第130話「門の位置」
三百年前。
魂導院が聖王教会によって封鎖されてから、一夜が明けた。
正門には武装した騎士が立ち、裏門へ続く道にも見張りが配置されている。
外へ出ることを許されない十三人のネクロマンサーたちは、それぞれの部屋で朝を迎えていた。
しかし、ヴァルドとアシュレイだけは眠っていなかった。
研究室の机には、北方の地図が何枚も広げられていた。
「……ここも違う」
ヴァルドが一枚の地図を脇へ寄せた。
アシュレイは古い記録を読み続けている。
「北方の境界点は全部で七つ。そのうち六つは、監視者が現在も管理している」
「残りの一つは?」
「三百年以上前に放棄された場所だ」
「放棄?」
「ああ。記録には理由が書かれていない」
ヴァルドは顔を上げた。
「場所は分かるか?」
アシュレイが地図の北端を指差す。
「ここだ」
そこには、深い山々に囲まれた谷が描かれていた。
地名は記されていない。
ただ、小さな文字で一つの言葉が残されていた。
『旧境界域』
「……聞いたことがない」
「俺もだ」
「監視者に確認しよう」
ヴァルドが立ち上がった。
その時、研究室の扉が開いた。
「その必要はない」
入ってきたのは、昨日の年配の境界監視者だった。
彼の後ろには、白い姿の守護者が立っていた。
「旧境界域について知りたいのだな」
監視者は地図を見下ろした。
ヴァルドが頷く。
「黒い石の亀裂が、北を示している」
「……そうか」
「何か知っているんだろう?」
監視者はすぐには答えなかった。
やがて、地図の一点に指を置く。
「ここには、かつて境界を安定させるための施設があった」
「施設?」
「死界と現世の境界を観測する場所だ」
アシュレイが尋ねる。
「なぜ放棄された?」
「観測を続けることが危険になったからだ」
「どういう意味だ?」
「向こう側から、観測されるようになった」
ヴァルドの表情が変わる。
「……こちらが見ていたつもりで、見られていたのか」
「そうだ」
監視者は頷いた。
「境界の向こうにいるものが、観測者の存在を認識した。以来、あの場所は閉ざされている」
アシュレイが地図を見つめる。
「そこに門があるのか?」
「門と呼べるものがあるかどうかは分からん」
「分からない?」
「我々が門と呼んでいるのは、境界が極端に薄くなった場所だ。石造りの扉が存在するとは限らない」
ヴァルドは考え込んだ。
「だが、黒い石に触れた男は巨大な門を見た」
監視者が顔を上げる。
「……何?」
「雪山の谷に、三つの円と一本の縦線が刻まれた門があったそうだ」
監視者の表情が険しくなった。
「その話を詳しく聞かせてくれ」
魂導院の一室。
最初に黒い石へ触れた男は、寝台に腰掛けていた。
右腕の紋様は首筋まで広がり、右目の周囲にも黒い線が浮かんでいる。
ヴァルドたちが入ると、男は顔を上げた。
「……何だよ」
「昨夜、門が見えたと言ったな」
「……ああ」
「どんな場所だった?」
男は目を伏せた。
「雪が積もった山だった。深い谷の奥に、巨大な石の門があった」
監視者が尋ねる。
「門の周囲には何があった?」
「崩れた石柱がいくつも……」
「ほかには?」
「……地面に、白い線があった」
監視者の表情が変わる。
「白い線?」
「円を描くように、何本も重なっていた」
アシュレイが監視者を見る。
「心当たりがあるのか?」
「……古い封印術式だ」
男は顔を上げた。
「封印?」
「境界を固定するためのものだ」
「だったら、門は閉じられているんじゃないのか?」
「本来ならな」
監視者は静かに答えた。
「だが、黒い石があの場所を示しているなら、封印に何らかの異常が起きている可能性がある」
男の顔色が変わった。
「……俺が原因なのか?」
「まだ分からん」
「俺が石に触れたから……?」
ヴァルドが男の肩に手を置いた。
「今は原因を決めつけるな」
「でも……」
「お前を責めるために来たんじゃない」
男は唇を噛んだ。
その時だった。
右腕の紋様が、ゆっくりと形を変え始めた。
「……っ!」
男が腕を押さえる。
アシュレイが駆け寄った。
「どうした!」
「また……見える……!」
男の瞳が黒く染まりかける。
「門が……!」
監視者が両手をかざした。
白い術式が男の周囲に展開される。
「ヴァルド、魂の流れを固定しろ!」
「分かった!」
ヴァルドは男の背後に回り、術式を重ねた。
《魂導結界》
淡い光が男の身体を包み込む。
黒い紋様の広がりが止まった。
しかし、男の口から言葉が漏れた。
「……来る」
アシュレイが顔を近づける。
「何が?」
「……向こう側から……」
男は震える指で北を示した。
「誰かが……門を開けようとしている……」
現在。
記憶を見つめていたミナが眉をひそめた。
「……誰かが門を開けようとしている?」
カイが答える。
「最初の男が開けたんじゃなかったのか?」
「俺たちが最初に見た記憶では、そう見えた」
レオは腕を組んだ。
「でも、あれは事件の一部分だった」
ガイアが静かに口を開く。
「黒い石が門の場所を示していた。しかも、向こう側から何者かが干渉していた」
「つまり?」
「門を開ける意思は、最初から向こう側にもあったということだ」
ミナが死者の男を見る。
「……本当なんですか?」
死者は頷いた。
『ああ』
『我々は長い間、最初の男がすべてを引き起こしたと思っていた』
「違ったのか?」
『彼が選択を誤ったことは事実だ』
死者は続ける。
『だが、あの石が現れる以前から、境界の向こうにいるものは門を探していた』
レオは目を細めた。
「……石は、そのための道具だったんだな」
『そうだ』
守護者が白い光を灯した。
記憶はさらに進んでいく。
三百年前。
魂導院の中庭。
境界監視者とヴァルド、アシュレイは、聖王教会の指揮官と向き合っていた。
「北方の旧境界域を調査したい」
ヴァルドの言葉に、指揮官は首を振った。
「許可できん」
「門に異常が起きている可能性がある」
「だからこそ、外出は認められない」
アシュレイが一歩前へ出た。
「我々は黒い石を持ち出すつもりはない。境界監視者と共に調査するだけだ」
「魂導院の封鎖命令は変わらん」
「世界に危険が迫っているかもしれないんだぞ!」
「それを判断するのは教会だ」
ヴァルドは指揮官を見つめた。
「……ならば、教会が調査隊を出してくれ」
指揮官は少し考えた。
「報告は上層部に送る」
「いつ返事が来る?」
「早くても数日後だ」
「数日……」
ヴァルドは拳を握った。
監視者が口を開く。
「時間がない可能性がある」
「何を根拠に?」
「北方の監視石柱に、新たな亀裂が発生した」
指揮官の表情が変わった。
「……それは事実か?」
「我々の術式が反応している」
「ならば、監視者だけで確認すればいい」
「構わん」
監視者は答えた。
「だが、黒い石に触れた者の身体に、門の位置が映し出されている」
「……何?」
「彼らの魂が、向こう側と繋がっている可能性がある」
指揮官は沈黙した。
やがて、低い声で告げる。
「ならば、なおさら隔離が必要だ」
ヴァルドが顔を上げる。
「待ってくれ!」
「これ以上、危険を広げるわけにはいかん」
指揮官は騎士たちへ命じた。
「黒い石に接触した二人を、教会の管理下へ移す準備をしろ」
その頃。
魂導院の封印庫。
黒い石は、白い結界の中に置かれていた。
表面の亀裂は、昨日よりも大きくなっている。
そして、石の奥に小さな黒い瞳が浮かんだ。
『……近い』
瞳は北を見つめていた。
『……あと少しだ』
その声は、誰にも届かなかった。
だが、魂導院の一室で眠っていた最初の男は、突然目を開いた。
「……門が……」
男は自分の右腕を見つめる。
黒い紋様が、指先まで広がっていた。
そして、頭の中に新たな光景が映る。
雪山の谷。
崩れた石柱。
巨大な門。
その前に、一人の人影が立っていた。
顔は見えない。
しかし、その人物はゆっくりと振り返り、男に手を差し伸べた。
『……こちらへ』
男は震えながら呟いた。
「……お前は、誰だ?」
答えはなかった。
ただ、門の向こうに広がる暗闇の奥で、巨大な目が静かに開いた。
――第130話・完――




