前』
ヴァルドが顔を上げる。
「……何だ?」
『……そのままでは、魂が戻らない』
「……分かっている」
『……なぜ、そこまで』
ヴァルドは静かに答えた。
「……守りたいからだ」
黒き守護者は何も言えなかった。
ヴァルドは続けた。
「俺には、仲間がいる」
「……」
「守りたい世界がある」
そして、白き守護者を見た。
「……大切な約束もある」
白き守護者は、涙を流しながら首を振っていた。
ヴァルドは小さく笑った。
「……ごめんな」
守護者が手を伸ばす。
しかし、ヴァルドの身体は、さらに薄くなっていく。
「……でも」
ヴァルドは最後に告げた。
「……お前には、生きていてほしい」
その瞬間。
門の亀裂が、完全に閉じた。
第七監視地点。
黒い影が消えた。
崩れかけていた結界が安定し、雪に覆われた大地へ静けさが戻っていく。
巨大な石の門には、新たな封印が刻まれていた。
白と黒。
そして、その中央に一つの紋様。
魂を導く者の証。
アシュレイは、門の前へ駆け寄った。
「……ヴァルド!」
しかし、そこには誰もいなかった。
白き守護者だけが、地面に膝をついていた。
アシュレイは周囲を見渡した。
「……どこだ?」
返事はない。
「……ヴァルド!」
白き守護者は、震える手を伸ばした。
その手のひらには、小さな光が残っていた。
アシュレイは目を見開いた。
「……まさか」
守護者は、ゆっくりと頷いた。
アシュレイは膝をついた。
「……嘘だろ」
手を伸ばしても、そこにヴァルドはいない。
「……戻ってこいって、言っただろ」
アシュレイの声が震えた。
「……約束しただろ……!」
白き守護者は、声もなく涙を流していた。
その時。
二人の前に、淡い光が浮かび上がった。
ヴァルドの姿だった。
しかし、その身体は透き通っている。
アシュレイが顔を上げた。
「……ヴァルド!」
ヴァルドは、小さく笑った。
『……悪いな』
「……何が悪いな、だ!」
『……約束、守れなかった』
アシュレイは涙を流した。
「……まだ、間に合うだろ!」
『……いや』
ヴァルドは静かに首を振った。
『……俺の魂は、もう境界と繋がっている』
「……」
『……ここから離れれば、封印が崩れる』
アシュレイは拳を握った。
「……そんな……」
ヴァルドは白き守護者を見た。
『……頼む』
守護者が顔を上げる。
『……俺の代わりに、世界を見ていてくれ』
守護者は必死に首を振った。
ヴァルドは続けた。
『……いつか』
白い光が、少しずつ薄くなっていく。
『……俺たちの意思を継ぐ者が現れる』
アシュレイが顔を上げた。
「……意思を継ぐ者?」
ヴァルドは静かに頷いた。
『……その時は』
彼は、最後に微笑んだ。
『……力を貸してやってくれ』
そして。
ヴァルドの姿は、光の中へ消えていった。
現在。
レオは、記憶の中の門を見つめていた。
誰も言葉を発しなかった。
カイは拳を握りしめている。
ミナは目元を押さえていた。
ガイアは、静かに目を閉じていた。
そして、白き守護者。
彼女は、三百年前と同じように俯いていた。
レオは、ゆっくりと守護者へ近づいた。
「……ずっと、覚えていたんだな」
守護者は頷いた。
「……ヴァルドのこと」
再び、頷く。
レオは静かに手を伸ばした。
「……辛かっただろうな」
守護者の目から、涙が流れた。
レオは、その手を握った。
「……でも」
守護者が顔を上げる。
「ヴァルドは、お前を一人にしたかったわけじゃない」
「……」
「生きて、未来を見てほしかったんだ」
守護者は、レオを見つめていた。
レオは続けた。
「……俺たちがいる」
カイが隣へ立った。
「……ああ」
ミナも頷いた。
「一人じゃありません」
ガイアが静かに答えた。
「……これからは、共に歩もう」
守護者は、しばらく四人を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
三百年前。
北方、旧境界域。
封印された石の門の前。
アシュレイは、ヴァルドが消えた場所に立っていた。
白き守護者は、その隣にいる。
「……ヴァルド」
アシュレイは小さく呟いた。
「……お前の意思は、俺が守る」
白き守護者が顔を上げる。
アシュレイは、門に刻まれた紋様を見つめた。
「……絶対に、無駄にはしない」
その時。
門の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……まだだ』
アシュレイの表情が変わった。
「……何?」
『……まだ、終わっていない』
声は、すぐに消えた。
アシュレイは門を見つめた。
しかし、封印は安定している。
「……今のは」
白き守護者も、門を見つめていた。
その表情には、悲しみだけではない。
新たな不安が浮かんでいた。
――第144話・完――




