第二話「期限切れ」
父の台所には、期限の切れたものが多かった。
冷蔵庫ではなく、その上の棚だ。
「二〇二四年」
叔母が小瓶を持ち上げた。
「それ、何」
「山椒」
「捨てて」
「まだ匂いするよ」
「期限切れてるだろ」
「賞味期限」
「同じ」
「違うよ」
叔母は蓋を開けて鼻を近づけた。私はゴミ袋の口を広げたまま待った。
「ほら」
「嗅がない」
「お兄ちゃんもそうだった。日付だけ見て捨てるの」
「じゃあなんで残ってるんだよ」
叔母は瓶の底を見た。
「ほんとだね」
結局、山椒は捨てた。
昨日、車から運び込んだものを片づけるために来たはずだった。
軍手と金具は玄関脇の箱へ。車の説明書は書類の箱へ。懐中電灯は電池を抜いてから工具棚へ。そこで終わる予定だった。
ところが叔母が「ついでに台所も少し」と言い出した。
ついで、は信用していない。
台所だけで四十五リットルの袋が二つ出た。
乾麺。粉末スープ。開封した胡麻。いつ買ったのか分からない缶詰。個包装の割り箸。スーパーでもらった小さな醤油。
父は一人暮らしだったのに、割り箸だけで三十膳近くあった。
「これ全部いらないよな」
「箸は使える」
「家に箸あるだろ」
「私が持って帰ろうかな」
「そんなに?」
「来客用」
「三十人来るの」
「来ないけど」
叔母は十膳だけ抜いた。
私は残りを袋へ入れた。
父の生活は、片づけ始めると数字になった。
ゴミ袋二つ。 保留箱三つ。 書類箱一つ。 割り箸十膳。
そうして数えられるものは楽だった。
食器棚の奥から、青いマグカップが出てきた。
叔母が「あ」と言った。
欠けてもいない。高そうでもない。白い線で魚が一匹描かれているだけだった。
「それも捨てていい?」
私は聞いた。
叔母はすぐに答えなかった。
「昔、会社で使ってたやつだと思う」
「じゃあ古いな」
「たぶんね。家じゃあんまり使ってなかったけど」
底に茶色い染みが残っている。
私はゴミ袋へ入れようとした。
「ちょっと待って」
叔母が言った。
「欲しい?」
「欲しいっていうか」
手に取って、魚の絵を親指でこすった。
「これでコーヒー飲むとまずいって、ずっと言ってたんだよ」
「なんで使ってたんだよ」
「知らない」
叔母が笑った。
「そういう人だったから」
私はその言い方が嫌だった。
「そういう人って何」
叔母の笑いが止まった。
「別に。気に入らないものでも、壊れてなければ使う人」
「それだけ?」
「それだけ」
私は袋の口から手を離した。
父を一文にされるのが嫌だったのかもしれない。
けれど私も昨日から、父のものを「いる」「いらない」「保留」の三つに分けている。
似たようなものだった。
「持って帰る?」
私が聞くと、叔母は首を振った。
「いらない」
「じゃあ捨てる」
「うん」
今度は止めなかった。
マグカップをそのまま袋へ入れると割れそうなので、新聞紙を二枚巻いた。
それから洗面所へ移った。
未開封の歯ブラシが四本。使いかけの整髪料。古い絆創膏。旅行用の小さな石鹸。
「これ、期限ある?」
叔母が絆創膏の箱を渡した。
箱の横に小さく日付があった。
切れていた。
「捨てる」
「はい」
今度は叔母も何も言わなかった。
棚の一番下に、ポイントカードを束ねた輪ゴムがあった。
クリーニング店。 ドラッグストア。 ホームセンター。 近所のパン屋。
一枚ずつ有効期限を確認する。
ほとんど使えない。
パン屋のカードだけ、あと一個でいっぱいだった。
「惜しい」
叔母が言った。
「本人しか使えないだろ」
「そういう意味じゃなくて」
私は裏を見る。
スタンプが九個並んでいた。
十個で百円引き。
最後の一個が空いている。
「捨てるよ」
「うん」
叔母は今度こそ止めなかった。
カードを折ろうとして、私はやめた。
折る必要はない。
そのままゴミ袋へ入れた。
夕方、袋を玄関へ運んだ。
叔母は割り箸十膳と、未開封の石鹸を二個持って帰ることにした。
「石鹸いるの?」
「使えるから」
「期限は」
「石鹸に聞いて」
靴を履きながら言うので、私は少し笑った。
叔母も笑った。
昨日捨てた傘のことを思い出した。
父が何本も忘れたらしい傘。 まずいと言いながら使っていたらしいマグカップ。 あと一個だったパン屋のカード。
どれも、父について知らなければ困ることではない。
「次いつ来る?」
叔母が聞いた。
「査定、明日」
「じゃあ私は来なくていい?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「必要なら今日中に連絡する」
「よし」
叔母は割り箸の入った袋を提げて帰った。
私は玄関に残ったゴミ袋の口を縛った。
二袋。
今日捨てたものの数は覚えていない。
覚えておく必要もなかった。
ただ、青いマグカップを新聞紙で包んだ感触だけが、手に少し残っていた。




