飯野伊津男の長い土曜日・午後・ザ・ラヴ
土曜日の昼下がり、なのに俺の日常は穏やかではない。
普段は一人で、しかもテストが一日終わってまだ残っているにも関わらず、教科書もなく、家には藤と海棠がいるという状況。
「なあ藤、教科書見せてくれよ」
「近寄らないで、臭い」
俺は今死んだ。
男にとってハゲと臭いは禁句であるらしい。実際俺は言われないからそれが事実かどうかを知らなかったが、今物凄く辛い。
どんよりと暗い気分のままの昼下がり、お袋にしくしくと語っていると、ついにチャイムが聞こえた。
母も少し会話ができるようになってきていて何よりだ。こうして我が家に平穏が戻ってくるのだろう。
……チャイムが連続でピンポンピンポンと続く。ピンポンはまだ見てないので勘弁。
「はい、誰ですか?」
「牛山です」
「はーい」
俺は鍵を閉めたまま、返事をして中に戻る。
直後、やはり扉にはガンガンガンと衝撃を加える音が響く。
「分かりましたから扉は蹴らないでください!」
思わず敬語を使ってしまうレベルだ。だって牛山のそれは海棠のよりうるさくて衝撃が酷いんだもの。
家に四人も人を呼ぶのは初めてだ。だってほら、大体のゲームが四人用だしね。
でもって、勉強道具のある四人が座って、俺は卓袱台から外されていた。
……なんかさー、なんでだろうなー。
ここ、俺の家だよ? オヤジも消えてお袋もヤバイ状況、まさしく俺の所有物。
キヨが心配してくれたり、読書ちゃんに好かれたり、けんとくんと仲良くなったりで主人公ロードまっしぐらで、少し調子に乗っていた俺も思わず反省。
やっぱり俺はクズなのか!? 消しカス君か!? ビチグソに集まる蛆虫なのか!?
なんかもう自分に自信なさ過ぎてやっぱショタバンザイってなりそう。助けてヒーロー。
「……あのゲッツー様、教科書を見せてくれないでしょうか?」
「えー、どうしよっかなー」
牛山はにやにやして藤と目を合わせている。
もう分かったぞ、女子は俺が勉強できないように計画しているのだ。
平均点下げるためか? そんな小さな努力しやがって!
しかし、栗林も色々ノートに書いたり、読んだりしている。
ついに真面目にやる気になったのだろう。その姿を見ても特に感動とかはないが。
藤と牛山に教科書見せてと言ったけど、海棠と栗林に言う気はない。
無論、俺が女たらしだからでは、決してない。
栗林にものを頼むってそもそも論外だからね。マジでありえない、マジで。
で海棠はなぁ……、藤がいるから頼みづらいんだよなぁ……。この複雑で微妙な想い、きっとみんなも分かってくれると思う。
きっと海棠は頼めば見せてくれるだろう。
っつかさっきからチラチラと心配そうにこっち見てるんだよ。んだよ、見破って欲しいのか? 淡い期待に胸溶かしてんのか?
こちとら世間体とテストの点以上に藤の視線を気にしてんだよ……。
四人が勉強する姿を俺は立って見守る。
やがて、栗林しか俺をチラチラ見なくなった。
牛山と海棠も途中までは俺のこと見てたんだが、さすが優等生とでもいうべきか、勉強に一段落でもしない限りはがっつり集中している様子だった。
藤に至っては、栗林と牛山が来た時くらいから全然俺を見てない。これっていじめだよね?
「……俺、上の部屋行ってきていい?」
「任せるー」
藤の無関心な声が心を貫く。なんじゃこの子! 俺をどうしたいんだ!?
思わず溜息が零れ、とぼとぼ上へ足を向かわせたところで、もう一つ声が出た。
「それより、勉強しね? 一緒によ」
栗林からそんな言葉が出るとは、誰も想像していなかっただろう。
俺はそれにこたえられなかった。
なんか屈辱的だから!
「……なんで鎮まり返るんだよ!」
栗林が笑って叫ぶ。誰も何も言わなかったからだ。
海棠は普段から無口だし、藤は待ったんだろう。
でも牛山がずっと黙ってたってのは、やっぱり驚いたからなんだろうね、はっきり分かる。
勉強か。……こいつに頼るのはやっぱりなぁ。
どうしようどうしよう、この一週間は実際あんまり勉強してないし、こいつらが遅くまで残ってたら勉強不足になっちまう。
明日に月曜日の勉強をすれば、月曜日に火曜日の勉強を、という連続一夜漬け戦法ができなくもないが、リスクが高すぎる。
ここでプライドか、成績を取るか。
プライド……、夜が明けたら戦うもので、迫りくる壁もいつか乗り越えるもの。今ではない。ということで明日に渦巻く嵐を越えて追い風に乗っていきます。
「いや今日はもう遊んどくわ」
逃げたのではない、戦略的撤退だ。
というわけで俺は四人をそこに放置して、一人上の部屋へとこもることにした。将来ボーマンダ。
これでいいのさ、これで、俺は。
俺が家に呼んだわけでもない、盗まれて困る物もない。
だったら家の中で自由にしてもらっても構わない。
ころんと寝転がり、のんびりと惰眠をむさぼる時間。
テスト期間ということもあり、胸の中がざわつく。
けれどそれ以上の違和感は、やっぱり下に四人がいるからなのか。
「本、読も」
誰もいないのに、つい呟く。寂しくなんかないんだからね! ホントだからね!
果たしてこれも現実逃避なのか、けどすることがなければ読書するのはいつもの俺だ。
普段と状況が違うだけで、自分の行動の真意も分からなくなる。
下に降りてもこのままでいても間違っているような気がする。どうしたらいいか分からない。
人間なんてそんなものだ、全部間違っているといってもおかしくはない。
アレだよ、うん、前も言ったと思うが、間違っているか正しいかなんて後世の歴史家が決めることなんだよ。
だから俺は、今、俺が正しいと思うように行動するだけだ。
刀の十一巻読も。
ラブコメ見て嫉妬したりキュンとなったり、ファンタジー見てドキドキしたり呆れたり。
ホラーを見て嘲笑したりヒヤッてしたり、コメディー見て笑ったり溜息出たり。
創作物はどんなものでも善悪問わず人に気持ちを抱かせる。
たった一つの作品なのに、キュンとしたり、ドキドキしたり、ヒヤッとしたり笑ったり、そして泣いたりできる、そんな素敵な作品です、刀。ステマじゃないよ、お金もらえないし。
まあ普通に十二巻も読んでから逆にちょっと一巻も見返して気付いたら三時間くらい経ってるレベルの作品だった。人間、どんな些事も厄介事も忘れようと思えば忘れられるものだ。
下ではまだ四人とも勉強しているのだろうか? 無言で帰るとは思えないけど。
気になったから降りてみることにした。別に喧嘩しているわけじゃないから、様子見だ。
階段はきいきいと音が鳴るので、降りてくることはみんな分かっていただろう。
気になったのは、海棠組の三人が異様な目つきで俺を見つめてきたことだ。
いや普通は俺のことを見るだろうが、その目がどうにも奇妙なほど注視している。まるで俺が偽物であるかと疑うようだ。もしかして俺が二人目だったとか? その場合は一人目はドッペルゲンガーかルパンだ。
「どした、そんなどえらい顔して」
「い、いえ、別に……」
牛山がさっと顔を反らすと、栗林と海棠もそれに倣う。なんだこの空気。
藤は変わらず勉強している。ははぁ、さては藤が何かしましたね。
「いったい何の話してたんだ?」
「別に何もしてねえってば! なあ櫂斗!」
栗林が栗林らしく他人に同意を求めている。こいつはいつも付和雷同。
意見を求められた不動の海棠は、俺を訝しげに見つめてきた。
「藤芳乃は、そんなにいいのか?」
なんじゃその意味深な質問。
「もう少し詳しく説明してくれ。なんでそんな話になるんだ?」
尋ねてみると、三人は意味深に顔を合わせ、残った藤だけがいつの間にか汲んだお茶を啜って、その衝撃の事実を告げた。
「私と伊津男くんが将来の約束をした話をみんなにしたの」
思い当たることがないが、そういえば秘密の暴露をされかかっていたと思い出す。
そうだ、我が家の事情とかオヤジの愛人についてのことをこのメンバーに話す、と言っていた。
が、それはどっちも藤と関係ない話だ。リアクションがおかしい。
将来の約束?
「なんだそれ、結婚するみたいな」
「え、しないの?」
まだ藤の言っていることが、いまいち要領を得ない。
え、なに? 俺と藤が結婚するの?
「なんかよくわからんけど、もしかして今、ものすごく衝撃的なこと言ってない?」
「結構前に言ったけど……覚えてないの?」
「それっていつぐらいよ」
「部活入るよりも前で、伊津男くんと喋り出すようになってすぐぐらい」
そう言われて、ようやく思い出した。
屋上付近の階段で明るい家族計画について語られたことがあった。
あの時は俺の家庭環境とか、今よりも仄暗い性格だったからすっかり忘れて鬱になってたような気がする。
「あれか? あの、養子をとりましょうみたいな」
「それそれ! なんだ覚えてんじゃん! もー、心配させないでよー。嫌われたのかと思っちゃった」
藤は明るく笑いながらお茶をもう一口飲んだ。
一方、俺はガタガタと腰を抜かして、死んだばあさんをみた爺さんみたいになっていた。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ……」
「どうしたの、死んだお婆さんを見たお爺さんみたいな反応して」
そんなところでシンクロしなくていいよ! あの冗談じみたプロポーズをどれだけ意識しているかどうかをシンクロさせてくれ!
それはあれか? 我が家にGが大量に出たから阻害されたのか、そうに違いない!
「ちょっと待て! あれを本気で受け取っていいのか!? 俺はてっきり姉貴のことを知って何かしら近づくために甘い罠をぶら下げたとばかり思っていたんだが!?」
「えー? 相変わらずネガティブで暗いなぁ。素直に受け取ろうよ、そこは。疑うよ? 愛を」
「それは疑わなくていいよ! でも結婚て、結婚て、俺は正直今みたいな暮らしがずっと続いてぽっくり死ぬと思ってたぞ……」
過去、妄想でそんな生活をしてみたこともあったが、五分と経たずに限界が来たものだ。
それが今、現実に……?
「だからご近所づきあいとかもちゃんとしてよね?」
「みんなよろしく!!」
藤が言ってたちまち俺は海棠と栗林の肩を掴む。掴みはバッチリ。
「私が楽しめないから」
「ご近所づきあいを求める理由はそれかよぉ!?」
そんなこんなで。
俺も海棠に勉強混ぜてもらって、その日は解散することになった。
夕暮れで真っ先に家を出た牛山の金髪が煌めく。
「それじゃあね。おめでとう、いっつん」
「おー。牛山も海棠によろしく」
「すぐそこにいるんだから言わんでよろしい!!」
まるでギロチンのように振り下ろされた巨木の一撃を俺は運よく躱す。
だが油断するな、今のは偶然、偶然拾った命に過ぎないのだ……。
「おう、羨ましいぜコンチクショウ!」
「あのな栗林、お前はまだテストの結果が出てないからなれなれしくすんな」
後から来た栗林に正直な意見をぶつけると、あいつは相変わらずヘラヘラしながら牛山を追って家を出た。
間抜けな少年ってのは可愛いが、あの年で馬鹿だと救いようがない。せいぜい命を無駄に散らさないように。
海棠と藤は何故か並んで家を出る。二人ってなんだかんだで一緒にいることが多くて、不安。
「……じゃあな」
「うーい」
相変わらず無口だが、今日は含みのある雰囲気だった。
「じゃねー、サラダバー」
「待って藤」
こっちも相変わらず、へらへらふざけているけど、俺は真剣に呼び止めた。
「本気、なんだよな?」
「あんまりくどいと清の女になっちゃうぞ?」
努めてぶりっ子っぽく藤は言うが、俺は黙って藤の目を見続けた。
今は、そういう冗談は求めていないのだ。
「なあ、藤」
「くどい」
冷たく切り離すと、言葉とは裏腹に藤は俺を抱え込むように背中に腕を回し、体をぐっと押し付けた。
少しでも近づけば、唇が触れてしまいそうな距離。
なのに体は、むしろ芯から冷えた。
それくらいに、鋭く、冷たい目だった。
「私は踏ん切りをつけたの。だから後は伊津男くん次第。私は、どっちでもいいかもね」
藤の目から、俺の目が逸れる。
怖いからじゃない、藤の顔が俺の死角に入ったのだ。
頬と頬とが触れ合う。
「でもね、やっぱり私には伊津男くんしかいないよ? そうなんだよね?」
冷たくて、冷たくて、けれどその言葉だけは心に染み入った。
「――ああ、きっとそうだ」
俺には、この人しかいない。
絶対そうだ。




