第136話「二人目の失踪」
三百年前。
魂導院、研究室。
深夜を過ぎても、一つの部屋だけに明かりが灯っていた。
机の上には、何枚もの術式図と古い研究記録が広げられている。
その中央に置かれていたのは、小さな封印石だった。
二人目のネクロマンサーは、石を見つめていた。
「……これで、繋がりを辿れるはずだ」
右腕の袖をまくる。
黒い紋様は、既に肘の上まで広がっていた。
男は自分の腕に触れた。
「……待ってろよ」
思い浮かべたのは、隣の部屋で眠っている仲間の顔だった。
最初に黒い石へ触れた男。
共に研究を始め、共に禁じられた実験を行い、同じ異変に苦しんでいる友人。
「必ず、お前を元に戻す」
男は封印石を握った。
その瞬間、石の奥に小さな黒い瞳が浮かんだ。
『……望みは何だ』
男は目を細めた。
「……またお前か」
『……答えろ』
「仲間を救いたい」
『……救える』
男の表情が変わった。
「……何?」
『……こちらへ来れば』
「信用できると思うか?」
『……信用は必要ない』
男は封印石を机に置いた。
「……だったら、黙ってろ」
しかし、声は消えなかった。
『……お前は知りたいのだろう』
男は筆を握り直す。
『……繋がりを断つ方法を』
「……」
『……答えは、門の向こうにある』
男はしばらく動かなかった。
やがて、小さく呟いた。
「……なら、見るだけだ」
彼は封印石の周囲に、新たな術式を描き始めた。
魂導院、東棟。
最初のネクロマンサーは、寝台の上で目を覚ました。
「……またか」
右腕の紋様が熱を帯びている。
だが、いつもの声は聞こえなかった。
代わりに、誰かの気配が遠ざかっていくような感覚があった。
「……おい?」
隣の寝台を見る。
二人目の姿がない。
「……どこに行った?」
男は立ち上がった。
部屋の扉を開けると、廊下には教会の騎士が立っていた。
「部屋へ戻れ」
「仲間を探してる」
「許可なく移動するな」
「すぐ戻るから」
「駄目だ」
男は騎士を睨んだ。
「……あいつがいないんだよ」
「誰のことだ?」
「一緒に隔離されてた奴だ!」
騎士の表情が変わった。
「……何?」
「だから、いなくなったんだ!」
騎士は隣の同僚を見た。
「確認してくる」
「俺も行く」
「お前はここにいろ」
男は拳を握った。
「……頼む」
その声には、怒りよりも不安が滲んでいた。
「早く、見つけてくれ」
研究室。
二人目のネクロマンサーは、術式の完成を目前にしていた。
床には二つの円が描かれている。
一つは魂を固定するためのもの。
もう一つは、境界との繋がりを観測するためのものだった。
「……魂を固定したまま、繋がりだけを辿る」
男は術式を見つめる。
「そうすれば、身体を奪われずに向こう側を調べられる」
彼は一度、深く息を吐いた。
「……成功するはずだ」
封印石を中央に置く。
《魂導観測・境界追跡》
淡い光が床に広がった。
封印石から、細い黒い線が伸びる。
男はその線を見つめた。
「……見えた」
黒い線の先には、暗闇が広がっている。
さらに奥には、雪山の谷があった。
巨大な石の門。
そして、門の向こう側。
「……ここが」
男は目を細めた。
「……境界の内側か」
しかし、次の瞬間。
術式の光が揺らいだ。
「……何?」
黒い線が、男の右腕へ伸び始めた。
「……待て」
男は術式を解除しようとした。
だが、光は消えなかった。
「……なぜだ!」
封印石の瞳が開いた。
『……繋がった』
男は顔を上げた。
「……お前!」
『……今度は、お前が来る番だ』
「ふざけるな!」
男は右腕を引いた。
しかし、黒い線は離れなかった。
むしろ、腕の紋様と繋がり、身体の内側へ入り込んでいく。
「……っ!」
男は膝をついた。
「……違う……俺は……」
『……救いたいのだろう』
「……ああ!」
『……ならば、こちらへ』
男は首を振った。
「……お前の力なんか、借りない!」
その瞬間、床の術式が大きく歪んだ。
男の背後に、細い亀裂が現れる。
亀裂の向こうには、深い暗闇が広がっていた。
魂導院、廊下。
ヴァルドとアシュレイは、騎士から報告を受けていた。
「……二人目がいない?」
ヴァルドが尋ねる。
「はい。隔離室を抜け出したようです」
アシュレイが眉をひそめた。
「見張りは何をしていた?」
「交代の時間に、姿を確認できなくなっていたようで……」
「……研究室だ」
ヴァルドが呟いた。
アシュレイが振り向く。
「何?」
「昨日、あいつは古い術式について聞いてきた」
「どんな術式だ?」
「魂と境界の繋がりを切り離す方法だ」
アシュレイの表情が変わった。
「……まさか」
二人は走り出した。
その後ろを、教会の騎士たちが追った。
研究室。
二人目のネクロマンサーは、亀裂から伸びる黒い線を必死に押さえていた。
《魂縛鎖》
光の鎖が、男の右腕を包む。
「……離れろ!」
黒い線が、一瞬だけ動きを止めた。
しかし、亀裂の奥から別の手が伸びた。
それは人間の手に似ていたが、指が異様に長かった。
男は目を見開いた。
「……来るな!」
黒い手が、光の鎖に触れる。
鎖の光が失われ始めた。
「……くそ!」
男は術式を切り替えた。
《魂導断絶》
黒い線が一本、断ち切られる。
だが、その直後。
亀裂の向こうから、さらに多くの線が伸びてきた。
「……こんなもの……!」
男は歯を食いしばった。
「……俺は、まだ死ねない!」
黒い手が、男の胸元へ伸びる。
男は必死に後退した。
しかし、足元の術式が崩れ、身体が亀裂へ引き寄せられ始めた。
「……誰か!」
その声が、研究室の外まで届いた。
「開けろ!」
ヴァルドが扉を押した。
しかし、扉は開かなかった。
アシュレイが術式を展開する。
《魂導解錠》
扉に刻まれた封印が解除される。
二人は研究室へ駆け込んだ。
「……おい!」
ヴァルドが叫ぶ。
二人目のネクロマンサーは、亀裂の前で必死に踏みとどまっていた。
「……ヴァルド!」
「何をしている!」
「……すまない!」
アシュレイが亀裂を見た。
「……境界が開いている!」
ヴァルドは男へ手を伸ばした。
「掴まれ!」
男も左手を伸ばす。
二人の指先が、わずかに触れた。
しかし、その瞬間。
黒い手が男の右腕を掴んだ。
「……っ!」
男の身体が亀裂へ引き寄せられる。
ヴァルドは腕を掴み直した。
「……離すな!」
アシュレイが術式を展開する。
《魂導鎖・二重拘束》
光の鎖が男の身体を包み込む。
亀裂から引き離そうとする。
だが、黒い手は鎖を掴み、その力を奪い始めた。
アシュレイが叫んだ。
「……まずい! 術式を逆に利用されている!」
ヴァルドは男の腕を握り続けた。
「……だったら、どうすれば!」
「繋がりを切るしかない!」
「そんなことをしたら!」
「このままでは、お前まで引き込まれる!」
ヴァルドは歯を食いしばった。
二人目のネクロマンサーが、震える声で呟いた。
「……ヴァルド」
「喋るな!」
「……俺が、間違えた」
「後で聞く!」
「……仲間を救いたかったんだ」
ヴァルドの表情が歪んだ。
「……分かってる!」
「……だから……」
男は、ヴァルドの手を見つめた。
「……お前まで、失いたくない」
「……何を言ってる!」
男は小さく笑った。
「……あいつに、伝えてくれ」
「自分で伝えろ!」
「……一人にして、すまなかったって」
その瞬間。
男は、自分の左手をヴァルドの腕から離した。
「……やめろ!」
ヴァルドが叫ぶ。
男の身体が、亀裂の奥へ引き込まれていく。
アシュレイが最後の術式を放った。
《魂導捕縛》
光の鎖が暗闇へ伸びた。
しかし、男の姿には届かなかった。
亀裂は急速に閉じ始める。
「……待て!」
ヴァルドが駆け寄る。
だが、アシュレイが肩を掴んだ。
「行くな!」
「まだ中にいる!」
「お前まで失う!」
ヴァルドは振りほどこうとした。
「……離せ!」
「ヴァルド!」
亀裂は細い線となり、最後には完全に消えた。
研究室に静けさが戻った。
床には、壊れた封印石だけが残されていた。
現在。
記憶を見ていたミナが、口元を押さえた。
「……そんな……」
カイは拳を握った。
「……あと少しだったのに」
ガイアが静かに答える。
「彼は、自分で手を離した」
レオは亀裂が消えた場所を見つめていた。
「……ヴァルドを守るために」
死者の男が頷いた。
『ああ』
「……それで、二人目はどうなったんだ?」
死者は答えなかった。
レオが振り向く。
「……死んだのか?」
『……分からない』
「……何?」
『遺体は見つからなかった』
ガイアの表情が変わった。
「……魂の反応は?」
『確認できなかった』
ミナが顔を上げる。
「じゃあ……生きている可能性も?」
『……否定はできない』
死者の男は続けた。
『だが、三百年が過ぎても、彼の行方は分からないままだ』
レオは拳を握った。
「……まだ、終わってないのかもしれない」
守護者は静かに記憶の奥を見つめていた。
三百年前。
魂導院、東棟。
ヴァルドとアシュレイは、最初のネクロマンサーへ事実を伝えていた。
「……嘘だろ」
男は呟いた。
ヴァルドは俯いた。
「……すまない」
「……嘘だよな?」
アシュレイが答える。
「……境界の亀裂に引き込まれた」
「……」
「まだ、死んだと決まったわけじゃない」
男は立ち上がった。
「……どこだ」
ヴァルドが顔を上げる。
「何?」
「どこで消えた!」
「……研究室だ」
男は扉へ向かった。
しかし、ヴァルドが腕を掴む。
「待て!」
「離せ!」
「今行っても!」
「……あいつが!」
男は振り向いた。
その目には涙が浮かんでいた。
「……あいつが、俺を助けようとしてたんだろ!」
ヴァルドは何も言えなかった。
男は膝をついた。
「……何でだよ」
両手で顔を覆う。
「……俺のせいで……」
アシュレイが近づいた。
「……違う」
「……違わない!」
「彼は、自分で選んだんだ」
「……そんなの……」
男は声を震わせた。
「……俺が望んだことじゃない……」
ヴァルドは、静かに男の肩へ手を置いた。
「……必ず探す」
男が顔を上げる。
「……本当か?」
「ああ」
「……約束してくれるか?」
ヴァルドは頷いた。
「……約束する」
しかし、その夜。
魂導院の地下封印庫では、黒い石の奥に新たな変化が起きていた。
小さな黒い瞳の隣に、もう一つの影が浮かんでいた。
人間の形をした、曖昧な影。
その姿は、二人目のネクロマンサーによく似ていた。
だが、それが本人なのか。
それとも、向こう側の存在が作り出した幻なのか。
確かめる者は、誰もいなかった。
――第136話・完――




