第百五十六話 『皇子軍壊滅』
北街区と南街区を仕切る城門の方面で発生した白い霧は急速に発達しながら北街区に広がり始めた。
鬨の声の中、微かに悲鳴が混じり始める。
ヴォルワーグは眼前の霧を、白き死の権化であると直感した。
「撤退だ! 撤退するぞ! 聞こえないのか、このノロマが!」
ヴォルワーグは側近に叫ぶ。
圧倒的優位を確信していた側近は、ヴォルワーグの命令に対する反応が遅れた。
周囲の将兵は進軍し、略奪し、破壊することに意識が向いていて、建造物の間に見え隠れする霧に気づいていなかった。
「糞っ!」
南を見て気を逸らせている将兵に背を向け、人の波を掻き分けて北門へと向かう。
中軍の最奥部とはいえ、北門までは数百人を掻き分けなければならない。
「殿下! どちらへ!?」
ヴォルワーグの姿に気づいた近衛兵が声を掛け、その姿を追おうとする。
たちまち混乱が起きた。
「どけ! 死にたいのかっ!」
「で……殿下?」
混乱して動きを迷わせている将兵を押しのけ、殴り倒し、最後は斬り払って、ヴォルワーグは北門へと走る。
(じ……時間がない)
背後には不気味な白い霧が立ち上がり、冷酷な手をこちらに伸ばしつつある。
霧に飲まれた場所からは何ひとつ音が聞こえない状況を目にし、ジオ軍の将兵はようやく事態を把握した。壊滅、いやそれよりももっと残酷なことが起こっているという事態を、だ。
「どけっ! ええいっ!」
ヴォルワーグは闇の精霊を引き金に混沌を呼び出すと、下半身に蟷螂の鎌を生やして右往左往する将兵を踏み付けて北門へと走った。
背後で悲鳴が起きる。
皇子の異様な姿を見たからではない。
すぐ後ろで人間や亜人が生きながら次々と凍結し、そのまま結合を失って粉微塵になっているからだ。
あと少しで北門というところで、背後に迫る死の霧が蟷螂の鎌を掴んだ。
ぱきっという乾いた木を割るような音。
直後に硝子の粉を散らすような微かな響き。
半瞬後に痺れを伴う激痛。
ヴォルワーグはまたたく間に鎌の一本を失った。
「ぐおおっ!」
ヴォルワーグはひと声吠えると、残った七つの鎌と両足とで友軍の兵を踏み付けて跳び、霧の先端を泳ぐように門扉の手前で跳び、城門を出ては横っ跳びに転がった。
直後、城門から噴き出す霧。
静謐な無の香りと陰鬱な死の匂いがヴォルワーグの鼻を撫でた。
「う……ぐ……」
改めて全身を刺す激痛に呻くヴォルワーグ。
体に視線を巡らす。
下半身がなくなっていた。
「う……おっおええっ!」
腹のものを絞り出すような叫びを上げると、下半身に蟷螂の鎌が三つだけ生えた。彼は鎌を使ってよろよろと本陣へと歩き始めた。
よたよたと不自由な蟷螂の鎌で歩き続けたヴォルワーグが、イルグナッシュ開墾地の外縁に布陣したメアリ・ツァイトロエーノ私兵団の天幕に転がり込んだのは、既に夕刻だった。
「殿下!? すぐに担架を!」
メアリは主君の異形に狼狽えることなく、左右の者に指示を下す。
「要らん。床几をくれ」
兵が恐れ慄きながら持参した床几をメアリがひったくると、ヴォルワーグの前に恭しく差し出した。
ヴォルワーグが最初の呼吸を終えるのを見計らって、メアリが声を掛ける。
「イルグナッシュ市街にから白煙が上がりましたが、なにがあったのでございますか?」
「……魔法だ。強力な冷却魔法で、北街区に入った者は全て凍りつき、砕け散った」
「まあ」
メアリは妾らしい声を漏らす。続けて彼女は妾らしからぬ言葉を繋げた。
「して、我が軍の被害は?」
「近衛軍、騎士団、聖騎士団、魔獣軍、妖魔軍、エイルファロン隊……つまりイルグナッシュに突入した全ての隊が全滅、いや消滅した。当然ユニティとグロッドは戦死。我が軍の人的被害はざっと三万だ」
「とすると、残存兵力は一万前後……戦線維持の難易度が高いですね」
「言葉を飾っても仕方がない。飽和攻撃は失敗と言わざるを得ない。ペウゲ隊とヨッセ軍とレサーレ軍を呼び戻せ。俺の軍を固めて、数日後に到着する帝国独立遊撃軍第二軍と連携してもう一度イルグナッシュを包囲する」
「承知いたしました」
夕闇に紛れて伝令が駆けた。
翌朝、伝令とともにジオ軍の一団がメアリの陣に辿り着いた。騎馬と徒歩の混じった一団は一様に傷を負い、武器は折れ、憔悴しきっていた。
「お前たちは……」
「私たちは帝国騎士団第五軍所属の騎士でございます」
満身創痍の騎士は、昨日、ロベルクの大規模魔法がジオの主力を消し去ったあとの出来事を語った。
ウインガルド軍は北街区を犠牲にしてジオ軍主力を壊滅させたあと、勢いに乗って東南に布陣したペウゲ隊を攻撃した。士気が頂点に達したウインガルド軍に対し、城門を押さえるという生易しい意識で布陣していたペウゲ隊はあっという間に粉砕された。ペウゲ侯爵は討ち死にしている。ウインガルド軍はそのまま右回りにヨッセ将軍率いる騎士団第五軍へ襲いかかった。多少猶予があったヨッセは反撃を試みるが、気炎を上げるウインガルド軍とメタレス聖騎士団に挟撃され、薄紙を裂くように散り散りにされてしまった。当初は五千騎だった第五軍の中で、辛うじて猛攻をかいくぐった二百余騎がやっと思いでメアリの陣に辿り着いたというわけだ。
「ヨッセはどうした?」
「包囲を突破する折に落馬したところを見た者がおります。恐らくは……」
「…………」
「これで残存兵力は四千を割ってしまいました」
メアリは言いにくいことを確認した。
ヴォルワーグは思わず舌打ちをする。しかし事実は曲げようがない。
間を置かず、魔獣軍が合流した。正確には、レサーレ大将軍の身をを支えた四人の従者が合流した、というべきか。城攻めでのまさかの反撃、そして残った魔獣運搬用シデロケラスを北街区の建造物破壊に投入してしまったため、手持ちの魔獣は全て失っていた。もはや魔獣軍とは呼べない。
翌々日、南西の国境付近に放っていた斥候が帰還した。
挟み撃ちの兵力に嬉々としていたヴォルワーグだったが、斥候余りにの憔悴した様子を見て、異変に気付かざるを得なかった。
帝国独立遊撃軍第二軍、壊滅。
帝国軍が受けた甚大な打撃と凶報をもたらした責めを負うこととで震えて跪く斥候を見下ろし、ヴォルワーグは怒りを抑えることに意識の大部分を割かねばならなかった。
怒りに体を震わすヴォルワーグに代わって、メアリが口を開いた。
「……独立遊撃軍は、なぜ壊滅したのです?」
「それが……移動中に海上からの攻撃を受けたとのことです。大船団による遠距離からの弩砲と魔法、そして雷のような音を発する投石機のようなもので……。掲げた旗によると、国籍は……」
「シージィ。なぜその海域に……?」
メアリは、投石機の特徴を聞いて、即座に『火薬』という特殊な武器を想起し、国を特定した。だが、なぜそこにシージィの船団がいて、なぜこちらに攻撃を加えてきたのかは想像もつかなかった。
そこにメアリ隊の斥候が飛び込んでくる。
「北門からウインガルド軍! 数は四千から六千!」
「なんだと!?」
呻くヴォルワーグ。
ウインガルド軍が勝利の勢いに乗っているとはいえ、屈強な帝国騎士団とぶつかって中一日で被害を回復させて再び出てくるのは不可能と踏んでいた。しかし今、その甘い予想は覆されてしまった。
実はウインガルド軍の方でも、万全な状態で出陣できたわけではなかった。ただ、数日前にもたらされた斥候の報告が真逆だったのだ。
五千のジオ援軍、国境に迫る。
その報せは、ウインガルドの重鎮たちの心胆を寒からしめた。数日で五千の軍勢が国境の町イルグネに殺到する。イルグネには数百の兵しか駐屯していない。領主のクスターは民の命を守る為に町を放棄してイルグナッシュへ退却するか、籠城して時間を稼ぐかの選択を迫られるだろう。またはジオ軍がイルグネを無視して進軍した場合、約十日後には、同数に持ち込んだはずのジオ軍が再び二倍の兵力になってしまう。
独立遊撃軍壊滅の報せがもたらされず、追い詰められたウインガルド軍が取った戦術が、兵力が拮抗しているうちに打って出て敵に痛撃を与えること、そしてとんぼ返りしてイルグネの救援に向かうこと、であった。
その苦肉の策は、ヴォルワーグの即断を鈍らせるに十分過ぎた。
杯の縁から盛り上がった水のように、張り詰めた空気で満たされた天幕。
メアリがそこにひと雫を落とした。
「ウインガルドを放棄しましょう」
一同の視線がメアリに注がれる。
メアリか言葉を続けた。
「手持ちの軍勢で……仮にリアノイ・エセナに駐留する軍を呼び寄せたとしても、イルグナッシュを抜くのは非常に難しゅうございます。ここは旧帝国領まで引いたうえで殿下の賛同者を集結し、再起を図るのがよろしいかと」
「俺の……国……」
「殿下さえご顕在なら、建国の機会は何度でもあるのです。サンバース公は殿下に命運を託していますし、我がツァイトロエーノ公爵家も協力を惜しまないでしょう。兄君と同じ広さの国を作るのもよいですが、旧帝国領を半分切り取ったとしても、兄君と戦力を拮抗させることができるのです」
メアリは、目前にウインガルド軍が迫っているとは思えないほど落ち着いて断言した。
地響きと鬨の声が迫ってくる。
「糞……ウインガルドめ……」
ヴォルワーグに考える時間はなかった。
「……総員、退却する……」
ヴォルワーグは、歯軋りの合間から命令を絞り出した。
天幕の中に力無い奉命の声が湧く。
「私が殿を務めます」
「頼んだ」
太鼓が打ち鳴らされる。
それが退却の合図と知るや、ジオ軍の将兵は武器防具の汚れを拭う間もなく、それぞれが手近な糧食や野営道具や金目の物を引っ掴んで北へと走り出した。
メアリの隊だけがウインガルド軍に正対し、ヴォルワーグ主従が逃げるのを隠すように、しずしずと街道への入り口を封鎖した。
再び鞍上の人となったヴォルワーグは、リアノイ・エセナを守るフォラントゥーリとの交信を試みた。身体に混沌を宿すようになって得た能力である。
(フォラントゥーリ! フォラントゥーリ!)
念じると、フォラントゥーリが応答した。
(イルグナッシュにて巨大な氷の精霊力を感じました。どうなさいましたか、殿下?)
(あの半妖精めにまたやられた! 兵力を大部分を消された。もはやウインガルドの統治は難しい。お前も俺のところへ来てくれ)
(どうなさるのです?)
(いちどジオに戻り、サンバース領かツァイトロエーノ領に潜伏する。その前に……リアノイ・エセナを滅ぼす!)
(しかし、兵力の大半を失ったのでは?)
(滅ぼす方法はある。俺たちはこれから、エマーサ川沿いに西進する。そこにジオへ抜ける地図にない道があることを、統治中に発見した。川を遡上して山越えし、テルセス湖を経由するつもりだ。リアノイ・エセナはエマーサ川の水源であるテルセス湖の水資源に頼っている。それをお前の闇の精霊で浄化する。そうすれば、奴らは混沌に変化する。そうでなくても精神が崩れるって寸法だ。ぐへへ……ぐへっひゃはははっ!)
フォラントゥーリはヴォルワーグの怨嗟を心地よさそうに聞いていたが、『テルセス湖』の名が出たとき、半瞬ほど動きを止めた。テルセス湖は光の精霊の加護を得た湖である。対極の精霊神である闇の御使いフォラントゥーリにとっては居心地が悪い。だが彼はそのような感覚は全く外見に表さなかった。
(……承知しました。早速城を放棄します。転進先はサンバースがよろしいでしょう。兵の指揮はサンバース公に指揮を依頼し、我はすぐそちらに向かいます)
「合流場所はどうする?」
(ご安心を。殿下の体に封じた闇の精霊を探知いたしますれば)
「よし。そっちは頼んだぞ」
フォラントゥーリとの算段を終えたヴォルワーグは、迫るウインガルド軍から逃れるため、馬に鞭を入れた。




