第139話「ヴァルドの選択」
三百年前。
魂導院、東棟。
深夜。
最初に黒い石へ触れたネクロマンサーは、床に膝をついていた。
右腕から広がった黒い紋様は、既に首元まで達している。
「……やめろ……!」
男は左手で右腕を押さえつけた。
しかし、右腕は自分の意思とは無関係に持ち上がろうとしていた。
『……抵抗するな』
頭の中に声が響く。
「……黙れ!」
『……お前は、こちら側と繋がっている』
「……俺は……人間だ!」
男は歯を食いしばった。
『……ならば、なぜ』
黒い紋様が胸元へ広がる。
『……その身体は、我々に応える』
男は苦痛に顔を歪めた。
「……俺が望んだわけじゃない!」
その瞬間、部屋の床に黒い線が浮かび上がった。
線は円形に広がり、中央に古い紋様を描き始める。
男は目を見開いた。
「……まずい!」
それは、研究室で二人目のネクロマンサーが使用した術式に似ていた。
だが、決定的に違う点があった。
術式を描いているのは、男自身ではなかった。
向こう側の存在が、男の魂を通して術式を構築していた。
「……誰か!」
男は必死に叫んだ。
「……助けてくれ!」
魂導院、地下封印庫。
ヴァルドは黒い石を見つめていた。
その表面には、細い亀裂が幾つも走っている。
アシュレイが術式を調整する。
「……封印が弱まっている」
「北方の門と連動しているのか?」
「恐らくな」
ヴァルドは眉をひそめた。
「……あいつの状態は?」
アシュレイは答えた。
「最後に確認した時は、紋様の進行が止まっていた」
「……そうか」
「だが、安心はできない」
ヴァルドが頷いた。
その時、封印庫の扉が開いた。
三人目のネクロマンサーが駆け込んできた。
「……ヴァルド!」
「どうした?」
「東棟で異変が起きている!」
アシュレイが振り向く。
「……何?」
「最初の研究者の部屋から、黒い術式が広がっている!」
ヴァルドの表情が変わった。
「……行くぞ!」
二人は研究室を飛び出した。
東棟。
廊下には、数人の教会騎士が集まっていた。
部屋の扉からは、黒い線が伸びている。
「……何だ、これは!」
騎士の一人が叫ぶ。
別の騎士が剣を抜いた。
「危険だ! 中の者を拘束しろ!」
その瞬間。
「待て!」
ヴァルドが廊下へ現れた。
「剣を向けるな!」
騎士が振り向く。
「しかし、あの中では!」
「分かっている!」
ヴァルドは扉へ近づいた。
アシュレイが床の術式を確認する。
「……魂導術が逆流している」
「止められるか?」
「試す」
アシュレイは両手を広げた。
《魂導断絶》
白い光が床を走る。
黒い線の一部が消えた。
しかし、扉の奥から新たな線が伸びてくる。
「……再生している!」
アシュレイが叫ぶ。
ヴァルドは扉を押し開けた。
部屋の中央。
最初のネクロマンサーは、黒い術式に囲まれていた。
「……ヴァルド!」
男が顔を上げる。
ヴァルドは駆け寄ろうとした。
しかし、床から伸びた黒い線が進路を塞いだ。
「……来るな!」
男が叫ぶ。
「俺の身体が……勝手に……!」
ヴァルドは立ち止まった。
「……分かってる!」
「……俺を……止めてくれ!」
「必ず止める!」
ヴァルドは術式を展開した。
《魂導鎖》
白い鎖が男の右腕を包み込む。
黒い紋様の進行が、わずかに遅くなった。
しかし、男の身体から黒い影が伸び始める。
その影は、ヴァルドの鎖に絡みついた。
アシュレイが叫んだ。
「ヴァルド! 鎖を切れ!」
「……何?」
「そのままでは、お前まで繋がる!」
ヴァルドは男を見た。
男の目には、涙が浮かんでいた。
「……頼む……!」
ヴァルドは拳を握った。
そして、術式を解除した。
白い鎖が消える。
黒い影は、行き場を失って床へ落ちた。
アシュレイがすぐに別の術式を展開する。
《魂流遮断・外環》
部屋の外周に白い円が浮かび上がった。
黒い線が、廊下へ広がるのを止める。
「……これで外への侵食は防げる!」
ヴァルドが頷く。
「中のあいつは?」
アシュレイは答えられなかった。
魂導院、中庭。
異変の報告を受けた聖王教会の指揮官は、騎士たちを集めていた。
「東棟を封鎖しろ!」
「承知しました!」
「異変の中心にいる研究者は?」
「ヴァルドたちが対応しています!」
指揮官は眉をひそめた。
「……まだ彼らに任せているのか」
老司祭が口を開く。
「指揮官殿、今は協力すべきです」
「危険な術者を放置するわけにはいかん」
「本人の意思ではありません」
「だからこそ危険なのだ」
指揮官は剣を持つ騎士へ命じた。
「必要ならば、対象を拘束しろ」
老司祭が一歩前へ出た。
「……殺してはなりません」
指揮官は振り向いた。
「誰が殺せと言った?」
「ですが、騎士たちは武装しています」
「……」
「今、彼らに必要なのは治療です」
指揮官はしばらく黙っていた。
そして、低い声で答えた。
「……分かっている」
しかし、その表情には迷いが残っていた。
東棟。
ヴァルドは、黒い術式の中心にいる男を見つめていた。
「……アシュレイ」
「何だ?」
「この術式を止める方法は?」
アシュレイは床を調べた。
「……二つある」
ヴァルドが顔を上げる。
「……二つ?」
「ああ」
アシュレイは続けた。
「一つは、黒い石と男の繋がりを完全に断つこと」
「……できるのか?」
「可能性はある。ただし、魂そのものに傷が残るかもしれない」
ヴァルドは男を見た。
「……もう一つは?」
アシュレイは言葉を詰まらせた。
「……男の魂を封印の核にすることだ」
ヴァルドの表情が変わった。
「……教会と同じ方法か」
「違う」
アシュレイは首を振った。
「教会の術式は、他人の魂を強制的に固定する」
「……」
「だが、本人が望むなら、一時的に自分の魂を繋ぎ止めることはできる」
ヴァルドは考え込んだ。
「……それでも危険だ」
「ああ」
「魂が戻らなくなる可能性もある」
「……否定できない」
二人は沈黙した。
その時、最初の男が口を開いた。
「……ヴァルド」
「……何だ?」
「……俺に、選ばせてくれ」
ヴァルドが顔を上げた。
「……何?」
「俺の魂だ」
男は震える声で続けた。
「……俺自身が、どうするか決めたい」
ヴァルドは男を見つめた。
「……死ぬかもしれないんだぞ」
「……分かってる」
「……それでも?」
男は頷いた。
「……ああ」
ヴァルドは目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、十三人で魂導院を作った日のことだった。
全員が笑っていた。
死者を恐れる世界を変えたいと語り合った。
誰かの魂を支配するのではなく、導く存在になろうと誓った。
ヴァルドは目を開けた。
「……分かった」
アシュレイが振り向く。
「ヴァルド?」
「……本人の意思を尊重する」
男の表情が変わった。
「……ありがとう」
しかし、ヴァルドは続けた。
「ただし、一つだけ条件がある」
「……条件?」
「お前が死ぬための術式にはしない」
男は目を見開いた。
「……何?」
「生きるために使う」
ヴァルドは男へ手を伸ばした。
「俺たちが、お前を必ず戻す」
男は涙を流した。
「……ああ」
アシュレイは小さく息を吐いた。
「……本当に、お前らしいな」
ヴァルドは振り向いた。
「協力してくれるか?」
アシュレイは頷いた。
「当然だ」
魂導院、東棟。
三人は術式の準備を始めた。
ヴァルドが魂の流れを固定する。
アシュレイが黒い石との繋がりを遮断する。
そして、最初のネクロマンサー自身が、自分の魂を守るための術式を展開する。
《魂導結界・自律封印》
男の胸元に、白い紋様が浮かび上がった。
黒い線が、その周囲で動きを止める。
「……効いている!」
アシュレイが叫んだ。
ヴァルドが頷く。
「そのまま維持しろ!」
男は歯を食いしばった。
「……ああ!」
白い紋様が強まる。
黒い術式が、少しずつ縮小していく。
しかし、その時。
男の頭の中に、声が響いた。
『……愚かな』
男は目を閉じた。
「……黙れ」
『……お前は、我々から逃れられない』
「……それでも」
男は拳を握った。
「……俺は、自分で選ぶ!」
その瞬間、白い紋様が黒い線を押し返した。
床に広がっていた術式が消え始める。
ヴァルドが叫んだ。
「……今だ!」
アシュレイが両手を広げる。
《魂導断絶・完全遮断》
白い光が部屋を包み込んだ。
黒い線が次々と消えていく。
そして、最後の一本が消えた瞬間。
男の身体から力が抜けた。
ヴァルドが駆け寄る。
「……おい!」
男は倒れ込んだ。
アシュレイが膝をつく。
「……魂の反応は?」
ヴァルドは男の胸元へ手を当てた。
「……ある」
「……本当か?」
「ああ」
ヴァルドは小さく笑った。
「……生きてる」
アシュレイも安堵の息を吐いた。
しかし、男の右腕には黒い紋様が残っていた。
それは消えていなかった。
ただ、動きを止めているだけだった。
現在。
レオは記憶の中のヴァルドを見つめていた。
「……生きるための術式」
ガイアが頷く。
「本人の意思を尊重しながら、仲間を救おうとした」
カイが腕を組んだ。
「……でも、完全には治ってないんだな」
ミナが静かに答える。
「……それでも、助かったんですよね」
死者の男が頷いた。
『ああ』
レオは守護者を見た。
「……ヴァルドは、最後まで諦めなかったんだな」
守護者は静かに頷いた。
しかし、その表情には悲しみが浮かんでいた。
レオが尋ねる。
「……どうした?」
守護者は答えなかった。
ただ、記憶の奥へ視線を向けた。
三百年前。
魂導院、地下封印庫。
深夜。
黒い石は、静かに封印されていた。
しかし、その表面には、新たな亀裂が生まれていた。
石の奥で、小さな瞳が開く。
『……選んだか』
低い声が響いた。
『……ならば』
瞳は、遠く離れた東棟へ向けられた。
『……次は、我々が選ぶ』
その頃。
魂導院の外では、聖王教会の騎士たちが密かに移動を始めていた。
彼らの目的は、黒い石でも、守護者でもなかった。
魂導院に残された、十二人のネクロマンサー。
その中の一人を、封印の核として確保することだった。
――第139話・完――




