第百六十一話 『欲望の神』
「ぬうっ」
フォラントゥーリが呻き、錫杖に込められた僅かに力が抜ける。即座に力比べを放棄し、飛び退いた。
フィスィアーダにはわかった。フォラントゥーリの内にある膨大な闇の精霊力の一部がその姿の外に流出したことが。そして流れた先でそれを吸い取り、力を増している存在のことも。
「主!」
フィスィアーダは叫んだ。
意識を引き締める涼風のような声に、ロベルクははっとする。
ヴォルワーグが倒れない。
立ち尽くすヴォルワーグは、膝を屈することなく小刻みに震えていた。震えがさざ波のように頭部へ収束していく。落ちかけた眼球が神経に引かれて眼窩に戻る。半ば崩れた脳漿が沸き立ち――戦斧ほどもある長大なクワガタの片顎がそそり立った。
「げばぁ!」
ヴォルワーグが吠える。そのおぞましい声に呼応して、身体の周囲が光を失い黄昏れた。
「ぼ……ど……よごぜえっ!」
黒い液体を汚らしく滴らせた槍状器官が、味方であったはずのフォラントゥーリへ向けられる。
「フォラントゥーリ様!」
レサーレの顔に、額冠の制約を上回る狼狽の感情が溢れた。彼女の目にはもはや妹の姿は映っていない。今まで切っ先を向けていたセラーナを完全に意識の外へ捨て、フォラントゥーリの元へ走る。
ヴォルワーグの右腕が蛙の舌のように伸び、フォラントゥーリに迫る。
レサーレは躊躇なく間に割り込むと、小剣を構え、それを籠手で支える。
襲いかかる槍状器官は小剣で真っ二つに切り裂かれた――ように見えた。
それは再び一つに合わさり、レサーレの腹部を貫いた。
「ぐ……ふ……」
腹部から鮮血が噴き出す。それは赤からどす黒い色へと変化し、やがて衣や垣間見える柔肌までもが黒き闇の色に染まっていく。瑞々しい唇から顎へと赤い筋が流れた。レサーレは愛する相手へ首を傾けようとして、失敗した。
「こ、これは……フォラントゥーリ様、ごめんなさい。止められなさそうです……」
レサーレは笑顔を作ろうとして口元を震わせた。
フォラントゥーリの顔が、フードの奥で歪んだように見えた。
「……レサーレ、お前の精神の動き、しかと理解した。せめて我の一部になるがよい」
「ああ……嬉しい……フォラントゥーリ様……」
レサーレの目尻が微かな恍惚を浮かべる。
フォラントゥーリが後ろからマントを被せると、レサーレはゆっくりとその中へと消えていった。
「姉様!」
セラーナが悲鳴を上げる。
姉妹の感情の動き――ついぞ自分が得られなかった、精神を司る闇の精霊の甘い悲しみを感じ取ったヴォルワーグは顔を歪めた。
「うううっどおじいおんなだ!」
呂律の回らない吠え声を上げるヴォルワーグ。
フォラントゥーリは意に介さず、己の身体に伸びた槍状器官を掴んだ。
「殿下、お渡しした闇の精霊力、お返しいただきます」
フォラントゥーリが握った手に力を込めると、槍状器官が脈動し、闇の精霊力がヴォルワーグから吸い出されていく。
ヴォルワーグの精霊力が、急速に弱まっていく。身体が痙攣する。手足が萎えていく。虎挟みを地面に突き立て、倒れそうになる身体を支える。
「おおおお……!」
黒い涎と共に、皇子だった魔物の口から断末魔の呻き声が流れ出る。しかしそれは次第に大きくなっていった。
「おおお俺の力だ! 誰にもやらん! これも、それも……全て俺の力だぁっ!」
ヴォルワーグの奇声に反応して、再びフォラントゥーリが呻く。
「ぐうっ……『命あるもの』の欲……この男の闇は神に迫るというのか……っ!」
フォラントゥーリからヴォルワーグへと闇の精霊力が逆流し、錫杖を握る力が失われる。
フィスィアーダはその隙を見逃さず、躊躇せず踏み込んで大剣を振り下ろす。その両手に物質の抵抗はなく、大剣は地を穿った。
フォラントゥーリの身体は黒煙のように霧散し、ヴォルワーグの身に飲み込まれていった。
ヴォルワーグの身体が痙攣を始める。身体がひと回り大きく膨らんだ。その異形も相まって、もはや人間と呼べる体躯ではない。
ロベルクたちは大きく後退し、間合いを広げる。
ヴォルワーグは痙攣しながら大笑した。
「これが御使いの力! これが、奴の固有の能力……『万化の泥』か! ついに俺は……神になった!」
ヴォルワーグの叫びに反応して、下半身から蟷螂の鎌が無数に飛び出した。『万化の泥』によって生み出された蟷螂の鎌は、乱雑に、大小様々に生え、まるで木の根のようだ。
「全て……全て俺のもの!」
どろりと濁った目が、ロベルクの半歩後ろに庇われたセラーナを捉える。
思わず身震いするセラーナの視界の端で、長く伸びすぎた鎌がテルセス湖の水に落ち込み、じゅっという音と共に白煙を上げるのが見えた。
「ぎぃぃぃっ!」
それを合図にヴォルワーグが顎を振り回し――というよりも寧ろ、下半身が上半身を叩き付けてくる。
「ちっ」
回避が間に合わない。ロベルクは半ば反射的に左手で霊剣の鍔を掴み、衝撃に備える。
ほぼ同時に鈍い衝撃。
顎の凹凸こそ刺さらなかったものの、ロベルクは体重の乗った一撃を食らって跳ね飛ばされる。
「がっ」
ロベルクは湖畔まで迫る木のひとつに叩きつけられた。衝撃で肺から息が噴き出す。枝があったら突き刺さっていたことだろう。
「……忌々しい木だ」
ロベルクは起き上がると、森妖精らしからぬ暴言を吐き、再びシャルレグを召喚した。
「御使いの恐ろしさは……もう経験済みなんだよ」
ロベルクは霊剣の切っ先を隠し、『月の剣』の構えから流れるように斬り込む。頭上ではシャルレグが全身から氷柱の棘を生やした姿で付き従う。
四方から襲いかかる無数の鎌を斬り払い、あるいは身を躱し、さらにはシャルレグから発射される氷柱で打ち落としていく。
別方向では、フィスィアーダが鎌の処理をしながら間合いを詰めにかかっている。氷の大剣を、まるで羽毛のような軽やかさで振り、道を切り開く。
もう一方では、セラーナが林立する鎌を小剣と短剣で正確無比に斬り払っている。しかし、打ち掛かる鎌の膂力に押されてじりじりと後退を余儀なくされていた。ひときわ太い鎌の大振りを食らって、セラーナの腕が跳ね上げられる。
「くっ」
大きく飛び退るセラーナ。そこに大蛇のように鎌が殺到する。
そのとき、空中から降り注ぐ氷柱が鎌の波を薙ぎ、無数の断片に粉砕した。シャルレグが事前の命令を実行し、セラーナを守ったのだ。
セラーナは後退しながら木の高枝に跳び、難を逃れる。
「破壊力と目方では敵わないわね……」
いまだ揺れる鎌の波を見下ろすセラーナ。
ロベルクが戦いながら一瞬だけ視線を向ける。
「セラーナ、援護に回ってくれ。僕とフィスィアーダで攻撃する」
「わかったわ」
セラーナは頷くと同時に気配を消し、森に紛れた。
それと同時にロベルクとフィスィアーダは息を合わせて斬り込む。まるで鎌の林のような戦場を、ロベルクは斬り払い、フィスィアーダは精霊力を上書きして道を切り開き、ヴォルワーグに肉薄する。
近づけば近づくほど、ヴォルワーグの攻撃は苛烈になっていく。二本になった槍状器官と虎挟み状器官、蠢く蠍の尾は五本に増えた。生殖器の位置からも尾が伸びているのが、醜悪さに拍車をかけていた。
「洒落臭い!」
ヴォルワーグの全身が痙攣し、首がゆらりと曲がった。頭から煙のような黒い気体が沸き立ち、口元から黒い唾液が滴る。
「神の前にィ……跪けェッ!」
叫びと同時にヴォルワーグの全身から闇が迸る。
ロベルクには、一瞬、闇が瞬いたように見えた。次の瞬間、脳を埋め尽くす雑音と猛烈な頭痛が彼を襲った。
「うぐ……ぐぐぐ……!」
堪らず剣を杖に、倒れそうになる身体を支えるロベルク。口元から歯を噛みしめる音が重く響く。身が沈んでいく。膝を屈する直前、今度はあらぬ方向から衝撃を受けて跳ね飛ばされた。
空中で原因を探る。
自分がついさっきまで立っていた場所には、フィスィアーダが立っていた――全身を鎌で突き刺されて。傷は血を吹かず、しかし徐々に黒く染まっていくのが見て取れた。
「ふ……フィス……!」
ロベルクは転がりながら身を起こすと、言葉にならない絶叫と共に地を蹴った。
ヴォルワーグの器官が反射的にロベルクへと狙いを定め、殺到する。
「邪魔だ、どけぇ!」
吠えるロベルク。
ひとひらが長剣ほどもある暴風雪が、闇の精霊力に支配された空間を強引にこじ開ける。力任せに振るわれた剣先は襲い来る器官や鎌に寄り添い、平行線を描いてすれ違い、ひとつひとつを正確に、冷酷に、切断していった。そのまま――どこにそんな力があったのか――フィスィアーダを小脇に抱えて、間合いから大きく離れた位置まで飛び退った。
「フィスィアーダ、しっかり!」
ロベルク地面に下ろすと、フィスィアーダは身体に刺さった鎌や腕を自分で抜き始めた。
「御使いに毒は効かないから大丈夫」
フィスィアーダの言う通り、黒変していた傷はすっと澄み渡り、いつもの白磁の肌へと戻っていった。
彼女が指先を振ると、鎌の林に飲まれていた氷の大剣がまるで生きているかのように跳ね、手中に戻ってきた。
「主、もう一度やるよ」
「頼もしいな」
ロベルクとフィスィアーダは視線を交わすと、再び剣を構えた。
「主、身体に冷気を纏って。氷の精霊力が闇から守ってくれるから」
「わかった」
ロベルクとフィスィアーダの周囲が一段と冷え込む。それを合図にふたりは駆け出した。波濤のように襲いかかる鎌と槍、虎挟みと毒針を地に縫い付け、凍結粉砕し、斬り落とし、押し通る。そしてふたりは同時に剣技を繰り出した。
「『月の剣・暦巡りの舞曲』っ!」
「……『月の剣・暦巡りの舞曲』」
ふたつの剣が、ヴォルワーグの周囲を結界のように蠢いていた虫の四肢を、文字通り舞うように刈り取っていく。
「ぎぢゃああああぁぁぁっ!」
およそ人間とは思えない叫びを上げるヴォルワーグ。
「うゔぉっ、うゔぉっ、うゔぉあああっ!」
ヴォルワーグが身体を震わせると、傷口がぼこぼこと波打ち、膨らみ始めた。
「まずい、再生する!」
「傷口を凍結するよ」
フィスィアーダの助言に合わせて、ふたりで傷に冷却魔法を叩き込み、壊死させるとともに氷で覆っていく。
「……やった、か……?」
「……まだだよ」
ふたりは間合いを取ると、注意深く剣を構えた。
ヴォルワーグの傷口を覆った氷が黒く汚れて溶けていく。その中から再び槍状器官と虎挟み、そして毒針と鎌が湧き出した。
「きりがないな……」
「フォラントゥーリは老いた御使い。精霊力が強いから、消耗戦になると不利だよ」
励ますという感覚のないフィスィアーダが事実を告げる。
ロベルクは頬を伝う汗を感じながら、薄笑いを浮かべた。
「光の精霊使いでも助けに来ればいいんだけどね……」
願望を口に出したところで、光の精霊使いはやってくるはずもない。
代わりに、放物線を描いて革袋が飛んできた。
「?」
ヴォルワーグは虎挟みを掲げ、羽虫でも叩き落とすように握り潰す。
革袋は花びらのように千々に砕け、中の透明な液体がヴォルワーグの顔面に降りかかった。
「水……か?」
ロベルクが呟くのとヴォルワーグが絶叫したのはほぼ同時だった。
クワガタの片顎が生えた頭部から肩にかけて、白煙が上がっている。よく見れば、片顎や顔が爛れ、溶けかかっている。
「ごっ……ごれわああああっ!?」
吐瀉するような叫びを上げている間にも、革袋が次々と落下し、液体を撒き散らしていく。
「……テルセス湖の水よ。光神ローディフの聖別を受けたに等しい水の味はどうかしら? あたしはとても美味しかったわ」
投射したと思しき木の陰から現れたのは、セラーナだった。
ヴォルワーグは耳を覆わんばかりの不快な叫びを上げながら、溶けつつある槍状器官や虎挟み状器官を必死で掻き抱いている。
「ぜ……ぜら……ゔぉええええっ!」
「あら、口に合わなかった? 残念」
ヴォルワーグと共に、周囲の鎌たちも苦しみ、のたうっている。
「主、闇の精霊力が」
「ああ、弱まっているな」
ロベルクは気迫を奮い起こして、霊剣を構える。そして地を蹴った。
「氷よ、主の道を拓け!」
フィスィアーダが氷の刃で鎌を刈り取り、回廊を穿つ。
ロベルクは輝く回廊を駆けた。愛する者から全てを奪った元凶を絶つべく。
「『月の剣・月冠の舞曲』!」
ロベルクは剣を閃かせ、一振りごとに氷の精霊力を抉り込み、ヴォルワーグの胴を薙いだ。未だ再生を繰り返す混沌の肉体を、何度も、何度も――
再び間合いを広げて立ったとき、ヴォルワーグの上半身と下半身は、辛うじて背骨で繋がっている有様だった。
「ゔ……ゔぉぉぉぉっ! まだだ! おでばまだ……げえええっ!」
なにか叫ぼうとしたヴォルワーグの腹部から黒い霧が染み出した。それは少し離れた場所に滞留して色濃くなり、ひとの形を成した。ローブと錫杖が形作られ、フォラントゥーリの姿になった。
「…………」
フォラントゥーリはなにも言わず、ヴォルワーグを見つめていた。
ヴォルワーグもそれを感じ取り、もはや形も分からない頭部をフォラントゥーリへと向ける。
「い……いあだ……でぃばんわ……いあだ……ぜんぶ……ゔぉでど……」
肺から空気が漏れるような音を立てながら、ヴォルワーグだった怪物は崩れ落ちた。




