第百六十二話 『暗雲消え去り』
フォラントゥーリは、ロベルクからもヴォルワーグからも離れた場所で、ぽつんと立っていた。先程までの全てを混沌に染めようとする威容は失われ、その姿すら儚く揺らいでいるかのようだ。
「…………」
ロベルクは霊剣を構え直そうとして、やめた。
「あれにはもう、敵意はない」
フィスィアーダが確認するように呟いた。
フォラントゥーリが、虚ろなフードの中をロベルクたちの方へ向ける。
「汝らの働きで、『命あるもの』に取り込まれずに済んだ。礼を言う」
「セラーナの姉上はどうした」
ロベルクの言葉に、胸のあたりへ視線を落とすフォラントゥーリ。
「レサーレ大将軍……いやレサリアは、我と混じり合っている。あの者の、我を無条件に必要とする感情を受け取り、冥界に送るより我と共にあるのが相応しいと判断した」
「違うよ」
否定したセラーナの頬には涙が流れ続けていた。
「それが……愛されたってことよ」
「愛……」
「覚えていてほしい」
セラーナの言葉に、フォラントゥーリは首を傾げる。その身体は徐々に消え始めていた。
「我は力を使い過ぎた。精霊界に戻らねばならぬ」
フォラントゥーリの身体は輪郭を失い、黒い霧になりつつあった。
「愛……か……」
呟きとともに、闇の御使いフォラントゥーリは消えた。
残された、ふたりとひと柱。
「これで、よかったのか?」
ロベルクがセラーナの様子を窺うと、彼女は涙を流したまま笑みを浮かべた。
「うん。姉様は、後悔してないと思う」
セラーナには分かった。レサリアがフォラントゥーリと一体化する直前に見せた目――あの目は自分がロベルクを見る目と、きっと同じだ。
微かな、金属音。
フォラントゥーリが立っていた辺りだ。彼が存在した形跡は、黒い塵のひとかけらすらもない。
それでもセラーナは、音がした場所を探る。暫くしてなにかを拾い上げ、大切そうに両手で包むように胸に当てた。
「セラー……」
ロベルクが歩み寄る。
セラーナは泣いていた。ロベルクが側に来たことに気付くと、胸に当てていた物を見せた。
「指輪……?」
「姉様のよ。小さい頃、姉様が駄々をこねて母様から貰った。母様の指輪なの……」
セラーナはロベルクの胸に顔をうずめると、静かに嗚咽した。
ロベルクは「うん」と答えると、彼女の頭を優しく撫でる。
「……有り得ない」
ふたりの様子を眺めていたフィスィアーダが呟く。
「……有り得ない、通常なら。混沌に溶けることを受け入れていた『命ある者』の精神の片隅に、強烈な保存の意思があって、それがまるで結晶化したかのように指輪を形作ったのか」
「なんでもいいわ」
顔を上げ、涙を拭うセラーナ。
「きっと姉様は旅立つ前に、母様との思い出をあたしに譲ってくれたの」
セラーナが指輪を嵌める。ただの貴金属製の指輪――しかし彼女にとっては、無限の価値を持つ指輪だ。
「帰ろう」
ロベルクが短く宣言する。
闇の精霊に冒された者たちの肉体は既に霧散し、湖畔は混沌を拒むかのように、連綿と続いてきた輝く景色を取り戻していた。




