第百五十八話 『テルセス湖畔』
ロベルクたちは、イルグナッシュから北上して首都リアノイ・エセナを掠め、エマーサ川を遡るように西へと進んでいた。
リアノイ・エセナの市門付近を通ったとき、ロベルクはジオ軍が一兵もいないことに気付いた。街をどんよりと漂っていた闇の精霊力もなくなっている。そこにいた領民によると、ジオ軍は数日前の夜、闇に紛れて引き揚げていったという。
即座にセラーナが伝令を出すことに決めた。斥候と伝令兵に命じてイルグナッシュへと走らせる。「確実に」との言葉に、ふたりの兵士は緊張を漲らせて去っていた。
ウインガルドの民でなければ知らないような、馬車も通れない細い山道を進む。
四人になった一行の視界の先で、木々の隙間から水晶のような輝きが見え隠れし始めた。
「見えた」
ロベルクが呟く。
ほぼ同時に、ぞわり、と心を震えさせるような衝撃が走った。
彼は霊剣の柄に手を当て、注意深く周囲を探る。同じ感覚を覚えたのは、精霊の御使いであるフィスィアーダだけのようだ。
「そう遠くない場所に、いる……」
「主も感じた? 湖を少し回り込んだ先に、いる……」
フィスィアーダは、ロベルクよりも鋭敏に、その衝撃の出所を感知していた。
ロベルクは荷役兵に山を下りるように命じた。
「できるだけ離れてくれ。一日分離れても安全は保証できないんだけど……今までありがとう」
荷役兵は涙を目尻から零すまいと無理矢理笑顔を作って駆け去った。
荷役兵の姿が見えなくなるまで見送ると、ロベルクは仲間と顔を見合わせた。
「さあ、終わりにしよう……」
三人は馬に鞭を入れた。
ロベルクたちがテルセス湖畔に辿り着いたとき、ヴォルワーグはこちらを気にする様子もなく、フードの男が湖に手を差し入れているようすをじっと見つめていた。
(湖に手を突っ込んでいる奴がフォラントゥーリ府主教よ)
セラーナが小声で教える。
ややあって、フォラントゥーリは頭を振り、湖から出た。
「いけませんな。光の精霊力が強すぎます。これでは精一杯やっても、心が不安定になる程度。姿まで混沌に染めるのは難しゅうございます」
「お前の力でも、だめか。原因はわかるか?」
「は」
フォラントゥーリは湖の対岸を指さした。
「あの建物……光神ローディフの大神殿です。殿下の作戦を遂行するためには、あの建物と、ローディフ聖騎士団を壊滅させねばなりません」
「明日にでも皆殺しにしてやろう。その前に……」
血生臭い算段をしていたヴォルワーグがゆっくりと振り返った。
「あの鬱陶しいネズミ共を始末してしまおう」
一行が距離を詰めるのと、ヴォルワーグたちがこちらに向き直るのは、ほぼ同時だった。
「ここでなにをしている!」
ロベルクは思わず叫んだ。
ヴォルワーグはそれを意にも介さなず、傲慢な視線を返す。その両足は、人間の姿を取り戻していた。ロベルクたちは彼が両足を失ったことを知らないが、フォラントゥーリが合流したときに周囲の精霊を混沌化して再構築することで修復したのだ。
ヴォルワーグの左右にはそれぞれ配下が控えていた。
一人はフォラントゥーリ。長身に合わせた長い錫杖を地に立てている。
そしてもう一人が、振り向きながらフードを外す。肩の長さで切られた亜麻色の髪が、はらりとこぼれ出た。
「姉様……」
セラーナが呻く。
レサリア――いや、レサーレ大将軍が、陶器人形のような冷たさを湛えた表情で、こちらを見ていた。腰に吊った細剣と鞭には指も掛けていないが、左のの肩当てが長く突き出した黒い獣皮の胸当てを身に纏い、下々の者を寄せ付けない威厳を放っていた。
中央に立つヴォルワーグは、鷹揚にこちらを見渡すと、口角を吊り上げながらゆっくりと口を開いた。
「黙れ下郎……と言いたいところだが、セラーナ姫を連れてきたことに免じて教えてやろう。対岸の光神ローディフの大神殿を襲撃し、ローディフの加護を弱めたのち、テルセス湖を闇の精霊を用いて混沌に浄化する。テルセス湖から流れ出るエマーサ川もまた浄化され、下流のリアノイ・エセナは姿も心も法を保てなくなり、混沌の糧となる名誉を得るというわけだ」
「名誉? 名誉だと?」
ロベルクは全身がぞわりと脈打った。
「お前は人の命をなんだと思ってる!?」
「人の命は、王が生きるための糧だろう」
ヴォルワーグは、意外そうに首を傾げた。
「この半妖精はなにをそんなに腹を立てているのだ? なあ、セラーナ姫?」
「……っ!」
同意を求められたセラーナは、激しく身震いした。
「王族は……臣民が健やかに生きるために存在する。そんなことも学んでこなかったの?」
激情を抑えて、しかしはっきりと宣言するセラーナ。毒虫を見るような目つきでヴォルワーグを睨めつける。
「それでも王族? ……穢らわしい」
「んほぉっ! 『穢らわしい』貰ったぁ!」
「うっ……」
セラーナがヴォルワーグの反応を見て吐き気を催す。
ロベルクがセラーナの庇うように半身を前に出した。
「ヴォルワーグ、お前のような下衆にウインガルドを好き勝手にはさせない。ここでお前を討つ!」
「『様』を付けろ半妖精! 貴様の死体をテルセス湖に沈めて、ウインガルド浄化と俺の覇道の礎としてくれるわ!」
ヴォルワーグが、ゆっくりと長剣を抜き放った。
「半妖精……身の程を知って俺に姫を引き渡せば、痛みを感じる間もなく殺してやったものを」
「世迷い言を。仮に彼女が承諾したとしても、誰がお前のような醜い化け物に引き渡すものか」
ロベルクもまた、霊剣を鞘走らせる。
隣ではセラーナが、音もなく小剣を構えた。全くの自然体。しかし全方位に打ち込める隙がない。
「姉様とお話ししたから、その『操魔の額冠』には永久に黙ってもらうわね……」
「貴殿にはいい加減、うんざりだ」
レサーレは別段うんざりした顔をするでもなく、電光の速さで細剣を抜いた。
皇子を挟んで反対側では、フォラントゥーリが錫杖を両手持ちして、やや腰を落とした。
「吹雪と舞いの力……幼き御使いとはいえ、全力で当たらねばなるまい」
「随分と主の精霊を乱してくれた。精霊界に戻してくれる」
フィスィアーダはまるで主のような冷たい怒りを滲ませると、虚空から氷の大剣を呼び出した。




