CASE.6 花道標②
2
捜査本部には、桑島も入ることになった。
最後列の席に、結城と並んで座っている。
「被害者の名前は、脇本妙子。年齢は四五歳。職業は、パート従業員」
捜査員が、これまでにわかっていることを報告していく。
「死因は、毒を服用したことによる中毒死だと思われます。体内から、アコニチンが検出されました」
「アコニチン……なんにふくまれてるんだっけ?」
佐野が、桑島のほうを見て言った。おそらく佐野も答えを知っているし、多くの捜査員にもわかっていることだが、あえて桑島に答えさせようとしている。捜査に参加していることを周知させようという意図があるのだ。
「トリカブトです」
「トリカブトは、入手も容易だよな?」
「普通の花屋では売っていませんが、花材専門店では販売しているはずです」
「花材専門店?」
「いけばなとか、フラワーアレンジメントのプロが利用するような店です」
そのほか自然にも多く生えているし、そもそも取り扱いに規制はない。販売しても栽培しても、違法ではないのだ。
「毒は、おもに根にふくまれています」
「素人でも、抽出はできるのか?」
「できます。というより、そんな面倒なことをしなくても、例えば細かく刻んで料理に混ぜれば、量によってはそれだけで死にいたる」
「胃の内容物は?」
「まだ鑑定結果は出ていません」
それまで報告していた捜査員が答えた。
「マル害は、なんの用事で町田弁護士をたずねる予定だったんだ?」
最初、佐野の視線は桑島に向いていたが、桑島が軽く首を横に振ると、べつの捜査員に向けられた。あれから町田弁護士とは話していない。
「守秘義務をたてに、証言は断られました」
視線を向けられたのとはちがう捜査員が答えていた。
「亡くなってるのに、守秘義務もないだろうに」
桑島は、手をあげた。
「なんだ?」
「たぶん町田弁護士は、なにか事情を知っていると思う」
「根拠は? 事件には関係してないだろ? アリバイは、おまえらが証明してるんだから」
死亡推定時刻の三十分後には、桑島と結城が会っているのだ。移動の時間を考慮すれば、不可能ではないが、常識的には容疑者からはずれる。ただし毒物は、なんらかのトリックをつかうこともできるし、その場にいなくても犯行は可能だ。
「根拠はない」
はっきりと桑島は答えた。
「おい……」
「もう一度、町田弁護士から話を聞いてくる」
「わかった、そっちはまかせる」
会議が終わると、桑島と結城は、再び町田のいる弁護士事務所を訪れた。
ビルの前に立つと、事務所のある階を見上げる。ふと、そのまま視線を周囲に移した。とくに意識したわけではない。
「……」
「どうしました、警視?」
桑島の眼にとまったものは、弁護士事務所の真向かいにある喫茶店だった。
「警視? たずねるまえに、コーヒーでも飲みますか?」
「あのマーク……」
「え?」
喫茶店の看板に、花のシンボルが描かれている。
「警視?」
「百合に見えませんか?」
「百合?」
そこでようやく、彼女にも看板のマークが眼に入ったようだ。
「そうですね……百合って、さっきの?」
そして遅れて、あ、と声を放った。
「店の名前は、リリーです」
百合という意味だとしたら、この店のことを指していたのかもしれない。
「入ってみよう」
「そうですね……」
店内は、いたって普通の喫茶店だった。むしろ普通すぎて、逆にいまどきはめずらしいぐらいだと思った。
二人で席についた。
「いらっしゃいませ」
「コーヒーと紅茶を」
結城が、まとめて注文してくれた。桑島がいつも特特室で紅茶しか飲んでいないことをわかってくれていたのだ。
店内は、半分ぐらいの席が埋まっていた。
しばらくして、コーヒーと紅茶が運ばれてきた。
「あの、この店は百合という意味ですか?」
唐突だったが、質問した。
「え? どうなんでしょう……オーナーに聞いてみないと……」
その女性店員は、把握していないようだった。
「警視、ただの偶然じゃないですか?」
店員が去ってから、結城が言った。たしかに考えすぎかもしれない。
「念のため、この店のオーナーのことを調べてみましょうか?」
どうするか数秒間、思慮していたが、状況は勝手に進展していた。
「あ、オーナー!」
さきほどの女性店員が、声を放っていた。いま入店してきた五十歳ほどの男性に対してだ。
「そちらのお客様に、この店の名前についてたずねられたんですけど」
男性が、席に近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
男性が頭をさげた。ダンディな雰囲気をかもしだしている。
「桑島さんですね?」
「え?」
「こちらにいらっしゃると、うかがっていました」
「ぼくのことを知ってるんですか?」
わからないことだらけだった。
「はい。たぶん、この店の名前について質問してくるはずだと」
「だれに、そう言われたんですか?」
「お客さんですね」
「女性ですか?」
「そうですね、女性でした。男性も、いっしょでしたけど」
「その女性は、名前を言いましたか?」
「いえ」
立花渚沙だろうか……。
「むかいにある弁護士事務所は、ご存じですか?」
「え? はい、入ったことはないですが」
「弁護士の町田さんを知っていますか?」
「わからないです。もしかしたら、みかけることぐらいはあるかもしれないですけど」
すくなくとも、顔を知っているわけではないようだ。
「脇田妙子という女性に、心当たりはありますか?」
「脇田? いえ、脇田という知り合いはいません」
微妙な空気が流れた。この喫茶店へ来たことはまちがいではないのかもしれないが、なにかの成果があったわけではない。
オーナーが立ち去ってから、飲み物を喉に流し込み、会計のために立ち上がった。
一度は店の奥に消えていたオーナーが、再び姿をあらわした。
「あ、そうそう、これをどうぞ」
オーナーは、一輪の花を持っていた。
「これは?」
「その女性が、あなたに渡すようにと置いていったんです」
赤い花だ。だが生花ではなく、ドライフラワーのようだった。
桑島は花を受け取り、店を出た。
「なんなんですかね?」
結城が、愚痴のような、憤りのような声をもらしていた。
「これは、なんていう花なんでしょう?」
「ハイビスカスかな?」
「すみませんね、花のこと知らなくて」
なぜだか結城が怒りだしていた。ポピュラーな花を知らなかったと恥ずかしくなってしまったのだろうか。
そのことにはふれず、ドライフラワーを観察した。
おかしなところは、とくにないようだ。ヒントが隠されているわけはなさそうだ。
「また、意味があるんですかね?」
「どうだろう……」
「どうしますか? 弁護士事務所へ行きますか?」
ここまで来たのだから、行かないという選択はない。
弁護士事務所をたずねた。対面した町田弁護士は、困ったような、焦ったような顔をしていた。
「率直にお聞きします。脇田妙子さんとは、どのような用件で会うことになっていたんですか?」
「新しい依頼のことだと思います。以前にも、うけたことがあるので」
「内容は?」
「まだ聞いていません」
「以前の依頼というのは?」
「SNSで誹謗中傷されたので、書き込んだ相手を特定してくれ、ということでした」
そこで、ある疑問にぶつかった。
「あの……町田さんは、守秘義務で証言を拒否しましたよね?」
「え? ああ、それはべつのことです」
「べつのこと?」
「いえ……なんでもないですから」
様子がおかしくなった。
「もういいですか?」
急に時間を気にしはじめた。
なかば追い出されるかたちで、弁護士事務所を出た。
「なんですかね?」
「話を聞いた捜査員に確認しよう」
佐野へ連絡をとった。その捜査員は外出していたが、すぐに呼びもどしてくれるという。
二人は捜査本部へもどった。
町田弁護士に話を聞いた捜査員も、ちょうどもどってきたところだった。
「町田弁護士は、証言を拒否したんですよね?」
「え? は、はい……」
年齢は二十代後半ぐらい──桑島や佐野と同世代になる。しかしキャリア警視からの質問に、少しうろたえていた。
「いま話を聞いてきたけど、普通に話してくれたんだけど……」
その捜査員は、首をかしげていた。
「いえ、自分には守秘義務があるからと」
「直接たずねたんですか?」
「いえ、電話です」
「なんと質問しましたか? できるだけ正確にお願いします」
「脇田妙子さんとのご関係を教えてくださいと」
「関係? 依頼内容について、ではないんですか?」
「自分は、ご関係を、と言いました」
生真面目に答えてくれている。
「なんか、おかしくないか?」
佐野が割って入った。
「ご関係に守秘義務って、依頼内容についてならまだわかるが」
桑島には、過去の依頼内容を教えてくれた。
「……関係を知られたくない?」
桑島は、つぶやくように声を出した。
「関係を? じゃあ、ただの依頼人と弁護士の関係じゃないってことか?」
「かもしれない」
佐野は一瞬、考え込んだ。
「そこを調べたほうがよさそうだな……」
「男女関係ということでしょうか?」
結城が言った。
桑島は、反応に困った。脇田妙子は離婚していて、現在は独身、子供もいないようだ。かたや町田弁護士も、離婚歴がある。おたがいがバツイチ同士。恋愛関係になっても不思議ではないが、どちらも独身なのだから隠す必要がない。
それに、こういう表現は女性蔑視にあたり、しかも死者を冒涜することになってしまうが、脇田妙子の容姿からそういう雰囲気は感じなかった。もう恋愛に興味はなくなっていたのではないだろうか。もちろん、それが偏見であり、決めつけなのかわかっている。
「それについては、こっちのほうで調べておく。おまえは、どうする?」
「これかな……」
桑島はそう言って、あのドライフラワーをかかげた。
「次のヒントってことか?」
「そうだと思う……」
「あてはあるのか?」
ない。
「ハイビスカスに毒はあるか?」
「ないと思う。でも、百合にも毒はないから、たんに場所をあらわしてるんだと思うけど」
「なにかわかったら、すぐに連絡をくれ。また殺人にぶち当たるかもしれない。すぐに応援をやる」
3
次の日は、警視庁にこもって、結城と牧野の力を借りて、都内にあるハイビスカスにちなんだ場所をさがすことに専念した。
ハイビスカスという名前の店は、それなりの数になる。喫茶店、バー、文房具店、業種は様々だ。
そのすべてを調べるわけにはいかない。どこかにあたりをつけなければ──。
「あの喫茶店……」
桑島は、思わずつぶやいていた。
「どうしました、警視?」
百合の花は、弁護士事務所の正面にあった喫茶店を指していた。ならば、次のハイビスカスは、その喫茶店を起点に、どこかへ導いているのかもしれない……。
「なんの根拠もないけど……」
二人に、その考えを伝えた。
「でも、ほかにあてはないんですよね? でしたら、もう一度、たずねてみたらどうですか?」
牧村に助言された。結城は、どこかに嫌悪感をにじませていたが、この二人はいつもいがみ合っているから、気にすべきところではない。
午後になり、結城をともなって再び喫茶店を訪れた。
店は営業していたが、昨日とはなにかがちがっていた。
「あ、どうも」
オーナー自らが店に出ていた。それとも、これが通常どおりなのだろうか。
「すみませんが、今日はゆっくりしていられません」
かなり忙しく動いている。客の数も多かった。
「店の子が、急に休んじゃって」
「昨日の女性ですか?」
「そうです」
それで急遽、オーナー自らが働いているようだ。慣れていないから、バタバタしているのだ。
「病気ですか?」
最近は、軽い風邪でも休むのが推奨されている。
「あ、いや……なにも連絡がないんですよ」
そう答えてから、べつのテーブルに呼ばれていった。
「無断欠勤……」
「警視」
結城も気になったようだ。調べたほうがいいのかもしれない。
いったん外へを出て、店内が落ち着いたころを見計らって、オーナーに無断欠勤した女性店員のことを聴取した。
連絡先と住所を教えてもらうとしたのだが、個人情報だから、と渋られた。
女性の名前は、皆川明穂。年齢は十九歳。それだけは聞きだせた。
「どうしますか? 皆川明穂さんを調べますか?」
警視庁へもどりながら、結城と話し合っていた。だが、ただの無断欠勤であるかもしれない。いや、若い従業員が無断欠勤することは、それほどめずらしいことではないだろう。このことについては、桑島や結城のほうが考えすぎで、オーナーが深刻に思っていないことのほうが正常なのかもしれない。
はたして労力をさいてまで調べる価値があるかどうか……。
たとえば、自動車免許をもっていれば、簡単に住所を調べられる。犯罪歴があれば、なおのことだ。
本庁舎にもどると、まずは皆川明穂の前歴を検索することにした。運転免許は、年齢と性別的に所持していないだろうと予想をたてることができる。
逮捕歴がなかったとしても、補導歴があればいい。成人すれば抹消されてしまうが、十九歳であれば残っているはずだ。民法における成人は十八歳と定義されているが、刑事訴訟法における成人は、いまだ二十歳だ。十八・十九は特定少年として、未成年あつかいになるのだ。
「前歴はありませんでしたけど……」
牧村にお願いしたのだが、なにかふくみをもたせていた。
「どうしました?」
「あ、いえ……念のため、普通に検索してみたんですよ」
警察のデータベースではなく、インターネットで検索したという意味だろう。
「なにか出たの?」
結城の言葉には、あくまでも敵意がこもっていた。
「同じ女性かまではわかりませんけど……」
そう前置きをしてから、続けた。
「過去に炎上してますね」
「炎上? なにかしたんでんすか?」
「コンビニで、店員を土下座させたんですよ。それを動画で流して、大炎上です」
男友達といっしょに、店員に因縁をつけて、数時間にわたり脅迫まがいの行為を続けた。
「土下座の強要は、犯罪よ」
結城の指摘は、そんなことをしたのなら、前歴があるのではないか、というものだ。
「未成年だし、立件はされてないみたい。男友達のほうは、警察に捕まったって書いてある」
牧村は、続けてパソコンのキーを叩いた。
「当時の動画がありました」
桑島と結城も、液晶を覗き込んだ。
店員らしき人物が土下座をしている。その横で男性がゲラゲラと笑っていた。女性の笑い声も聞こえているが、顔は映っていなかった。
「これでは、本人の確認はできませんね」
「住所の書き込みはされていますか?」
「待ってください……あ! ありました。特定班が動いたみたいですね」
動画やSNSの投稿から人物を特定する者をそう呼んでいることは知っている。
「その住所を教えてください」
「足立区西新井──」
喫茶店の女性が、土下座炎上した皆川明穂だと仮定して、行動することにした。
さっそく、その住所の場所へ向かうことにした。結城の運転で、一時間ほどかかっただろうか。
アパートの多いエリアだった。皆川明穂の住所は集合住宅のものではないから、もしかしたら実家なのかもしれない。そうなると、本人はいなくとも、まだ家族は住んでいる可能性がある。
「アパートですね」
住所の場所には、真新しいアパートが建っていた。すでに住宅自体がなくなっているようだ。
「どうしますか?」
「とりあえず、住人に話を聞いてみましょう」
一階の一番手前の部屋から聞きこむことにした。最近の集合住宅には表札をつけないところが多いから、住人の名前はわからない。呼び鈴を押した。
『はい』
カメラこそないが、インターホン式になっているようだ。
「あの、警察の者ですが、少し話をさせてもらえないでしょうか?」
『警察?』
あきらかに不審がっている声が返ってきた。昨今は、警察官をかたる詐欺事件が多発しているから無理もない。警察としても、家をたずねたり、電話をかけるさいに、疑われないよう細心の注意をはらっている。
かつては巡回カードの記入に各自宅を直接まわっていたが、いまではそういう事情を配慮して、郵便ポストに入れておき、記入したものをあとで取りに来る、もしくは交番まで届けてもらう、というやり方に変えている警察署も多い。
「本物ですから、安心してください」
『偽物が、偽物です、とは言わないですよね?』
女性の声は、もっともな反応だった。
「お疑いなら、警視庁のほうに問い合わせてもらってけっこうです」
『その連絡先も、嘘かもしれない』
捜査としては困るが、むしろここまで疑り深ければ、頼もしさすら感じる。この人が詐欺被害にあうことはないはずだ。
扉が開いた。
一応、身分証を提示した。
「いまどき、そんなの簡単に手に入るでしょう?」
「そうかもしれないですね……」
桑島は、困りながら応じた。
女性の年齢は、五十歳ぐらいだろうか。
「名刺です」
反応は予想できたが、話を聞くためには渡すしかない。
「その電話番号を検索して、本物であることを確認してください」
警視庁、番号、で検索すれば簡単に出てくるはずだ。
「本物であることがわかったら、お手数ですが、桑島誠一がちゃんと所属しているかを確認してください」
ここまですれば、信じてくれるだろう。
「……」
女性は、ジッと桑島の顔を見ていた。
「あの……どうかされましたか?」
「信じます」
「あ、ありがとうございます」
急に、好意的になったような気がして、むしろ困った。
「あなたのこと知ってます。よくニュースに出てますよね? あとでサインもらえます?」
さらに困った。
「し、質問いいですか?」
「どうぞどうぞ」
「以前、ここのアパートができるまえに、皆川さんというお宅があったことはご存じないでしょうか?」
「?」
女性は、なんでそんなことを訊くの?──という顔をしていた。
「どうしました?」
やはり、収穫を期待するべきではなかったようだ。
「うちですけど……」
「え?」
意外な返事がもどってきた。
「うちは皆川ですが……」
「ええーと、ご自宅をアパートに建て替えたということでしょうか?」
偶然、皆川姓の住人なのかもしない。その可能性を消すための質問だ。
「そうですね……家だけじゃなくて、駐車場もつぶしましたけど」
皆川明穂の実家でまちがいないようだ。
「あの、明穂さんをさがしているのですが、ご在宅でしょうか?」
「あの子は、べつの場所に住んでますけど……」
その言い方に、嫌悪感がにじんでいた。
「また、なにかやったんですか?」
「炎上騒ぎがあったんですよね?」
「そうです……まったく、迷惑しかかけないんだから!」
吐き捨てるように言った。親子仲は最悪のようだ。
「ここをアパートにしたのも、あのことがあったからですし」
特定班によって、自宅住所をさらされてしまったからだろう。
「まあ……いまでは家賃収入で食べていけるから、不幸中の幸いですけど。でもあの子じゃなくて、土地を残してくれた親に感謝しているだけですよ」
彼女の愚痴は止まらない。
「あの、明穂さんの現住所はご存じですか?」
まだ言い足りなそうだったが、桑島は話を進めた。
「さあ、いまはどこなんでしょう? ちょっとまえは、板橋にいるってことでしたけど」
ということは、まったくの音信不通というわけではないのだろう。
「そこの詳しい住所を教えいただけますか? それと、連絡はつくでしょうか? できれば電話をして、安否の確認をしてもらいたいのですが」
「安否?」
嫌っていても、娘にはかわりない。女性は表情を曇らせた。
「あの子に、なにかあったんですか?」
「いえ、あくまでも念のためです」
明穂が狙われる根拠はないもない。何者かに導かれた喫茶店の従業員で、無断欠勤をしているというだけのことだ。
かりに事件に関係しているとしても、被害者ではなく、加害者という可能性もある。
「しばらく、かけてないけど……」
女性は、携帯を操作する。
「出ない……」
コール音はしているようだから、番号が変わっているわけではないようだ。
「われわれは、これから板橋に行ってみようと思います」
「でも……たしか、そこからは引っ越したって言ってたような……」
「アパートですか?」
「そうだと思います」
実際には行ったことがないようだ。
「でしたら、ほかの部屋の住人が知っているかもしれない。住所を教えてください」
「ま、待っててください……」
家のなかに引っ込んだ。五分ほどでもどってきた。板橋の詳しい場所を、結城がメモをした。
いざとなれば、住民票から現住所を確認する方法もある。だが警察とはいえ、理由もないしに閲覧することはできない。それこそ、事件に巻き込まれた疑いが濃厚にならないかぎりは。
親なら当然、そのかぎりではないから、母親に住民票の確認をしてもらうことも考えた。しかし別居している成人(民法における十八歳以上)の場合は、親子でも本人の委任状が必要になる。その本人の居場所を知りたいわけだから、役所に相談をすれば大丈夫だと思うが、現時点でそこまで大事にすべきか難しい判断になる。そもそも住民票を移していない可能性だってあるのだ。
板橋の住所に向かった。くしくも、さきほどのアパートと同じような造りだった。少し古いだろうか。
教えてもらった部屋の扉をノックした。二階の奥だ。
応答はない。
そのとき、アパートの住人だと思われる女性が階段をあがってきた。皆川明穂ではない。
買い物袋をさげたその女性は、不審そうに桑島たちのことを見ていた。
「あの、こちらの部屋の方ですか?」
「いえ、ここですけど」
一つ手前の部屋のドアノブに手をかけながら、女性は答えた。
結城が警察手帳を出した。
「こちらの部屋に住んでいるのは、皆川さんという女性でしょうか?」
「女性? いえ、男の人ですけど」
やはり引っ越しているようだ。
「でも、よく女性は来ていましたけど」
その女性が皆川明穂という可能性が、わずかだが残っている。
だが、写真を持っているわけではないので、それを確認することはできない。母親は、幼いころの写真しか所有していなかった。
「この部屋にむかし住んでいた人のことは、わからないですよね?」
桑島は、だめもとでたずねた。
「わからないです……いまの人は、古くからいると思うんですけど」
「何時に帰宅するとかわかりますか?」
「この時間なら、いるんじゃないでしょうか。たぶん、夜の仕事だと思うんですよ」
「名前はわかりますか?」
「古田さんだったと……」
あまり自信はないようだ。
もう一度、ノックをしてみた。普段は部屋にいる時間でも、たまたまいないこともあるだろう。居留守をつかっていることもありうる。もちろん警察の訪問だからといって、居留守が悪いというわけではない。悪質な訪問販売を避ける意味でも、出ない住人は少なくないはずだ。
「……」
このまま立ち去るべきだったが、どういうわけか、いやな予感が駆け抜けた。
桑島は、ノブに手をかけた。
「警視?」
鍵はかかっていなかった。
「古田さん? いらっしゃいますか? 開けますよ!」
そう呼びかけた。
「まずいですよ、警視!」
結城に注意されたが、桑島はドアを開けてしまった。
すぐに、室内で倒れている男性の姿が眼に入った。ルールを気にせず、ドアを開けて正解だった。
「古田さん、大丈夫ですか!?」
呼びかけるが、返事はない。不自然な倒れた方だから、無造作に眠っているわけではないだろう。
「入ります!」
一応、ことわりを入れてから室内に足を踏み入れた。
「警視……」
脈をとったが、すでにこと切れている。
外傷はない。口から、少し泡のようなものが見てとれた。
これも毒殺?
念のため、何者かが潜んでいないか確かめたが、だれもいなかった。ドアが開け放たれたままの玄関では、となりの住人が口をあんぐりとあけて立ち尽くしていた。




