第106話「最後の監視者」
井戸の底から、低い音が響いていた。
ゴゴゴゴゴ……。
レオたちは足を止め、井戸を見つめる。
「……何かいる」
カイが剣に手を添えた。
ミナも杖を構える。
「さっきまで、こんな音しなかったよね……」
「この村そのものが、目を覚まそうとしているみたいだな」
ガイアの声が響く。
その横で、守護者がゆっくりと井戸へ近づいた。
白い光が、その身体から僅かに漏れる。
「守護者?」
レオが呼びかける。
守護者は答えない。
ただ、井戸の底を見つめていた。
すると――。
「……来たか」
井戸の奥から声がした。
老人のようにも聞こえる。
だが、妙に重い。
まるで何百年もの時間を一つの声に押し込めたような響きだった。
レオは井戸を覗き込む。
暗闇の中に、二つの白い光が浮かんだ。
「誰だ?」
「私は……最後の監視者」
その瞬間、井戸の底から風が吹き上がった。
黒い霧が地面まで溢れ出す。
カイが一歩前へ出る。
「敵か?」
「まだ分からない」
レオは手を上げて制した。
黒い霧の中から、一人の老人が姿を現した。
白い髪。
古びた外套。
胸には、あの三つの円と縦線を組み合わせた紋章。
ただし、その紋章の一部は黒く染まっていた。
老人はレオを見る。
そして守護者を見る。
「……白き守護者」
守護者が僅かに反応した。
「三百年……いや、それ以上か」
老人はゆっくりと息を吐く。
「まだ、お前はそこにいるのか」
レオが尋ねる。
「守護者を知っているのか?」
「知っているとも」
老人はレオへ視線を戻した。
「三百年前、この村には二十人以上の監視者がいた」
「二十人……?」
ミナが驚く。
「我々は門を守っていたわけではない」
老人は首を横に振った。
「門が生まれないように、境界を監視していた」
「じゃあ、この村は……」
「そうだ」
老人は廃村を見回す。
「この場所には、かつて小さな裂け目があった」
レオの表情が変わる。
「……黒い扉と同じものか?」
「似ている。だが、完全に同じではない」
老人は続けた。
「裂け目は、死者の声を漏らした」
「死者の声?」
「最初は小さかった」
「だが、誰かがそれを利用しようとした」
ガイアの声が低くなる。
「黒き紋章……か」
老人は答えなかった。
その代わり、地面に手を触れる。
すると、周囲の土が淡く光った。
村全体に、古い紋章が浮かび上がる。
「この村では、死者の声を記録していた」
「記録?」
「誰が死んだのか」
「どのような声が聞こえたのか」
「裂け目が、いつ動いたのか」
老人の顔が険しくなる。
「そして……何がこちら側を覗いていたのか」
レオは息を呑んだ。
「何が……覗いていた?」
「そうだ」
老人はレオを見つめる。
「三百年前、我々は門の向こうを完全には見ることができなかった」
「だが、一つだけ分かった」
「何?」
老人の口から、静かに言葉が落ちる。
「向こうにも、こちらを見ている存在がいた」
沈黙。
ミナが小さく息を呑む。
「それって……今まで私たちが聞いてきた声と……」
「断定はできん」
老人は遮った。
「声が同じとは限らない」
レオも頷く。
今まで何度も聞いた。
『鍵』
『こちらへ来い』
『門を開ける』
そして――。
『また会おう』
それが何者なのか。
まだ分からない。
老人は井戸を振り返った。
「だが、この村にも一度だけ、その声を聞いた者がいる」
「誰だ?」
「私だ」
レオの目が細くなる。
「……何て言われた?」
老人はしばらく黙った。
そして、ゆっくりと答える。
「こう言われた」
『境界を守る者よ』
『お前たちは、いずれ選ぶことになる』
「選ぶ……?」
「生者を守るか」
「死者を守るか」
レオの表情が険しくなる。
老人は続けた。
「そして最後に、こう言った」
『どちらかを選べば、もう一方は失われる』
カイが眉をひそめた。
「そんなの……」
「三百年前、我々はそれを信じた」
老人の声が震える。
「だからこそ、多くの監視者が死んだ」
「……」
「だが」
老人はレオを見る。
「お前は違う」
「俺が?」
「お前は、死者の声を聞いている」
「死者を操るだけではない」
「死者自身に力を貸してほしいと頼んでいる」
レオは黙った。
「そして、お前の隣には白き守護者がいる」
老人の視線が守護者へ移る。
「三百年前には存在しなかった組み合わせだ」
ガイアが呟く。
「つまり……」
「生者か死者か、そのどちらかを選ぶ必要がない可能性がある」
老人の言葉に、レオは顔を上げた。
「じゃあ……方法があるのか?」
「分からん」
即答だった。
「だが、最後の記録には何かが残されている」
老人は井戸を指差した。
「この地下に」
ゴゴゴゴゴ……。
再び地面が揺れる。
井戸の底から、黒い霧が噴き上がった。
老人の表情が変わる。
「……まずい」
「何が起きる?」
「記録を守るために残していたものが、目を覚ました」
カイが剣を抜く。
「敵ってことか?」
「敵とは限らん」
老人は首を振る。
「だが……侵入者を排除するよう作られた存在だ」
ミナが構える。
「それって、私たちも攻撃されるんじゃ……」
老人は答えなかった。
代わりに守護者を見る。
守護者は井戸の前へ進み出る。
白い光が強くなる。
そして――。
井戸の底から、巨大な腕が伸びてきた。
ズズズズズッ!
地面が大きく割れる。
カイが叫ぶ。
「来るぞ!」
レオは死者の鎖を構える。
「全員、下がるな!」
黒い霧の中から、巨大な影が姿を現した。
人間のような形。
しかし、その身体は無数の鎖と石で覆われている。
胸には――。
三つの円と縦線。
そして、その中央に黒い亀裂。
ガイアが低く呟いた。
「……あれは、ただの番人じゃない」
レオが目を細める。
「何だ?」
「あれ自身が……この村の境界そのものになっている」
巨大な影が顔を上げる。
そして、初めて声を発した。
「……侵入者を確認」
「……境界を守る」
「……すべてを、眠らせる」
次の瞬間。
巨大な腕が振り下ろされた。
ドゴォォォン!
レオたちは左右へ散った。
地面が大きく砕ける。
「始まったな!」
カイが剣を構える。
ミナも杖を握り直した。
守護者は無言のまま前へ出る。
レオは死者の鎖を伸ばす。
「なら……眠らせる前に、話を聞かせてもらう!」
黒い巨体が咆哮する。
村全体が震えた。
三百年前から残された最後の監視者。
そして、その地下に眠る最後の記録。
冥夜の旅団は、ついに過去そのものと向き合うことになる。
――第106話・完――




