第三話「査定」
査定の人は、約束の時間より七分早く来た。
私はまだ父の家にいたので、駐車場まで走った。
「すみません」
「いえ、こちらが早かったので」
紺色の上着を着た男は、名刺を一枚差し出した。私は受け取ってから、父の車の鍵を開けた。
査定は、もっと車を見るものだと思っていた。
実際には、車と書類と私を順番に見た。
「所有者はこちらのお父さまで」
「はい」
「お亡くなりになっている」
「はい」
「相続される方は?」
私は用意してきた書類のコピーを出した。
男はクリップを外し、一枚ずつ確認した。
父が死んでから、こういう会話には慣れた。
お悔やみを言われる場合と言われない場合がある。言われたら頭を下げる。言われなければそのまま進める。
どちらでも必要な書類は変わらない。
男は車体を一周した。
「ここ、擦ってますね」
右後ろのドアの下だった。
「はい」
「いつ頃か分かります?」
「分かりません」
「事故では?」
「聞いてないです」
男は傷の横に小さな計器を当てた。
それ以上は聞かなかった。
ボンネットが開き、エンジンがかかった。
久しぶりに聞いた気がした。
私は運転席に座っていない。だからなのか、父の車のエンジン音というより、知らない車が駐車場で動いている音に聞こえた。
男は走行距離を確認し、スマートフォンへ入力した。
「七万八千ですね」
「はい」
「年式の割には普通です」
普通。
それはたぶん査定上の言葉で、父についての評価ではない。
私はそういうものを区別するのが得意だった。
「ナビ、純正ですか?」
「たぶん」
「ちょっと古いですね」
男が画面を触る。
電源が入り、起動画面のあとに地図が出た。
昨日まで黒かった画面に、現在地の矢印が表示される。
ただそれだけだった。
「動きますね」
「はい」
「バックカメラは?」
「あります」
ギアを入れると、画面が駐車場の白線を映した。
査定の人はまた何か入力した。
ナビは加点にも減点にもならないらしかった。
私はエンジン音を聞きながら、査定が終わるのを待った。
十五分ほどで男は車から降りた。
「一度会社に確認します」
電話をしに少し離れた。
私は運転席側のドアを閉めた。
車内に残ったナビは地図を表示したままだった。現在地からどこへも線は伸びていない。
目的地が設定されていないからだ。
当然だった。
男が戻ってきた。
提示された金額は、私が事前に見た相場の範囲内だった。
高いとも安いとも思わなかった。
「こちらでよろしければ、この金額で」
「いつまでですか」
男が一瞬、金額の紙を見た。
「査定額ですか?」
「この条件で売れる期限」
「ああ。今日を含めて七日でお願いします。その後は相場や状態でもう一度確認になります」
私はスマートフォンのカレンダーを開いた。
七日後。
駐車場の解約期限より十二日前だった。
十分ある。
「引き渡しは最短で?」
「書類が揃えば、二、三日でも」
「最長だと」
「今の金額を保証するなら七日以内ですね」
「分かりました」
男は少し笑った。
「皆さん、値段を先に聞かれるので」
「値段は書いてあるので」
「そうですね」
私は査定票を受け取った。
男が帰ってから、車の中でもう一度書類を確認した。
不足しているものが二つあった。
印鑑証明。 戸籍の追加分。
取得できる日をカレンダーへ入れる。
明後日の昼休み。 役所。 二十分。
そこまで入力してから、七日後の日付に「査定期限」と書いた。
月末より前に、もう一つ期限ができた。
私は期限がある方が楽だった。
いつか決める、より、何日までに決める、の方がいい。
助手席に査定票を置いた。
風で飛ばないよう、車の取扱説明書を重しにした。
エンジンを切ろうとして、ナビがまだ点いていることに気づいた。
地図の上には、近所の道路と、コンビニと、ガソリンスタンドが出ていた。
父がどこへ行ったかは表示されていない。
私は電源を落とした。
黒くなった画面に自分の顔が薄く映った。
そのときスマートフォンが鳴った。
叔母だった。
《どうだった?》
私は査定額ではなく、先に日付を返した。
《七日以内ならこの金額》
少しして、
《聞いてるの金額なんだけど》
と返ってきた。
金額を送る。
すぐに、
《思ったよりするね》
と来た。
私は、
《そうだね》
とだけ返した。
売る理由が一つ増えた、と考えた。
駐車場の期限。 査定額の期限。 乗る予定がないこと。
三つあれば十分だった。
車を降り、鍵をかける。
スマートフォンの予定表には、七日後の欄だけ文字が増えていた。
《査定期限》
父の車が、初めて日付の中に収まった。




