CASE.5 暴走車 中編
3
通路を進み、出入口から外を覗いた。そこは裏路地となっていて、人の姿は見えない。
もどろうとしたのだが、足はなぜだか逆の方向に進んでしまった。自分の意思ではないようだ。
(加奈さん?)
呼びかけずにはいられなかった。
なんの反応もないところをみると、彼女の仕業ではないのかもしれない。疑問の声は聞こえているはずだ。それとも、それは爆弾魔事件のときだけだったのだろうか。
加奈が関与していないのなら、歩いているのはひよりの意思ということになる。
「……」
路地を抜け、表通りに出た。
すぐ眼についたものがある。
車だ。真っ赤なスポーツカー。
桑島や佐野が語っていたことを思い出した。
ひよりは、車に近づいた。
「きみは、一人?」
声をかけられた。
三十歳ぐらいだろうか。真面目そうな男性だった。
「……」
なにも答えないでいると、男性はやさしげに微笑んだ。
「きみ、お店にいたよね?」
「……はい」
では、さきほどの視線は、この男性のものだったのだ。
「レストランの方ですか?」
「まあ、そういう感じ」
曖昧な返答だと思った。
「相手はみつからなかったのかな?」
「え?」
すぐに考えがいった。合コンのことを言っているのだ。
「え、ええ……そうです」
「よかったら、乗ってみない?」
一瞬、いろいろな想定が脳内を駆けめぐった。
「……いいんですか?」
わざとらしくならないように、笑顔を浮かべた。
「どうぞどうぞ」
「この車、高いんじゃないですか?」
「そんなことないよ」
ひよりは、助手席に乗り込んだ。
男性も運転席につくと、車は静かに発進した。
「名前をきいてもいいかな?」
「吉原ひよりっていいます。あなた、は……?」
「村石といいます」
ここまでは、とても良い印象がある。
犯罪とはなんの関係もなく、ただのナンパなのではないだろうか。
だとすれば、適当なところで車を降りるべきだろう。その気もないのに乗ったのは、失礼なおこないだ。
「いまつきあっている恋人はいるんですか?」
「うーん、どうなんでしょう……」
なんと答えるのが正解なのか。
「好きな人はいるってことですか?」
「そうですねぇ……」
「でも、その人のことは忘れて、今夜は楽しみませんか?」
「はは……」
この状況になって、かなり危険なことをしてしまったと思い至った。
しかし、ドライブすること三十分。
いまは都内の道路を走行している。人けのない山道でもないし、警戒するようなシチュエーションにはならなかった。
村石は、とても紳士的で、卑猥な会話をすることもなかったし、身体を触ろうとすることもなかった。
「本当は海まで行きたいんですけどね。遠すぎるから……」
なにかを懐かしんでいるように、男性は言った。
「海が好きなんですか?」
「好きだったのは、母ですよ。よく外国の海の話をしてくれました。とてもきれいな水で、底まで透き通ってる……」
だった──ということは、すでに母親は亡くなっているのだ。
どういう言葉を返せばいいのかわからなかったので、なにも言わなかった。
もといたレストランの周辺にもどってきた。
桑島たちの危惧は、的外れなものだったらしい。彼は、ただのドライブを楽しむ、害のない男性だった。
「どうでした? 楽しかったですか?」
「はい。こういう車に乗る機会なんて、あんまりないですし」
学生同士で、車の話をしている人をだれも知らなかった。若い世代が免許をとらないという記事を以前に読んだことがある。
出発地点にもどると、エンジンが切られた。ドライブの終了だ。
「ありがとうございました」
ひよりは、礼を言った。そして心のなかだけで、ごめんなさい──と、つぶやいた。
「いえ、こちらこそ、つきあわせちゃって」
この男性は、ただの車好きなのだ。女性を誘っているのも、下心があるわけではない。
シートベルトをはずして、ドアを開けようとした。
「ぐ、うう……」
「え?」
突然、運転席で男性が頭を抱えるようにうずくまった。
「ど、どうしました!?」
「ううう……」
「どこか痛いんですか!? 苦しいですか!?」
男性からは、呻き声しか返ってこない。
「うう……」
「救急車を呼びますか!?」
携帯にのびようとした手をさえぎられた。
男性が、苦しみながらも腕を動かしたのだ。
そのときになって、ひよりにも不吉な気配がわかるようになっていた。
力が強い。まるで、自身を制御できないかのようだ。
「あ、あの!」
男性が、顔を向けた。
眼が、それまでとはちがっていた。
「!」
もう片方の腕でも身体をつかまれた。
逃げなければ、と脳内が警告を発する。
「あなたは、だれ?」
その声が自分の口から出たことを、すぐには認識できなかった。
ひよりは──わたしは、また入れ替わってしまったのだ。
「う、動くな!」
「あなたは、だれ?」
ひより=わたしは、冷静に繰り返していた。
「お、おまえこそ……だれだ!?」
男性は苦しそうながらも、鋭い声を放っていた。
「ち、ちがう……いままでの、女じゃない!」
加奈さんと入れ替わったことが、わかっているようだ。
「あなたも、そうですよね?」
「な、なんのことだ……」
「そうでなければ、わたしが入れ替わったこともわからないでしょう?」
「知らない……おれは、どうしてここにいるんだ……」
状況を理解していない。それなのに、わたしと加奈さんが入れ替わったことだけを知っている。矛盾があるけど、どうやらこの男性の人格にも異常がおこっているのだけは確かなようだ。
「まだ……ドライブを続けよう」
「身体は、おつらいんじゃないですか?」
「治った……」
苦しむような素振りは、たしかになくなっていた。
「どこに向かいますか?」
「まかせておけ」
それまでの法定速度を守った安全なドライブとは、かけはなれていた。
わたしは、生きた心地がしなかった。だけど、スピードを感じることはできないから、どこか他人事だ。
「ははは、おもしろいです! もっと、飛ばしましょう!」
加奈さんは、むしろ楽しそうに男性を煽っている。
事故をおこせば、まちがいなく死ぬ速度だ。
「気に入った! もっと飛ばすぜぇ!」
「うれしいですわ! あなたのことは、なんとお呼びすれば?」
「コモドドラゴンとでも呼んでくれ」
「それでは長すぎるので、コモドとお呼びしますね?」
「ああ」
すっかり、意気投合している。
もっと、コモドドラゴンの意味とか、人格が入れ替わったことを疑問に思わないのだろうか?
「わたしにそれを言うなんて、間抜けですわね」
「あ?」
いまのは、男性──コモドに言ったのではなく、わたしへの言葉なのだ。どういうわけか、疑問だけは加奈さんに伝わる。
「なんでもありません」
車は猛スピードで走り続ける。
後方から、サイレンの音が聞こえた。どうやら白バイに追跡されてしまったようだ。
『前方の車、とまりなさい!』
「とまるかよ!」
コモドは、さらにアクセルを踏み込んだ。
「もっと飛ばさないと、追いつかれますよ」
「追いつけねえよ!」
二人そろって、順法意識のかけらもない。
やめて、とまって、と何度も叫んだ。だけど声にならないから、とんでもない速度で逃げつづけた。
信号無視はあたりまえ、遅い車を追い抜き、あいだをすり抜け、ついにはサイレンの音も聞こえなくなっていた。
逃げ切ってしまったのだ。
速度が許容範囲内にまでさがったことで、わたしはようやく命の危機から脱することができた。
と同時に、いまの人格のコモドこそが、桑島さんたちの言っていた連続殺人犯なのではないだろうか、と考えた。
「ある噂を聞いたんです」
「あ?」
「こういう派手な車で、女性を乗せるんですって。そして、その女性を殺しちゃうんですって」
「ふーん」
コモドは、興味なさそうに聞いていた。
「まさか、あなたではないですよね?」
加奈さんが、核心をついた。かなり危険なおこないだ。だけど、猛スピードで疾走するよりはマシだと思った。
「おれかもな」
コモドは言った。ただし、冗談のように軽い口調だった。
「……もしそうなら、どうするよ」
「わたしを殺します?」
「ふっふふ、どうすっかな」
車が停まった。
周囲は真っ暗だった。いつのまにか、都心からは離れていたようだ。
「ここで殺すの?」
「さあな。でも、こんなとこじゃ、いろいろまずいだろ」
「では、そこまでつれてってくださいよ」
いつもながら、大胆なことを口にしている。
「その場所かどうか知らねえが、まあ、いいだろ」
また走りはじめた。それまでの、目的のないドライブではない。
五分ほどで到着したようだ。
周囲にポツンと存在する邸宅。かなり大きい。その敷地内に駐車した。
加奈さんは、むしろ自分から車を降りて、さらに家のなかへと入っていった。
「そこに座れ」
ダイニングのような部屋に案内された。大きなテーブルに、イスが二脚向かい合うように置かれていた。
わたし=加奈さんは、その一つに腰をおろした。堂々としたものだ。
部屋には、不思議な絵がかけられていた。蛇のような生物が、青い空を飛んでいる……龍だろうか? 空想上の生き物だ。
「いま、なにか入れる」
飲み物を用意するという意味だろう。
しかし、異変は突如としておこっていた。
「う、うう……」
コモドが、またうずくまるように苦しみだしたのだ。
「大丈夫ですか?」
加奈さんの呼びかけからは、いたわる気持ちが伝わってこなかった。しかしそれは結局、自分の口から出されたものなのだ。
「に、にげ……」
コモドの声は、途切れてしまった。
にげ……。
逃げろ?
「コモドさん?」
「……」
「大丈夫ですか、コモドさん?」
「ここは……」
コモドは、状況を理解していない。
また人格が入れ替わったのだと、頭がはたらいた。というより、もとにもどったのではないだろうか?
「ここは、あなたのお家ではないですか? 村石さん」
冷静に加奈さんが指摘する。
「そうです……」
「あなたは、多重人格のようです。俗にいう解離性同一障害ですわ」
多重人格のほうが、俗に、ではないだろうか?
「まあ、そうですわね」
「……ぼくが? まさか、そんなことはないですよ」
加奈さんは、わたしの疑問に対して言葉を返したのだろうけど、正気にもどったコモド=村石さんは、そのまま流してしまったようだ。
「……」
村石さんは、室内を見回すように視線を動かした。いえ、ちがう……なにかを考えているのだ。
混乱しているのだろう。だが、多重人格ということは信じていないようだ。
「……お客様がいるのに、飲み物も出していませんね」
偶然なのか、コモドのやろうとしていたことを引き継ぐことになった。しばらく姿が消えて、二分ほどでもどってきた。トレイの上に、カップを二つのせていた。
加奈さんは、そのあいだも落ち着いて座ったままだ。
「どうぞ」
出されたカップを口に近づける。
でも、飲まなかった。
「どうしました?」
向かいに座った村石さんが言った。
「いえ、なんでもありませんわ」
加奈さんは、飲み物を喉に流し込んだ。わたしに味はしなくても、紅茶だということはわかった。
「で、これにはなんのクスリが入っているんですか?」
え?
加奈さんは、恐ろしいことを口にした。この紅茶にクスリを盛られていたのなら、なぜ飲んでしまったのだろう……。
「……ここに来てしまったからね。かわいそうですけど」
「車に乗せた女性を殺しているんですか?」
わたしは、緊張した。
ということは、もとの人格のほうが連続殺人鬼だったことになる……。
紳士的だと感じたけど。
「なんで、わたしたちのことは殺そうとしなかったんですか?」
「たち?」
わたしたち──というところに引っかかったようだ。いまの村石さんは、加奈さんとわたしが入れ替わっていることを知らないのだ。
「なんのことを言っているのかわからないよ。ぼくが殺したのは……」
村石さんは、そのさきを言わなかった。
「いままでに、何人殺したんですか?」
加奈さんは、怖がることなく追及していく。わたしも聞きたいことだけど。
「人数が重要なことかな?」
声だけを聞いていると、冗談かと思える。
「殺した人は、どこに?」
「ここの庭で眠っているよ」
周囲にほかの住居はなさそうだから、発覚していないのかしれない。土に埋めれば、匂いもごまかせるはずだ。
「ここって、どこでしたっけ?」
加奈さんは、質問した。
「家じゃないんだよ。アトリエでね」
「アトリエ? 絵でも描いてるんですか?」
「描いてるよ、心のなかでね」
「まあ、詩人ですのね」
「ところできみは、どうやってここへ来たの?」
この男性は、本当にコモドのことは知らないようだ。
「ある人に招待されたんです」
加奈さんは、そういう答え方をした。
「車で送ってもらったので、ここの地名はわかりません」
「……地名なんて、どうでもいいじゃないですか。もうすぐ、きいてくるころです」
「……」
どうしたんだろう?
わたしに自覚はないけど、加奈さんがしゃべりづらそうにしているような……。
「痺れて……」
わたしは睡眠薬を想定していたけど、ちがったようだ。
「もうじき動けなくなる。だけど、意識は残ったままだよ」
「う……」
もう加奈さんは、しゃべれなくなってしまったようだ。
これは、非常にマズい状況だ。
わたしがどうにかしたいけど、この期におよんでも、身体の主導権がもどらない。
もどして!
もどして!
4
「どうですか?」
「周囲にはいませんでした」
店のまわりを結城と何人かの男性警察官にさがしてもらった。
「やっぱ……また危険なめにあってるんじゃ……」
夏美の言葉に、桑島も同意したい気持ちだ。
「吉原さんの携帯の位置をすぐに調べてください」
この場にいるのは、ほぼ警察官だ。捜査一課もいるし、べつの部署もそろっている。管理官の任についている佐野もいるから、権限もある。
すぐに警視庁本部に連絡をして、在庁組が調べてくれるはずだ。必要とあらば、生活安全部のサイバー犯罪対策課に応援を頼むこともできる。二四時間体制で勤務しているのだ。
都内を移動していることがわかった。さらに店の防犯カメラを確認させてもらって、ひよりが裏口へ向かったことをつきとめた。
「裏の路地から幹線道路に合流する地点に、Nシステムがあります」
交通部にいる男性警察官からの助言で、それも調べてもらった。噂を信じて、赤い車にしぼる。
結果、埼玉県内に住んでいる男性が浮上した。この店のオーナだった。
「うちの本部に連絡します」
ここには、埼玉県警の一条もいるのだ。
迅速に、最寄りの警察署から人員が送られた。
桑島と結城も、オーナーの自宅へ急行した。
桑島はアルコールを飲んでいないので、自分の運転だ。その途中で、電話がかかってきた。ひよりからだ。
「吉原さん!?」
かわりに結城が出た。
「吉原さん!? ひよりさん!?」
通話できる状況にないのだろうか?
「警視、なんだか会話してます……」
スピーカーにしてもらった。
『で、これにはなんのクスリが入っているんですか?』
ひよりの声だが、ひよりでないことが桑島にはわかる。加奈だ。入れ替わているのだ。
「なんだか、ヤバそうですね……」
結城の言うとおりなのだが、加奈のことだから、どうにか逃げる方法を考えているはずだ。
「いえ、ですから……この電話が、突破口なんじゃないですか?」
結城にそれを伝えたら、そう言い返された。焦りがわいてきた。
『いままで、何人殺したんですか?』
『人数が重要なことかな?』
『殺した人は、どこに?』
『ここの庭で眠っているよ』
恐ろしい告白が、車内を満たした。あの噂は本当で、しかもそれをひより──加奈がさがしあててしまった。
「あとどれぐらいでつきますか?」
「どうでしょう……道路はすいてるから、三十分、いえ、四十分ぐらいだと」
それでは間に合わない。
一条が手配してくれた埼玉県警の捜査員は間に合うだろうか?
『ここって、どこでしたっけ?』
『家じゃないんだよ。アトリエでね』
アトリエ?
「自宅ではないのかもしれない……」
「警視?」
「結城さん、車の所有者が、自宅とはべつに所有している物件があるのか調べるよう、佐野に伝えてください。あと、携帯の位置情報も、もう一度確認するように言ってください」
「わかりました」
自らの携帯を取り出して、連絡をはじめた。
だがいまはとにかく、住居のほうに向かうしかない。
「え? は、はい……わかりました。東京都でいいんですね? はい、はい、そこなら近いところまで来ています」
「どうしました?」
「管理官は、すでに調べてくれていました。所有者の村石雅夫は、親から多額の遺産を相続しているみたいです。土地や建物もいくつかあったようで、現在でも所有している土地がこの近くにあります。それと、ついさきほど白バイ隊員が、スピード違反の車を追跡したようなんですが、そのナンバーが村石雅夫の車と一致しています。この近くです!」
それはさいわいだ。
「次の信号を左折してください」
カーナビをみつめながら、結城が指示を出す。
結城の携帯に着信があった。佐野からだろう。
「はい、そうですか、わかりました──警視、携帯の位置情報も、そこになってるみたいです!」
「あと、どれぐらいかかりそうですか?」
アクセルを踏んでいるのは桑島自身だが、そう質問した。
「十分かからないと思います」




