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第五十七話:偽りの知恵者、鋼の鉄路

西暦六二六年。

「……私の名を騙る者が、都にいるというのですか」

北方工廠の司令室。鎌足は、自らの名が記された密書を手に、珍しく感情の動揺をその瞳に宿していた。彼の指先が、見覚えのある……しかし、自分とは決定的に異なる「傲慢な筆致」をなぞる。

「ああ。飛鳥の連中も必死なんだろう。中臣鎌足という稀代の策士が、蘇我の跳ね返りと『未来の工匠』に味方したなんて事実が公になれば、朝廷の権威は地に落ちるからな」

入鹿が、熱い茶を啜りながら皮肉げに笑った。

しかし、私――大江の心境は穏やかではなかった。私が知る歴史において、中臣鎌足は入鹿を討つための知略の象徴だ。その鎌足がこちらにいる以上、歴史は「入鹿を討つ者」を別に用意したに違いない。それが偽物であろうと、あるいは別の名を捨てた男であろうと、そいつは私たちの「理(科学)」を最も理解し、最も恐れているはずだ。

「……鎌足殿、心配はいらない。誰が名を名乗ろうと、あなたが私たちのために振るってくれた知恵と、これまで共に歩んできた事実に変わりはない」

私は、書き上げたばかりの新しい地図を机に広げた。

「偽者が現れたのなら、本物の仕事を見せつけてやればいい。……飛鳥までの鉄路、第一段階として『白河ー下野ライン』の敷設を開始する。これこそが、偽りの言葉を粉砕する、最も重く、力強い事実になる」

工廠の外では、春の陽光を浴びて、数千の民が動き出していた。

彼らはもはや「農民」でも「難民」でもなかった。測量技術を学び、鋼の扱いを覚え、蒸気機関の保守を担う、この国で最初の「産業市民」である。

「……大江様。レールの鋳造、今日だけで百本を超えました。岩吉たちが、高炉の温度管理をさらに改良し、不純物を極限まで減らした『強靭鋼きょうじんこう』を打ち出しております」

報告に来た若い職人の顔は、誇りに満ちていた。

私たちは、陸奥の山々を削り、谷に橋を架け、一本の鋼の道を南へと伸ばし始めた。それは、軍勢が通るための道ではない。富を運び、知恵を繋ぎ、この国の形を根本から作り変えるための、新しい血管だ。

入鹿は自ら「双星零号」の運転台に立ち、資材を運搬する先頭に立った。

真っ黒な煙を上げ、大地を震わせる鉄の馬が、昨日まで道もなかった原野を時速三十キロで突き進む。その光景を目にした沿道の村々では、人々がひれ伏し、やがて歓喜の声を上げて線路脇に集まってきた。

「……大江殿、見てください。人々は、恐怖ではなく、期待でこの鉄の馬を迎えています」

鎌足が、車窓から流れる景色を見つめながら呟いた。

「……飛鳥の偽者は、言葉で民を縛ろうとするでしょう。しかし、あなたは事実で民を解放している。これこそが、中大兄皇子が最も恐れていた事態です」

鉄路が白河を越え、下野の平野に差し掛かった頃。

前方に、奇妙な一団が立ち塞がっているのが見えた。

武装した兵士ではない。それは、白い装束に身を包んだ数百人の「僧侶」と、その中央で豪華な輿に揺られる、一人の男だった。

「……止まれッ! 鋼の怪物を駆る逆賊どもよ、止まれ!」

入鹿が緊急ブレーキを操作し、零号機が激しい火花と金属音を立てて停止する。

私は入鹿と共に、運転台から大地に降り立った。

輿の中から現れたのは、見目麗しいが、その瞳に冷酷な計算を秘めた若い貴族だった。彼は、私の隣に立つ鎌足を一瞥すると、嘲笑を浮かべて扇を広げた。

「……お初にお目にかかる、大江殿。そして……我が名を騙る、陸奥の逃亡者よ」

男は、自らを「中臣鎌足」と呼び、懐から朝廷の正式な宣旨せんじを取り出した。

「天子様は、陸奥の技術を高く評価されている。ゆえに、この私が『技術総監』として、その鉄の馬と工廠のすべてを接収することとなった。……さあ、その理の鍵を私に渡しなさい。そうすれば、お前たちの命だけは助けてやろう」

「……笑わせるな」

入鹿が刀の柄に手をかけた。

「本物の鎌足はここにいる。お前のような、油の匂いも知らねえ優男に、この鉄の馬の何がわかるってんだ!」

偽物の鎌足は、表情一つ変えずに答えた。

「……わかるさ。これは、民を惑わす『力』だ。ならば、その力を正しい支配者が管理するのは当然のこと。大江殿……あなたが未来から来たという噂、私は信じていますよ。だからこそ、その知恵は私という『器』に注がれるべきだ」

私は、男の背後に控える僧侶たちが、隠し持っている「あるもの」に気づいた。

それは、私たちが初期に廃棄したはずの、未完成の火薬筒の設計を模倣した、原始的な「爆裂矢」だった。彼らは科学を理解しているのではない。ただ、破壊の道具としてそれを模倣し、権力の強化に使おうとしているだけだ。

「……あなたの名は、歴史にどう刻まれたいのですか?」

私は静かに問いかけた。

「……名など、勝者が後から書き換えればいい。大江、お前の創ったこの鉄路は、今日から私が『都への献上品』として完成させる」

西暦六二六年、春。

鋼の鉄路は、白河を越えた。

しかし、その行く手には、私の知る「歴史」がその姿を変え、牙を剥いて待ち構えていた。

本物と偽物。科学と模倣。

二人の鎌足が火花を散らす、この国の命運を賭けた「知恵の戦い」が、今ここに幕を開けた。

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