第一話「駐車枠」
「月末まででお願いします」
管理会社の人は、父が死んだことには触れなかった。
電話口で確認されたのは、契約者の名義と、車のナンバーと、駐車場をいつまで使うかだった。
私は机の端にあった封筒を裏返して、空いたところへ書いた。
月末。 車。 解約。
三つ書いてから、最後の一つに丸をつけた。
父が死んで十二日目だった。
葬儀は終わった。役所へ出すものも、会社へ返すものも、だいたい終わった。実家の冷蔵庫には叔母が持ってきた総菜がまだ残っていて、私は自分の部屋と父の家を行ったり来たりしていた。
車だけが残った。
正確には、車そのものより、車が占めている一台分の場所が残った。
翌日の午後、叔母と駐車場で待ち合わせた。
「これ、乗るの?」
会うなり叔母が聞いた。
「乗らない」
「じゃ、売る?」
「たぶん」
「たぶんって」
叔母は笑わなかった。責めもしなかった。
父の車は、白だった。洗えばもう少し白くなるのだろうが、今は薄く灰色がかって見えた。右後ろのドアの下に細い擦り傷がある。私はそれがいつ付いたものか知らない。
鍵を開ける。
車内には、父が最後に降りたときの形が残っているようには見えなかった。
ただ散らかっていた。
助手席の足元に空のペットボトル。ドアポケットに折り畳み傘。後部座席にホームセンターの袋。運転席と助手席の間には、硬貨が三枚落ちていた。
「まず書類かな」
私は車検証を探した。
叔母は後部座席の袋を持ち上げた。
「これどうする?」
「中なに」
「軍手。あと、なんか金具」
「家の箱に入れといて」
「その家の箱がもう三箱あるんだけど」
「じゃあ保留」
「保留が増えるねえ」
私は返事をしなかった。
ダッシュボードを開ける。取扱説明書、整備記録、古いティッシュ、小さな懐中電灯。車検証は透明なケースに入っていた。
必要なものだけ助手席へ並べた。
車検証。 自賠責。 整備記録。 スペアキーは見当たらない。
スマートフォンに項目を打ち込む。
叔母が運転席の向こうから覗いた。
「お父さんのもの、全部そうやってやるの?」
「全部って?」
「いる、いらない、保留って」
「そうしないと終わらないから」
「そっか」
それだけだった。
叔母は折り畳み傘を開こうとして、天井につかえた。
「ここで開くなよ」
「壊れてないか見ただけ」
「外で見ればいいだろ」
「はいはい」
外へ出た叔母が傘を開く。骨は一本曲がっていた。
「捨てる?」
私は車検証の住所と父の住所が同じなのを確認しながら答えた。
「捨てていい」
叔母は傘を閉じた。
けれど、すぐにはゴミ袋へ入れなかった。
「これ、お兄ちゃん、雨の日に絶対持って出るくせに、帰ると忘れるんだよね」
「そう」
「コンビニに何本置いてきたか」
私は知らなかった。
知らなくても困らなかったので、書き留めなかった。
査定業者を二社検索した。出張査定。必要書類。名義人死亡の場合の手続き。
父が死んだという事実は、ページの中では条件分岐の一つだった。
《所有者がお亡くなりの場合》
そこを開いて必要なものを読む。
戸籍。 相続関係書類。 印鑑証明。
「面倒?」
叔母が聞いた。
「まあ」
「私、いる?」
「必要になったら言う」
「必要になる前に言ってよ」
私は画面から顔を上げた。
叔母は曲がった傘を持ったまま、車の屋根に手を置いていた。
「急に言われても、こっちも予定あるから」
「分かった」
「ほんとに?」
「今日帰ったら確認する」
「ならいい」
叔母はようやく傘をゴミ袋へ入れた。
私は査定の予約画面を開いた。
最短で二日後。
月末までは、まだ十九日ある。
十九日あれば十分だと思った。
査定を取る。 必要書類を揃える。 売る。 駐車場を解約する。
順番にやれば終わる。
予約を確定すると、受付番号が表示された。
私はそれをスクリーンショットにして、スマートフォンのメモから「査定予約」を消した。
一件減った。
帰る前に、車内をもう一度見た。
何かを探したわけではない。
忘れ物がないか確認しただけだった。
古いナビの画面は黒いまま。助手席には必要書類のケース。後部座席には保留になったホームセンターの袋。
私はドアを閉め、鍵をかけた。
叔母が先に歩き出してから、駐車枠の番号をスマートフォンへ入力した。
二十七番。
その下に、管理会社から言われた日付を書く。
月末。
父の車について、その日決めたことは、それだけだった。




