飯野伊津男の長い日曜日・午後
テスト一日前にして、姉貴とオヤジと西橋の三人に囲まれて勉強中。
できるわけがない。一人スキルは真の孤独の時に発揮されるものであり、こんな知り合いに囲まれた状態でどうにかできるのは単純に無我の境地に至った者のみだ。
「……変わってないな」
ぽつりとオヤジが呟いた。
いや変わってるからね? 一回ゴミ屋敷になって元に戻っただけだからね? お前が知らないだけだっつーの。
こいつらの一挙一動が癇に障る。
出る言葉の一言一句が癪に障る。
生きる上で家なんか必要ないと思ったのが彼女らならば、俺は家族を必要とせずにここに残ったというようなものだ。
だから合わないのだろうか? それとも単純に嫌っているだけだろうか。
気になるのは姉貴が何を語ろうとしているかだ、だがそれもいずれ分かる。
「じゃあちょっとアニメを見てくる」
日曜の夕方、もう言わずもがな。
だが時悪しく、玄関戸が開く音はその時になったのだ。
瞬間に心臓がバクバクと音を立てる。
「ただいまー……あら、お客さん?」
「……利津子」
オヤジの低い声が、母さんの動きを止めた。
「……光男さん?」
全員、揃った。
揃ってしまった。
「…………」
緊迫した空気から察するに、母さんは普通の状態らしい。
凍り切った空気を、姉貴が解凍する。
「じゃあ、父さん、母さん、私の話、聞いてくれるかな?」
普段俺と喋るようなふざけた態度と違い、笑顔だけど、有無を言わさぬ迫力があった。
予め姉貴の提案に了承していたオヤジはそれに無言で肯定し、母さんも黙って座った。
「ほら、伊津男も」
姉貴がぽんぽんと隣に座るように床を叩く。
席順は母さんと父さんが向かい合い、姉貴と火奈が向かい合って、という状況だから、今はそれに従っておく。
母さんの隣は、今は危険そうだ。
「じゃあ、何から話そうかなー。とりあえず、伊津男には黙って聞いててほしいんだけど」
「なんで俺だけ?」
「色々ワケあり。そこは後で教えるから、お願いね?」
隣でそんな化け物に頼まれたら誰だって喋れなくなる。
緊迫した空気の中で姉貴だけが平然と話を始める。
この状況でのらりくらりとした態度をするだけ、まるで世界を支配する力を持っているようだ。名付けよう……ワールド、ザ・ワールドだ!
「私が大学一回生の時、家庭教師のバイトをした時のこと、憶えている?」
――本当に正気を疑った。
「その時に中学生のね、まあ名前はあえて出さないけど、行ったときに、まあ例の事件が起きたわけよね」
憶えている? なんて生易しい表現を使うな! 誰が忘れるものか! この家の、これに関わった奴がどうしてお前の罪を忘れるのか!?
激情に駆られ、沸々と血が泡立つのを感じながら、俺は獣のように息を吐いた。
「あれね、私やってないの」
……しばらくみんなが黙っていても、姉貴が何も言わないから、俺が首元を掴んだ。
「どういうことだよ?」
「ちょっと、伊津男は黙っててって」
「どういうことだって聞いてんだよ!!」
「落ち着け! 伊津男!」
「テメェが名前で呼ぶんじゃねえ糞野郎!」
誰が俺に命令口調で話すのか、何故そんな権利があるのか。
許されないだろ、常識的に考えて。
そもそもそれどころじゃない。
「やってないならなんで捕まってんだよ!」
「それ、ちゃんと説明するから待って。息荒いよ」
姉貴がゆっくりと俺の頭に手を伸ばすが、俺はそれを払いのけた。
おさまりがつかない。ただ腰を降ろして話を聞く気分にはなれなかった。
それでも、なんとか震える腕を収めて、俺は立ったまま姉貴を見下していた。
で、姉貴はオヤジと母さんに向けて話を再開した。
「……そのさ、私真面目に先生とか、そういう仕事したかったんだ。理由は色々あるけど、こう、未来ある若者の成長を見届けたい、って感じで」
そんな風に言う姉貴は、妙に女らしかった。少なくとも普段俺が知っている姉貴ではない。
「でさ、その子に襲われた時さ、どうしたらいいかわかんなかったんだよね。でも通報とか、悲鳴を上げるとか、そういうことしたら、その未来が潰されちゃうんじゃないかなって……」
姉貴はかろうじて笑顔を保っているが、涙声は徐々に小さくなっていく。
「こんな……ことになるって……思わなかったから……」
「……闘華」
オヤジがぽつりと呟いた。
悲しげな、後悔のこもった小さな一言だった。
――ふざけるなよ。
そんな言葉が俺の中によぎった。
母さんは凄い勢いで爪を齧っている。
ふざけるな、ふざけるなよ。ふざけんな!!
「それがどうしたってんだよ?」
「……ごめん」
姉貴が小さな体を、もっと小さくして謝った。
「謝んなよ! それがどうしたかって聞いてんだよぉ!」
「伊津男!」
「うるせえ! オヤジは黙ってろよ! 全部捨てて逃げた癖に……」
「ちょっとあんた……」
言いながら立ち上がった火奈を一睨みすると同時に、背中から腕が回ってきた。
「伊津男……」
母さんの言葉が、すぐ後ろから聞こえた。
「闘華ちゃんを、許してあげて……」
不意に力が抜けた。
まるで薬を仕込まれたみたいに、ぱたっと足が地面について、尻もちをつくみたいに座り込んだ。
なんで。
一番つらかったのは母さんじゃないか。
姉貴のせいで近所から迫害されて、オヤジにも逃げられて、俺と姉貴だって母さんのことを疎ましがったりしたし、危険物扱いしてた。
「どうして、母さんは怒らないんだよ……」
目頭が熱くなった。
それじゃ駄目なんだよ!
怒らなくて、ため込んで、皆のために自分を犠牲にして!
そうして母さんは今みたいになったんじゃあないか!
さっきの姉貴の話が事実だとしても、嘘を吐いた姉貴が悪い!
どんな状況でも逃げ出して、愛人を作ったオヤジが悪い!
息子なのに、母親を蔑ろにした俺だって悪いさ!
でも母さんは何も悪いことをしていない! 耐えて、耐えて、耐えきれなかっただけだ!
「母さん……」
「……分かってるから」
優しい手が、俺の頭をゆっくりと撫でた。
分かってるって、何を分かっているんだよ?
背中に伝わる暖かな温もりは遠ざかる。
まるで幸せを手放すかのように。
そのまま立ち上がった母さんは、卓袱台の向かいにいた父さんをぶん殴った。
い、今起こったこと? あ、ありのまま今起こったことを話すぜ!
ちょっと詩的な表現を交えつつ母の無力を嘆いていたら、その母さんはグーパンを剥げオヤジに食らわせていた。
何を言っているか、っていうかもう何が起きたかを俺ですら理解できていない。さっきまでの緊迫した空気とは別の、奇妙な緊迫した空気がこの場を取り巻いていた。
姉貴も火奈も呆然としている。オヤジなんて乙女みたいに自分の頬を触りながら母さんを見ていた。
その母さんは、これでもか、というくらい、満面の笑顔を浮かべていた。
そして、深々と溜息を吐くと、一喝。
「光男ッ!!」
一瞬、伊津男って呼ばれたかと思ってびっくりするくらい、ビックリした。
「な、なんだ!?」
焦ったオヤジは本当に社会に疲れたサラリーマンっぽいから見てて辛い。
「どうするの!?」
こんな剣幕、人生で初めて見たよ、母さん。
「どうするって、何を?」
「これからの生活」
勢いに任せて放たれたかのような言葉は、けれどこれからの生活の全てを一変させかねないほど特別なものだった。
それにはみんな気付いたらしくて、事の成り行きを、そしてオヤジをじっと見つめていた。
「……また、みんなで暮らしてもいいのか?」
そうオヤジは言った。
「私は、そうしたいわ」
母さんはそう言うと同時に、俺と姉貴を見た。
「私はっ! 伊津男に任せる。伊津男がしたいようにしてほしい」
こんな空気で任されても。
だが俺は、こんな空気で任されようと、自分の気持ちには正直な男だ。
「姉貴、一つ聞いていいか?」
「それ、できれば二人きりの時に話したい内容だと思うんだけどちょっと待ってくれない?」
「駄目だ。今ここで話す」
「…………」
こういう場面に置いて、無言とは無抵抗であり降伏である。つまりなされるがまま。
「俺が小三の時、俺を襲ったよな?」
「…………」
俺もドギマギしながら、オヤジと母さんを見た。
二人とも、母さんがオヤジを殴った時みたいな反応をしている。
「……さっきの私の言葉が真実であることを証明するために、それは否定しない」
「否定しないじゃねえよ。お前それで信用されると思ってんの?」
「むしろ逆よ! 伊津男のことがあったから、私はそれからは健全になろうと……」
「ちょっと闘華ちゃん?」
母の圧力に、姉貴は押し黙った。
「闘華、それは本当か? 兄弟だというのにお前はなんて……」
「オヤジは黙って。ひとまず家にいることは許可してやる。けど気に食わなかったらどうとでもしてやるからな」
俺は堂々と言い放つことにした、つまり、ひとまず家族で暮らすことを認めることにした。
叱られる姉貴とがみがみ言う母、そして安らかな表情を浮かべて救われたみたいになっているオヤジ。
その中で、うかない表情の火奈が少し目立った。
オヤジはカプセルホテルとかに荷物とか色々置いてあるらしくて、急ぎそれを持ち帰るために移動した。
姉貴はまだ散々に怒られているので、母さんに叱られて号泣しているところで、その間に火奈が帰ると言い出したところである。
ま、この状況だと帰るのは当然だが、さすがにそれを一人で帰らせるほど俺も子供じゃない。
家まで送ろうとも思わないがね。
「待て待て、高校一年生が一人で帰るもんじゃないよ。近くまで見てやろう」
時間は、そうは言っても六時ちょっと。でも四時五時くらいに変質者が出ることもあるからね。
「んー、それもありかな」
「なんのこっちゃ?」
「別に」
明らかに元気のない様子で火奈は呟き、ゆっくりと移動を始めた。
「ま、良かったじゃん、あんなクソオヤジ相手にしなくて」
「そうかもねー。年の差もあるし、色々ね。先に死なれるのも嫌だし」
「そうそう。いざって時に逃げ出すし」
「……うん」
「……じゃあもっと嬉しそうにしろよ」
自分でも、棘のある言葉が出たことに驚いた。
ましてや火奈は俺以上に驚いたらしく、目をぽかんと開けている。
なんだかそれが急に恥ずかしくなった。
「いや、違うねんて。なんかさっき暴れてたから言葉が物騒になってるんだな。悪い悪い、口は災いの元だな、うん」
ちょっとふざけて言うと、火奈も軽く笑った。
「そうねー。でも、やっぱり元気なさそうかな、私?」
「おう。しんみりしてるぞ」
そこまで言ったら、火奈は急に黙りこくった。
ただ歩みだけが進んでいく。
俺は火奈の家がどこかは知らない、けれど急に立ち止まって彼女は言うのだ。
「……でも、良かったよ」
そう言って走り出す彼女を俺は見送った。
藤は、火奈がちゃんと反省のできる子だと言っていた。
それは、自分が間違っていると判断できて、自分が正しいって確認ができるってことだ。
彼女が良かった、というのなら、きっとこれで良かったのだろう。
「だったら、そんなに悲しそうにすんなよ……」
俺には分からない。本当にこれで良かったのか。
少なくとも、火奈が本当に良かったとは思えない。
「遊びに来てもいいからな!」
俺はそれだけ大きな声で言った。
火奈は立ち止まらずに走り続けていた。
俺はその姿を、そうそう簡単に忘れることができないだろう。
ま、実質最終回みたいなもんですよ




