第143話「境界の崩壊」
三百年前。
北方、旧境界域。
第七監視地点。
雪に覆われた大地の中央に、巨大な石の門がそびえ立っていた。
かつて境界を守っていた白い封印は、その大部分が黒い影に侵食されている。
門の中央には、縦に伸びる亀裂。
その奥には、光の届かない世界が広がっていた。
そして、門の前には黒き守護者が立っていた。
『……逃げろ』
黒き守護者は、苦しそうに顔を歪めていた。
右腕から首元へ広がる異質な紋様。
その紋様は、彼自身の力ではなかった。
門の向こう側にいる存在が、彼の身体を通して現世へ干渉していた。
ヴァルドは一歩前へ出た。
「……逃げない」
黒き守護者が顔を上げる。
『……何?』
「お前を助ける」
『……無理だ』
「やってみなきゃ分からない」
『……俺は、もう……』
黒き守護者の右腕が持ち上がった。
その手のひらが、ヴァルドへ向けられる。
『……避けろ!』
黒い光が放たれた。
ヴァルドは咄嗟に術式を展開した。
《魂導鎖》
白い鎖が幾重にも重なり、黒い光を受け止める。
しかし、衝撃によって鎖の一部が砕けた。
「……くっ!」
アシュレイが前へ出る。
《魂導結界・三重障壁》
三層の白い壁が展開された。
黒い光は、二枚目の壁を破壊したところで勢いを失った。
アシュレイは眉をひそめた。
「……相当な力だ」
ヴァルドが頷く。
「しかも、本人は攻撃したくないんだ」
黒き守護者は、自分の右腕を左手で押さえつけていた。
『……来るな……!』
その隣で、白き守護者が静かに一歩を踏み出した。
黒き守護者の表情が変わる。
『……お前……』
白き守護者は、ゆっくりと手を伸ばした。
『……駄目だ!』
黒き守護者が叫ぶ。
『……俺に触れれば、お前まで……!』
しかし、白き守護者は歩みを止めなかった。
第七監視地点、外周。
三人目のネクロマンサーは、仲間たちと共に門の周囲へ術式を展開していた。
「……外側の結界を維持しろ!」
一人のネクロマンサーが叫ぶ。
《魂導防壁》
白い光が、門を囲むように広がっていく。
しかし、地面から黒い線が伸び始めた。
「……何だ、これは!」
三人目の男が地面を見た。
黒い線は、門から外側へ向かって広がっている。
「……まずい!」
男は術式を展開した。
《魂流遮断》
黒い線の進行が止まる。
しかし、別の場所から新たな線が現れた。
「……次から次へと!」
仲間の一人が叫んだ。
「外周の結界が持たない!」
三人目の男は歯を食いしばった。
「……まだだ!」
彼は両手を広げた。
《魂導結界・連結》
仲間たちの術式が繋がる。
白い光が、外周を包み込んだ。
しかし、その瞬間。
門の亀裂が大きく広がった。
地面が震え、監視塔の一部が崩れ始める。
「……全員、下がれ!」
三人目の男が叫んだ。
仲間たちは、崩れ落ちる石壁を避けながら後退した。
門の前。
ヴァルドは、黒き守護者の動きを見つめていた。
「……アシュレイ!」
「分かっている!」
アシュレイは術式を展開した。
《魂導探査・深層》
淡い光が黒き守護者を包み込む。
その瞬間、アシュレイの表情が変わった。
「……これは!」
ヴァルドが振り向く。
「何が見えた?」
「黒き守護者の魂に、別の存在が絡みついている!」
「……やはりか」
「しかも、ただ支配しているわけじゃない」
アシュレイは黒き守護者の胸元を見た。
「……境界そのものと繋がっている」
ヴァルドが眉をひそめた。
「……つまり?」
「黒き守護者を無理に引き離せば、門の封印まで崩れる可能性がある」
ヴァルドは息を呑んだ。
「……そんな」
黒き守護者が苦しそうに笑った。
『……だから、言っただろう』
「……」
『……俺を助けようとすれば、門が開く』
ヴァルドは拳を握った。
「……だったら、別の方法を探す」
『……時間がない』
黒き守護者は、門の亀裂を見た。
『……もうすぐ、境界が崩れる』
その言葉と同時に、門の奥から巨大な瞳が現れた。
『……よく来た』
低い声が響く。
ヴァルドは瞳を睨んだ。
「……お前が、全ての元凶か」
『……元凶?』
瞳がゆっくりと動いた。
『……我々は、ただ門を見つけただけだ』
「……ふざけるな!」
ヴァルドが叫ぶ。
「お前のせいで、仲間が消えた!」
『……あれは、自らこちらへ来た』
「……違う!」
ヴァルドは拳を握った。
「あいつは、仲間を救おうとしただけだ!」
瞳は何も答えなかった。
ただ、静かにヴァルドを見つめている。
『……ならば』
門の奥から、黒い手が伸びた。
『……お前も、救いに来るか』
ヴァルドは一歩も引かなかった。
「……ああ」
アシュレイが振り向く。
「ヴァルド!」
ヴァルドは続けた。
「必要なら、向こう側まで行ってやる」
黒き守護者の表情が変わった。
『……やめろ』
「……でも」
ヴァルドは白き守護者を見た。
「今は、ここで門を閉じる」
白き守護者が頷いた。
第七監視地点、中央。
ヴァルドと白き守護者は、門の前に並んだ。
アシュレイが二人の後方に立つ。
「……共同封印を始める」
ヴァルドが告げた。
白き守護者は、両手を胸元へ重ねた。
その身体から、白い光が広がる。
ヴァルドは術式を展開した。
《魂導結界・境界連結》
白い円が地面に浮かび上がった。
その中央に、ヴァルドと守護者が立つ。
アシュレイが術式を重ねた。
《魂導補助・三重固定》
三つの光の輪が、門の周囲に展開された。
「……今だ!」
ヴァルドが叫ぶ。
白き守護者が、門へ手を伸ばした。
《境界守護・白環》
巨大な白い光が、門の亀裂を包み込んだ。
黒い影が、少しずつ後退していく。
「……効いている!」
アシュレイが叫んだ。
ヴァルドは術式を維持した。
「……そのまま!」
しかし、その瞬間。
門の向こう側から、巨大な黒い手が伸びた。
白い光に触れる。
そして、光を奪い始めた。
アシュレイの表情が変わる。
「……まずい!」
ヴァルドが歯を食いしばった。
「……何だ、この力は!」
巨大な瞳が告げる。
『……同じ方法は、通じない』
ヴァルドの表情が変わった。
「……何?」
『……既に、学んだ』
黒い手が、白い光を握り潰そうとする。
『……お前たちの封印を』
アシュレイが叫んだ。
「……ヴァルド! 術式を変えろ!」
「……どうやって!」
「黒き守護者の力が必要だ!」
ヴァルドは顔を上げた。
「……何?」
アシュレイは続けた。
「白き守護者だけでは、門の外側しか支えられない!」
「……」
「内側からも封印しなければ、向こう側の力に破られる!」
ヴァルドは黒き守護者を見た。
黒き守護者は、苦しそうに膝をついていた。
『……俺には、もう……』
ヴァルドは叫んだ。
「……まだできる!」
黒き守護者が顔を上げる。
「お前は、ずっと境界を守ってきたんだろ!」
『……』
「だったら、最後まで諦めるな!」
黒き守護者は、ヴァルドを見つめた。
そして、白き守護者へ視線を向けた。
白き守護者は、静かに手を伸ばしていた。
黒き守護者の目が揺れた。
『……お前は』
白き守護者は頷いた。
『……まだ、俺を信じているのか』
白き守護者は、迷わず頷いた。
黒き守護者は、ゆっくりと目を閉じた。
『……そうか』
そして、静かに立ち上がった。
門の内側。
黒き守護者は、巨大な瞳へ向き直った。
『……お前に、俺の力は渡さない』
瞳が細くなる。
『……既に、お前は我々のものだ』
『……違う』
黒き守護者は右腕を持ち上げた。
黒い紋様が、さらに広がる。
しかし、彼は自分の意思で術式を展開した。
《境界守護・黒環》
本来の黒い光が、異質な影を押し返した。
巨大な瞳が動きを止める。
『……何?』
黒き守護者は続けた。
『……俺は、境界を守る者だ』
「……」
『……お前たちを通すために、ここにいるわけじゃない!』
黒い光が、門の内側へ広がった。
その瞬間。
白き守護者の光と、黒き守護者の光が重なった。
門の亀裂が、わずかに縮まり始める。
ヴァルドが叫んだ。
「……今だ!」
アシュレイが頷く。
《魂導結界・共同固定》
白と黒の光が、門の中央で交わった。
しかし。
巨大な瞳は、静かに笑うように細くなった。
『……待っていた』
ヴァルドの表情が変わった。
「……何?」
『……二つの守護者が、再び繋がる時を』
その瞬間。
門の奥から、無数の黒い線が伸びた。
それらは、白き守護者と黒き守護者の光へ絡みついた。
アシュレイが叫ぶ。
「……まずい! 繋がりを利用されている!」
ヴァルドは術式を維持しながら叫んだ。
「……どうすれば!」
巨大な瞳が告げる。
『……これで』
黒い線が、二つの守護者を通して門全体へ広がる。
『……境界は、我々のものになる』
その瞬間。
門に刻まれた最後の白い封印が、消えた。
第七監視地点。
巨大な石の門が、ゆっくりと開き始めた。
雪に覆われた大地に、深い亀裂が走る。
監視塔の残骸が崩れ落ち、黒い影が周囲へ広がっていく。
三人目のネクロマンサーが叫んだ。
「……外周結界が崩れる!」
仲間たちは必死に術式を維持していた。
しかし、黒い影は結界の隙間から広がり始めた。
「……駄目だ!」
一人が叫ぶ。
「……もう、抑えられない!」
三人目の男は拳を握った。
「……まだだ!」
《魂導結界・連結》
白い光が、再び広がる。
しかし、門の奥から現れた黒い影が、結界の一部を侵食した。
仲間の一人が膝をついた。
「……っ!」
三人目の男が駆け寄る。
「……大丈夫か!」
「……ああ……まだ……」
しかし、その男の右腕には、黒い紋様が浮かび始めていた。
三人目の男の表情が変わった。
「……そんな」
黒い紋様は、ゆっくりと広がっていく。
現在。
レオは、記憶の中の門を見つめていた。
「……共同封印が、逆に利用されたのか」
ガイアが頷く。
「向こう側の存在は、二つの守護者が繋がることを待っていた」
カイが拳を握った。
「……最初から罠だったってことか」
ミナは白き守護者を見た。
「……でも、守護者さんたちは、間違ったことをしたわけじゃないですよね」
死者の男が答えた。
『ああ』
レオが顔を上げる。
「……じゃあ、何が間違っていた?」
死者は静かに答えた。
『……敵を知らなかった』
「……敵を?」
『彼らは、境界を閉じる方法を知っていた』
「……」
『だが、向こう側の存在が、どれほど深く境界に入り込んでいるかを知らなかった』
ガイアが眉をひそめる。
「……つまり、封印する前に敵との繋がりを断つ必要があった」
死者は頷いた。
『……そうだ』
レオは拳を握った。
「……まだ、何か方法があるはずだ」
守護者は、記憶の奥を見つめていた。
その表情には、深い悲しみが浮かんでいた。
三百年前。
第七監視地点。
門の中央。
ヴァルドは、崩れかけた術式を必死に維持していた。
「……アシュレイ!」
「……分かっている!」
アシュレイは術式図を見つめた。
「……黒い線を切らなければ!」
「……できるのか!」
「……試すしかない!」
アシュレイは両手を広げた。
《魂導断絶・境界切離》
白い光が、黒い線へ向かって伸びる。
しかし、黒い線は簡単には切れなかった。
アシュレイは歯を食いしばった。
「……くそ!」
その時。
黒き守護者が、ゆっくりと顔を上げた。
『……一つだけ、方法がある』
ヴァルドが振り向く。
「……何?」
黒き守護者は、白き守護者を見つめた。
『……俺が、門の内側へ戻る』
白き守護者の表情が変わった。
『……そして、繋がりを断つ』
ヴァルドは首を振った。
「……それじゃ、お前は!」
黒き守護者は静かに答えた。
『……戻れないかもしれない』
白き守護者が、必死に首を振った。
黒き守護者は小さく笑った。
『……泣くな』
そして、ヴァルドへ視線を向けた。
『……頼みがある』
ヴァルドは黒き守護者を見つめた。
「……何だ?」
『……あいつを、守ってくれ』
ヴァルドは拳を握った。
「……お前も守る」
黒き守護者は、少しだけ目を見開いた。
ヴァルドは続けた。
「……まだ、終わってない!」
その時。
門の奥から、巨大な黒い手が伸びた。
黒き守護者の身体を掴もうとする。
ヴァルドは術式を展開した。
《魂導鎖》
白い鎖が、黒き守護者を守るように広がった。
「……絶対に、渡さない!」
しかし。
門の向こう側から、低い声が響いた。
『……もう、遅い』
巨大な瞳が開く。
『……境界は、崩れた』
その瞬間。
門の奥から、これまでとは比較にならないほど巨大な黒い影が現れ始めた。
――第143話・完――




