第132話「向こう側の手」
三百年前。
北方、旧境界域。
雪に覆われた谷の奥で、巨大な石の門が開き始めていた。
門の中央に生まれた亀裂は、既に人間一人が通れるほどの幅になっている。
その向こうには、底の見えない暗闇が広がっていた。
「……これ以上は危険だ!」
若い境界監視者が叫んだ。
もう一人の監視者は、地面に片膝をつきながら術式を維持していた。
「分かっている!」
「封印陣が消えかけています!」
「まだ全て失われたわけではない!」
監視者は両手を広げた。
《境界封鎖・三重陣》
地面に三つの白い円が浮かび上がる。
それぞれが重なり合い、門の周囲を囲んだ。
開きかけていた門が、わずかに動きを止める。
「……止まった!」
若い監視者が顔を上げた。
しかし、次の瞬間。
門の隙間から、細長い黒い腕が伸びてきた。
人間の腕に似ていた。
だが、指は異様に長く、関節の位置も不自然だった。
その手が、白い封印陣に触れる。
「……何だ、あれは」
若い監視者が呟いた。
黒い指が触れた部分から、封印陣の光が失われ始めた。
「離れろ!」
年配の監視者が叫ぶ。
「術式を通して、こちらの力を奪っている!」
「そんなことが……!」
「術式を切れ!」
若い監視者は慌てて手を下ろした。
しかし、白い光は消えなかった。
「……切れません!」
「何?」
「術式が、勝手に維持されています!」
黒い手は、光の流れを伝って若い監視者へ近づいていた。
年配の監視者が立ち上がる。
《境界切断》
白い刃が空間を走った。
若い監視者と封印陣を繋いでいた光が断ち切られる。
若い監視者は雪の上へ倒れ込んだ。
「……助かりました」
「立てるか?」
「はい……」
「ならば下がれ」
年配の監視者は門を見据えた。
「我々二人では、もう封じられん」
魂導院。
東棟の一室。
最初に黒い石へ触れた男は、寝台の上で意識を失っていた。
ヴァルドが男の腕を調べる。
「……紋様の進行は止まっている」
アシュレイが尋ねた。
「門との繋がりは?」
「完全には切れていない」
「やはりか」
ヴァルドは男の右腕を見つめた。
黒い紋様は薄くなっていたが、消えてはいなかった。
「俺たちが術式を使った瞬間、向こう側から何かが引き返してきた」
「魂の流れを逆に辿ったのか?」
「恐らくな」
アシュレイは考え込んだ。
「……つまり、魂導術そのものが通り道になる可能性がある」
「そうだ」
「厄介だな」
ヴァルドは頷いた。
「下手に術式を使えば、俺たちまで繋がる」
その時、扉が開いた。
入ってきたのは、二人目のネクロマンサーだった。
「……話がある」
ヴァルドが振り向く。
「どうした?」
「俺の紋様も、さっきから変化している」
二人目は右腕を見せた。
黒い線が、手首から肘へと伸びている。
「痛みはない。でも……」
「でも?」
「誰かの声が聞こえる」
アシュレイの表情が変わった。
「何と言っている?」
「……帰れ、と」
「帰れ?」
「ああ」
二人目は俯いた。
「まるで、俺が向こう側の住人であるかのように」
ヴァルドは男の肩に手を置いた。
「お前はここにいる」
「……分かってる」
「向こうの声に従う必要はない」
二人目は小さく頷いた。
しかし、その表情から不安は消えなかった。
魂導院、中庭。
聖王教会の指揮官は、境界監視者から報告を受けていた。
「……北方の封印が破られた?」
「はい」
「門が開いたというのか?」
「完全ではありません。しかし、向こう側から何かが侵入しようとしています」
指揮官は顔をしかめた。
「何が出てくる?」
「分かりません」
「魔族か?」
「違います」
監視者は首を振った。
「魔族とも、死者とも異なる存在です」
「……何だと?」
「少なくとも、我々の知る生命ではありません」
指揮官はしばらく黙っていた。
そして、騎士たちへ命じた。
「北方へ伝令を出せ。教会の支部に増援を要請する」
「承知しました!」
「それから、魂導院の封鎖を強化しろ」
監視者が顔を上げた。
「封鎖を強化?」
「黒い石に触れた者が門と繋がっている以上、ここも危険だ」
「ですが、彼らの協力が必要になるかもしれません」
「危険な者を自由にするわけにはいかん」
監視者は眉をひそめた。
「……彼らは敵ではありません」
「今は、な」
指揮官は冷たく答えた。
「だが、本人の意思とは無関係に門を開く力を持っている」
「だからこそ、守らなければならないのです」
「守るために隔離する」
二人の意見は、最後まで交わらなかった。
現在。
レオは記憶の中の黒い手を見つめていた。
「……術式から力を奪っていた」
ガイアが頷く。
「それも、単純に壊しているわけではない」
カイが尋ねる。
「どういうことだ?」
「術式の繋がりを利用して、力を吸収していた」
ミナが顔を曇らせる。
「じゃあ、強い術式を使うほど危険になるんですか?」
「場合によってはな」
レオは自分の手を見つめた。
「……俺の《死者の鎖》も、魂を繋ぐ力だ」
守護者がレオの前へ歩み寄った。
白い手を伸ばし、レオの手に触れる。
すると、淡い光が二人の間に流れた。
「……守護者?」
守護者は静かに首を振った。
死者の男が口を開く。
『恐れる必要はない』
レオが振り向く。
『魂を繋ぐこと自体が危険なのではない』
「じゃあ、何が違う?」
『意思だ』
「意思……」
『あの黒い手は、相手の意思を無視して繋がりを奪う』
死者は続けた。
『だが、お前と守護者は違う。互いに望んで繋がっている』
ガイアが頷いた。
「……三百年前の封印条件に通じるな」
レオは守護者を見た。
「魂を導く者と、境界を守る者」
守護者が頷く。
「そして、双方の意思……」
レオは拳を握った。
「……やっぱり、そこが重要なんだな」
三百年前。
北方、旧境界域。
二人の境界監視者は、門から距離を取っていた。
「……増援は?」
若い監視者が尋ねる。
「通信術式が使えない」
「ならば、直接知らせに戻りましょう!」
「一人はここに残らなければならん」
「そんな!」
年配の監視者は門を見た。
黒い手は、封印陣の残された光を奪い続けている。
「誰かが監視していなければ、何が出てきたのかも分からなくなる」
「ですが、このままでは……」
「お前が戻れ」
若い監視者は首を振った。
「一人で残すわけにはいきません!」
「命令だ」
「……!」
「魂導院へ知らせろ。門は既に開き始めている。通常の封印術では止められない、と」
若い監視者は唇を噛んだ。
「……必ず戻ります」
「ああ」
「それまで、持ちこたえてください」
年配の監視者は静かに頷いた。
若い監視者は雪道を走り出した。
その背中を見送った後、年配の監視者は門へ向き直った。
「……さて」
彼は両手を広げた。
「これ以上、好きにはさせん」
《境界固定・白環》
白い光が地面を覆う。
崩れかけた封印陣が、再び形を取り戻し始めた。
しかし、黒い手はその光を見つめるように動きを止めた。
そして、ゆっくりと指を伸ばした。
監視者の術式へ。
「……来るか」
黒い指が白い光に触れる。
監視者は歯を食いしばった。
「……渡すものか!」
術式の光が強まる。
だが、黒い手は消えなかった。
むしろ、指先から新たな黒い線が伸び始めた。
それは、監視者の足元へと迫っていた。
魂導院、地下封印庫。
黒い石の前には、アシュレイが立っていた。
隣にはヴァルドと、白い守護者がいる。
「……この石を破壊できないのか?」
ヴァルドが尋ねる。
アシュレイは首を振った。
「試したが、表面に傷一つつかなかった」
「封印は?」
「今のところ維持できている」
「……今のところ、か」
アシュレイは黒い石を見つめた。
「門が開いた以上、石をここに置いておくのは危険だ」
「ならば、どうする?」
「境界監視者の施設へ移す」
ヴァルドが眉をひそめる。
「教会が認めると思うか?」
「認めさせるしかない」
その時、守護者が突然顔を上げた。
白い光が、強く揺らめく。
「……どうした?」
ヴァルドが尋ねる。
守護者は黒い石を指差した。
石の表面に、新たな亀裂が生まれていた。
アシュレイが目を見開く。
「……まさか!」
黒い石の奥に、小さな瞳が浮かんだ。
その瞳は、三人を見つめていた。
『……見つけた』
ヴァルドが一歩前へ出る。
「……誰だ!」
『……境界を守る者』
瞳は守護者へ向けられた。
『……お前も、ここにいたのか』
守護者の白い光が強まる。
アシュレイが術式を展開した。
《魂導封印》
黒い石を包む結界が、さらに厚くなる。
しかし、瞳は消えなかった。
『……いいだろう』
低い声が、封印庫に響いた。
『……ならば、先にそちらを奪う』
次の瞬間。
黒い石から、細い影が伸びた。
それは結界の内側を這い、守護者の足元へ向かっていく。
ヴァルドが叫んだ。
「守護者! 下がれ!」
守護者は動かなかった。
ただ、静かに両手を広げた。
白い光が、黒い影を迎え撃つように広がっていった。
――第132話・完――




