第百六十話 『混沌に侵された皇子』
セラーナの澄んだ声は、近くで斬り結ぶロベルクとヴォルワーグの耳にも届いた。
「愛する人……俺のことか?」
「痛々しいなヴォルワーグ。そういうおかしな自意識だから、最低限の友好関係すら結べなかったんだ」
「貴様は毎度毎度、俺の恋路の邪魔をする。もはや存在が許せん!」
ヴォルワーグが左腕に生えた槍状の器官を構える。
ロベルクの視界の端で、槍の先端から染み出した黒い液体がひと雫垂れ、それが雑草にかかり、しゅっという音を立てて溶けた。
「貴様がどれだけ足掻こうとも、俺を挫くことはできん。かかってこい」
「おおああっ!」
ロベルクは裂帛の気合と共に平正眼の構えから踏み込む。身に纏う氷の精霊力と共に、刺すような斬撃をヴォルワーグの右手に打ち込んだ。
「甘いィっ!」
ヴォルワーグの奇声。人間の腕が持った盾で受け流す。槍のような右腕を振るう。禍々しくも鋭利な右腕はロベルクの腑を狙い、昆虫的な速度で突き出された。
身を捻って躱すロベルク。その身に穂先から滲む黒い飛沫が降りかかる。
「っ! づああっ!」
無理のある姿勢から片足で大地を踏みしめ、鋭角的に攻撃の軌道を捻じ曲げるロベルク。全身を撓らせた姿勢から唐竹の軌道で霊剣を打ち下ろす。
再び間合いが開く。
ヴォルワーグの左腕が斬り落とされていた。
双方が呼吸を整える。
「くっ……くっふふふふ……」
ヴォルワーグの苦痛に歪んだ口から嘲笑が漏れる。
「気でも触れたか……いや、元からか」
「いいや。俺の左腕を斬り落として達成感に浸っているかと思うと、おかしくてな」
「まだだ」
ロベルクは間髪入れずに踏み込む。容赦なく相手の左手側から斬撃を放つ。が――
「ひゃあうっ!」
ヴォルワーグが奇声を上げる。
本能的に危機を察知したロベルクは剣を振りつつ飛び退く。同時にばりばりという破壊音と共に引き寄せられるような衝撃を受け、体勢を崩して転がった。ロベルクは転がるに任せて一旦間合いを広げる。
「……っ」
左腕に血が流れ落ちる。旅立ちから身に着け続けていた鱗鎧の肩当てが噛み千切られ、裂けた衣から覗く肩には幾筋もの切り傷ができていた。
「よく避けた。肩ごと噛みちぎってやるつもりだったのだがな」
ヴォルワーグは嘲るような口調で身体の左側を見せる。左腕が再生していた。しかしそれは人間のものではなく、硬質な光を鈍く放ち、関節が二箇所あった。先端では虎挟みのような上下三本、合わせて六本の爪が、敵を食い破ろうと開いたり閉じたりを繰り返している。腕というより、なにか別な生き物の顎のようだった。爪が咀嚼するたびに、ばりばりと硬質な音を響かせる。
「硬いなァ。龍鱗かなにかか」
「……お前に食わせてよいゴミではないんだがな」
「抜かせえ!」
ヴォルワーグの口と左腕が同時に吠えた。
「もう俺の勝ちなんだよォ! 自分の身体をみてみろ!」
「?」
ロベルクが目をやると、彼の鱗鎧や衣に、右腕の槍状器官から飛び散った黒い液体が模様のように付着していた。
「くっははは! その汁は混沌が凝縮されている。浴びれば物体は姿を維持できず、溶け崩れるってわけよォ!」
「…………」
「なんとか言えよ! 汁が口にも入ったかァ?」
「やはりな、と言ったんだ……」
「!!」
ロベルクの頬に付いた黒い液体が剥がれ落ち、地面の石に当たって、しゃらっという硬質な音を立てた。
続いて全身の黒い液体が、まるで汚れた雪のようにさらさらと剥がれて滑り落ち、地に落ちてはしゃらしゃらと微かな音を奏でた。
「……さっき一滴漏らしたとき、雑草が爛れたのが見えたからな。全身を冷気で包んで、接触するものを全て凍らせた」
「ぐっ……ぐぞがあああぁぁぁぁッ!」
絶叫するヴォルワーグ。槍状の右腕と顎状の左腕、身を支える八つの鎌のうち四本、合わせて六つの武器がロベルクに向けられた。
ロベルクは慎重に霊剣を構え直す。
(仕掛け過ぎだ。まだなにか出るに違いない。寄り添え……寄り添え……)
ロベルクは心を冷え込ませ、澄んだ領域を目指す。
一方でヴォルワーグは際限なく昂り、熱量を上げていた。
「八つ裂きにしてやるぅッ!」
肉食昆虫のように身を跳ねさせて襲いかかるヴォルワーグ。
ロベルクは切っ先を隠す独特の構えのまま身を低くする。そして相手が間合いに入る直前に踏み出した。
(槍の突き、鎌、鎌、虎挟み、鎌……)
ヴォルワーグの攻撃を紙一重で躱すロベルク。舞うようであり、それでいて纏わり付くような体捌きで、凶悪な武器をいなしていく。
(……鎌、槍、虎挟み、鎌、鎌……っ!?)
急に闇の精霊力が増大したのを察知したロベルクは反射的に大きく跳び、身を捻った。
刹那の前まで彼の胸があった場所を、蛇腹状の外骨格が空を切って貫く。
ヴォルワーグの尻から蠍の尾が生えていた。必殺の大振りを回避された蠍の尾は、猛烈な勢いのまま湖畔の石を砕いて地を刺した。
ロベルクは不安定な回避から半回転して新たな歩を進め、蠍の尾に沿って駆けた。
「ううおおおっ!」
そこに、ヴォルワーグが全ての武器を振り抜いた微かな死角があった。
「しゃっ!」
静謐に――
斬り上げ一閃――
駆け抜けたロベルクは敵の間合いの外で停止し、刃の黒い液体を振り落とす。
「名付けて、『月の剣・穿雲の舞曲』……」
ロベルクが呟く。
同時に、切断されたヴォルワーグの頭が耳から頭頂に掛けてずり落ちる。それは地面とぶつかり、粘性のある醜い音を立てた。
「やった……のか……」
ロベルクは霊剣の切っ先を下げ、張り詰めた息を慎重に解放した。まだセラーナとフィスィアーダは敵と対峙している。油断はできない。
「主!」
そのとき、フィスィアーダの鋭い声が耳を貫いた。




