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第五十六話:光の防壁、闇に潜む影

西暦六二六年。

陸奥の地に、春を待つ微かな土の匂いが漂い始めていた。北方工廠を包んでいた分厚い雪は、蒸気機関から排出される絶え間ない熱によって足元から溶け出し、無数の水路となって谷へと流れ落ちている。しかし、工廠内に流れる空気は、春の予感とは裏腹に、かつてないほどに研ぎ澄まされ、冷たく張り詰めていた。

「……大江、配置についたぜ。工廠を取り囲む四つの櫓に、お前の言った『光の巨眼』を据え付けた。岩吉たちが不眠不休で磨き上げたあの巨大な凹面鏡……あれが本当に、闇を切り裂くのか?」

入鹿が、革製のグローブを締め直しながら私に問いかけた。彼の背後には、巨大な木製の櫓がそびえ立ち、その最上部には、銅板を極限まで研磨して銀を蒸着させた、巨大な反射鏡ユニットが設置されている。

「ああ。原理は単純だ。焦点に設置した強力なアーク灯の光を、鏡によって一方向に束ねて照射する。二十一世紀では『探照灯サーチライト』と呼ばれていたものだ。……唐の術士とやらが、煙や闇に紛れて近づこうとするなら、この理の光でその正体を暴き出してやる」

私は中央制御盤のレバーを握り、自作の直流発電機の回転数を確認した。水力旋盤を回していたあの滝の力は、今や電磁石の間を回転するコイルを通じて、「電気」という目に見えぬ力へと変換されている。

鎌足からの報告によれば、唐より招かれた術士の一団……通称「影縫かげぬい」は、すでに工廠の周囲数里にまで迫っているという。彼らは火薬による爆破だけでなく、幻覚を見せる香や、光の屈折を利用した隠れ蓑を操るという。古代の隠密技術と、大陸の秘術を組み合わせた、いわば「影の技術者」たちだ。

「……大江殿、来ます」

闇の中から、鎌足の声だけが響いた。彼自身もまた、気配を完全に殺し、工廠の外周にある「罠」の作動準備を整えている。

その瞬間、風向きが変わった。

春の湿った風に混じり、鼻を突くような硝煙の匂いと、甘ったるい花の香りが漂ってくる。工廠の門を照らしていた松明の火が、不自然にゆらめき、青白く変色した。

「幻惑の術か。……入鹿、第一から第四まで、全基点灯せよッ!」

「了解ッ! 喰らいやがれ、理の光を!」

入鹿が合図の鐘を鳴らすと、職人たちが一斉に電極を接触させた。

バチィィィッ!!

凄まじい放電音と共に、四基の櫓から純白の光条が放たれた。それは夜の闇を一瞬で昼間に変え、工廠を取り囲む森の木々を、葉の一枚一枚まで鮮明に浮き上がらせた。

「……ぐあああッ!? 目が、目がああッ!!」

闇に紛れて柵を越えようとしていた黒装束の集団が、突然の強光に曝され、悲鳴を上げて地面に転げ落ちた。彼らが纏っていた、光を吸収するはずの特殊な布は、数万カンデラの直射光の前では無力だった。

「……逃がすな! 鎌足殿、東側の斜面だ!」

光の束が、逃げ惑う刺客たちを追い詰めていく。入鹿は櫓の上で、巨大な反射鏡を軽々と操り、まるで意思を持つ巨人の眼のように闇を走査していた。

だが、「影縫」の長と思われる男は、その混乱の中でも冷静だった。彼は懐から奇妙な形の筒を取り出すと、地面に叩きつけた。

ドンッ!!

瞬時に、工廠の広場を埋め尽くすほどの濃厚な黒煙が立ち昇った。ただの煙ではない。光を物理的に遮断する、煤を大量に含んだ粘り気のある煙だ。探照灯の光が煙の表面で乱反射し、視界を奪う白い壁となって私たちの前に立ち塞がった。

「……大江、光が通らねえ! 奴ら、この煙の中に隠れてやがる!」

「……慌てるな、入鹿。光が届かないなら、次は『震動』で探れ。……岩吉! 蒸気圧を最大に上げろ。工廠全体の床を鳴らすんだ!」

私は蒸気機関の排気を、地下に埋設した鉄管へとバイパスさせた。

規則正しい「ドクン……ドクン……」という地響きが、工廠の地面を伝わっていく。私は聴診器のような集音装置を地面に当て、敵の足音を探った。

「……北北西。煙の中に、不自然な歩調の乱れがある。……鎌足殿、そこだ!」

鎌足の影が、煙の中へと吸い込まれていった。直後、金属のぶつかり合う鋭い音が数回響き、短い呻き声と共に一人の刺客が煙の外へと弾き飛ばされた。

しかし、術士たちの真の狙いは、私たちへの直接攻撃ではなかった。

「……大江様! 倉庫の裏に、火薬を仕掛けられました!」

岩吉の悲鳴が上がる。

術士の一人が、自らを囮にして探照灯の目を引きつけ、その隙に別働隊が、工廠の心臓部である高圧ボイラー室の裏壁に、大陸直伝の強力な爆裂薬を設置したのだ。

「……くそっ、間に合わねえ!」

入鹿が櫓から飛び降りようとしたその時、私は制御盤の最後のスイッチを入れた。

それは、まだ実験段階だった「高圧蒸気放射壁」の作動レバーだった。

工廠の外壁に張り巡らされた細い鉄管から、一斉に数百度の過熱蒸気が噴出した。

プシュゥゥゥゥゥッ!!

見えない熱の壁が、火薬に火をつけようとしていた刺客を直撃する。爆発が起きる寸前、火薬の導火線は湿った蒸気によって無効化され、刺客はその熱量に耐えきれず、叫び声を上げて後退した。

「……科学は、光だけではない。……熱も、振動も、すべてが私たちの武器だ」

私は、煤で汚れた顔を拭いながら、煙の向こうにいるであろう「影縫」の長に向かって言い放った。

やがて、夜明けの光が東の空から差し込み始めると、術士たちの気配は霧が晴れるように消え去っていた。後に残されたのは、彼らが捨てていった奇妙な火薬の筒と、近代的な科学の防壁によって守り抜かれた、無傷の工廠だけだった。

「……はぁ、はぁ。……勝ったのか? 俺たち」

入鹿が、熱を持った反射鏡の横に座り込み、大きく息を吐いた。

「……ああ。だが、これは警告だ、入鹿。飛鳥……いや中大兄皇子は、手段を選ばなくなっている。光で闇を暴くたびに、彼はさらに深い闇を連れてくるだろう」

私は、朝日に照らされる「双星零号」を見つめた。

今夜の襲撃で、私たちの警備体制はさらに強化される必要がある。そして、何より、この「陸奥の理」を、ただの防御的な技術から、国全体を変える「不可侵の正義」へと昇華させなければならない。

鎌足が、影の中から静かに姿を現した。彼の腕には、刺客から奪い取った一通の書状があった。

「……大江殿。これを見てください。……中大兄皇子の筆ではありません。これは、飛鳥の『もう一人の怪物』からの招状です」

書状を開くと、そこには簡潔に、しかし重々しい筆致でこう記されていた。

『陸奥の工匠よ。その理の真髄、飛鳥の地にて天子に奏上せよ。拒めば、全土の職人を捕らえ、その知恵の種を断つ』

差出人の名は、中臣鎌足……。いや、史実における私の協力者であり、今この世界では最強の政敵となりつつある、あの男の影を感じさせた。

「……飛鳥への凱旋。……それが、彼らの仕掛けた次のチェス盤か」

入鹿が私の隣で、不敵に笑った。

「いいぜ。受けて立とうじゃねえか。……ただし、歩いていくなんて言わねえぞ。大江。俺たちの創った『鉄の馬』で、飛鳥の都のど真ん中まで乗り込んでやろうぜ」

西暦六二六年、春。

陸奥の工廠で生まれた鋼の咆哮は、いよいよ飛鳥の心臓部へと向かって、線路を敷き始めようとしていた。

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