第133話「最初の犠牲」
三百年前。
魂導院、地下封印庫。
黒い石から伸びた影が、白い守護者の足元へ迫っていた。
「守護者! 離れろ!」
ヴァルドが叫んだ。
しかし、守護者は動かなかった。
両手を広げ、黒い影の進路を塞ぐ。
白い光が床を覆い、影の動きが止まった。
アシュレイが術式を展開する。
《魂導封印・三重結界》
三つの光の輪が黒い石を包み込んだ。
「ヴァルド! 石と影の繋がりを断て!」
「分かった!」
ヴァルドは両手をかざす。
《魂流遮断》
黒い石から伸びる影と、守護者の間に白い壁が現れた。
影は壁に触れた瞬間、細い線となって周囲へ広がった。
「……術式を迂回している!」
アシュレイが叫ぶ。
「力で押さえ込むな! 流れを止めろ!」
ヴァルドは術式を切り替えた。
だが、黒い影は床の亀裂を伝い、守護者の背後へ回り込もうとしていた。
守護者が振り返る。
その身体から白い光が広がり、影を押し返した。
しかし、影は消えない。
むしろ、守護者の光に触れるたびに形を変えていた。
「……何をしている?」
ヴァルドが呟く。
アシュレイは黒い石を見つめた。
「……調べているんだ」
「何?」
「守護者の力を」
その言葉に、ヴァルドの表情が変わった。
「まさか……」
「封印を破るために、守護者の術式を理解しようとしている」
黒い石の奥で、小さな瞳が動いた。
『……境界を守る力』
守護者の白い光が強まる。
『……興味深い』
アシュレイが叫んだ。
「守護者! これ以上、力を見せるな!」
守護者は二人を見た。
そして、ゆっくりと頷いた。
白い光が収束する。
黒い影は、一瞬だけ動きを止めた。
その隙にヴァルドが術式を重ねた。
《魂導封鎖》
影が黒い石へ押し戻されていく。
最後の一本が結界の内側へ戻ると、アシュレイは封印を閉じた。
封印庫に静けさが戻った。
「……止まったか」
ヴァルドが息を整える。
アシュレイは黒い石から目を離さなかった。
「いや」
「……何?」
「今のは、攻撃じゃなかった」
「どういうことだ?」
「向こう側の存在は、守護者の力を確かめていた」
ヴァルドは守護者を見た。
白い身体には、細い黒い線が一本だけ残っていた。
守護者がその部分へ手を当てる。
すると、黒い線はゆっくりと消えていった。
だが、アシュレイの表情は険しいままだった。
「……次は、同じ方法では止められないかもしれない」
北方、旧境界域。
巨大な石の門の前では、一人の境界監視者が封印を維持していた。
《境界固定・白環》
白い術式が門を囲んでいる。
しかし、門の隙間から伸びた黒い手は、術式の光を少しずつ奪っていた。
監視者の額には汗が浮かんでいた。
「……まだだ」
黒い手が地面を這う。
監視者は術式を組み替え、その進路を遮断する。
「これ以上……現世へは出させん」
しかし、門の奥から声が響いた。
『……なぜ守る』
監視者は顔を上げた。
「……誰だ」
『……お前たちは、何を守っている』
「答える必要はない」
『……境界の向こうにいる者を、知らぬまま拒むのか』
監視者は歯を食いしばった。
「お前たちが何者であろうと、他者の意思を奪うことは許さん」
黒い手が動きを止めた。
『……意思』
声は、その言葉を確かめるように繰り返した。
『……それが、お前たちの弱さか』
次の瞬間。
黒い手が、封印陣の外側へ伸びた。
監視者は両手を広げる。
《境界断絶》
白い光が黒い手を遮った。
だが、黒い指は光の壁を掴んだ。
そして、ゆっくりと引き裂き始めた。
「……何だと!」
監視者は術式を強める。
しかし、黒い手は止まらない。
白い光が少しずつ失われていった。
「……このままでは」
監視者は背後の雪道を見た。
若い監視者は、既に増援を呼びに向かっている。
「……頼んだぞ」
彼は再び門へ向き直った。
「お前だけは、必ず生きて戻れ」
そして、両手を胸の前で重ねた。
《境界守護・生命環》
監視者の身体から、白い光が広がる。
その光は、門の周囲に残された封印陣へ流れ込んでいった。
黒い手が動きを止めた。
『……命を使うのか』
監視者は静かに答えた。
「違う」
『……何?』
「俺は、ここを守ると決めた」
白い光が門を包み込む。
「誰かに命じられたからじゃない」
監視者の身体が、少しずつ透き通っていった。
「俺自身の意思だ」
黒い手が、封印陣の内側へ押し戻されていく。
門の亀裂が狭まった。
しかし、完全には閉じない。
監視者は最後の力を振り絞った。
「……せめて、増援が来るまで」
白い光がさらに強まった。
その瞬間、門の向こうから別の黒い影が伸びた。
それは監視者の胸を貫くように入り込み、身体の内側へ広がった。
監視者の表情が歪む。
「……っ!」
『……その意思も』
声が響く。
『……奪える』
監視者は膝をついた。
だが、両手を下ろさなかった。
「……渡さん」
『……なぜ』
「……俺が守ると決めたからだ」
その言葉を最後に、監視者の身体は白い光へ変わっていった。
光は封印陣に吸収され、門の亀裂を一時的に閉じた。
雪の上には、彼が身につけていた境界監視者の徽章だけが残された。
魂導院。
境界監視者たちが集まる部屋に、一人の若い監視者が駆け込んできた。
「……北方から戻りました!」
年配の監視者が振り向く。
「報告しろ」
若い監視者は肩で息をしながら答えた。
「旧境界域の門が開きました。封印術式はほとんど機能していません」
「向こう側から何か出たのか?」
「黒い手が……」
「黒い手?」
「術式の力を奪うんです。封印を強めるほど、こちらの力が吸収されて……」
若い監視者は言葉を詰まらせた。
「……もう一人は?」
年配の監視者が尋ねる。
若い監視者は俯いた。
「……残りました」
「何?」
「俺を逃がすために、一人で門を守って……」
「……そうか」
年配の監視者は目を閉じた。
若い監視者の声が震える。
「……俺が残るべきだったんです」
「違う」
「でも!」
「彼は、お前に戻れと言ったのだろう」
「……はい」
「ならば、その選択を無駄にするな」
若い監視者は唇を噛んだ。
「……必ず、門を閉じます」
年配の監視者は静かに頷いた。
「そのために、我々はここにいる」
現在。
記憶を見つめていたミナが、胸元で手を握りしめた。
「……亡くなってしまったんですね」
死者の男が頷く。
『ああ』
カイは険しい表情を浮かべた。
「……一人で、あんなものを相手にして」
ガイアが静かに答える。
「仲間を逃がすためだったんだ」
レオは雪の上に残された徽章を見つめていた。
「……自分の意思で守った」
守護者が頷いた。
「でも、あの黒い手は、その意思まで奪おうとした」
死者の男が口を開く。
『あれは、我々が初めて知ったことだった』
「何を?」
『向こう側の存在は、魂の力だけを求めていたわけではない』
レオが振り向く。
『生きる者の意思そのものに干渉できる』
ミナが顔を曇らせる。
「……そんな」
ガイアは考え込んだ。
「だから、強制的な魂の契約は危険なんだな」
レオは静かに頷いた。
「俺は……絶対に、そんなことはしない」
守護者がレオの手に触れた。
その白い光は、穏やかだった。
三百年前。
魂導院、大広間。
十三人のネクロマンサーが集められていた。
ヴァルドは仲間たちを見渡した。
「……北方の門で、境界監視者が一人命を落とした」
広間に沈黙が広がる。
最初の男が顔を伏せた。
「……俺のせいだ」
ヴァルドが首を振る。
「今は誰かを責める時じゃない」
「でも……!」
「お前を責めても、門は閉じない」
アシュレイが続けた。
「必要なのは、これ以上の犠牲を出さない方法だ」
二人目のネクロマンサーが尋ねる。
「……方法はあるのか?」
ヴァルドは答えられなかった。
その時、広間の扉が開いた。
聖王教会の指揮官が、数人の司祭を連れて入ってきた。
「……話は聞いた」
ヴァルドが振り向く。
「教会も北方へ増援を送るのか?」
「ああ」
指揮官は頷いた。
「だが、それだけでは足りん」
「……どういう意味だ?」
「境界を閉じるための方法を、教会でも調べた」
アシュレイが顔を上げる。
「方法が見つかったのか?」
指揮官は一枚の古い書物を取り出した。
「古い封印術式だ」
ヴァルドが書物を受け取る。
そこには、巨大な円形術式が描かれていた。
中心には、複数の人影が配置されている。
「……これは」
指揮官が答えた。
「生者の魂を使い、境界を固定する術式だ」
広間の空気が凍りついた。
アシュレイが顔を上げる。
「……何を言っている?」
「通常の術式では、向こう側に力を奪われる。ならば、より強い魂の力を封印の核にする」
ヴァルドは書物を見つめた。
「……その魂は、どうなる?」
指揮官は答えなかった。
「答えろ」
ヴァルドの声が低くなる。
「封印に使われた人間は、どうなるんだ?」
指揮官は静かに告げた。
「……戻れない」
その瞬間、アシュレイが立ち上がった。
「ふざけるな!」
指揮官は表情を変えなかった。
「世界を守るためだ」
「だからといって、生きている人間を犠牲にするのか!」
「他に方法があるのか?」
ヴァルドは書物を閉じた。
そして、指揮官を真っ直ぐに見つめた。
「……ある」
アシュレイが振り向く。
「ヴァルド?」
「必ず探す」
ヴァルドは続けた。
「誰かを犠牲にしなければ世界を守れないなんて、俺は認めない」
指揮官は冷たく答えた。
「理想だけでは、門は閉じられん」
ヴァルドは一歩前へ出た。
「だったら、理想を現実にするまでだ」
十三人のネクロマンサーたちは、その言葉を聞いていた。
しかし、その中には既に、ヴァルドの考えに疑問を抱き始めた者もいた。
そして、聖王教会は密かに別の準備を進めていた。
生きた魂を、封印の核にするための準備を。
――第133話・完――




