第五十八話:知恵の簒奪者、鉄路の審判
西暦六二六年。
下野の広大な平野。春の陽光に照らされた一本の鉄路を挟んで、二つの「未来」が衝突しようとしていた。
片や、油と煤にまみれ、民と共に汗を流して築き上げた大江と入鹿の「実学」。片や、豪華な輿に揺られ、権威という名の虚飾で知恵を塗りつぶそうとする「偽の鎌足」の「権謀」。
「……接収だと? 笑わせるな」
入鹿が吐き捨てるように言い、双星零号のステップから飛び降りた。その腰には、かつての飛鳥の飾り太刀ではなく、北方工廠の「特級鋼」で鍛え上げられた、実戦用の長刀が差されている。
「この鉄の道は、俺たちが泥を啜りながら敷いたもんだ。指一本、触れさせるわけにはいかねえ。……大江、こいつら、俺たちの技術を『魔法』か何かだと思ってやがる。中身も知らねえ癖に、御利益だけ掠め取ろうって魂胆だ」
偽の鎌足は、扇で口元を隠し、クスクスと不気味な笑い声を上げた。
「おやおや、蘇我の嫡男ともあろう方が、ずいぶんと野卑な言葉を使われる。……大江殿、彼を説得してください。私は『模倣』と言われましたが、模倣こそが文明の母。私は、あなたが廃棄した初期の火薬筒の図面から、すでにこれだけのものを作り上げました」
偽の鎌足が合図を送ると、僧侶たちの列が割れ、数台の荷車が姿を現した。そこには、竹筒を幾重にも束ね、発火装置を取り付けた原始的な「連射式ロケット砲(火矢射出機)」が鎮座していた。
「……なるほど。多賀で没収された残骸から、よくそこまで組み上げたものだ」
私は冷静にその兵器を分析した。それは、私が安全性と安定性の問題で設計を放棄した「黒色火薬の暴走」を伴う、極めて不安定な代物だ。しかし、一斉に放たれれば、零号機のボイラーや配管を損傷させるには十分な威力があるだろう。
「だが、それは知恵ではない。ただの『破壊の猿真似』だ」
「破壊もまた、支配の形ですよ」
偽の鎌足の瞳に、冷酷な光が宿る。
「さあ、その鉄の馬をこちらへ渡し、工廠の全図面を差し出しなさい。さもなくば、この下野の村々を、この火矢で焼き払いましょう。民を救うために『理』を振るうあなたが、彼らの犠牲を許容できるかな?」
「卑怯な真似を……ッ!」
入鹿が刀を抜きかけたが、私はその肩を掴んで制した。
今、ここで武力を使えば、偽の鎌足の思う壺だ。彼は私たちが「民を傷つける逆賊」であるという証拠を求めている。私は静かに鎌足(本物)と視線を交わした。鎌足は無言で頷き、影のように線路の脇へと姿を消した。
「……わかりました。知恵が欲しいのなら、お見せしましょう。ただし、この『双星零号』を動かすには、あなたたちの知らない『最後の鍵』が必要です」
私は運転台に戻り、加減弁を操作して蒸気圧を調整した。
「最後の鍵だと? ほう、それは興味深い」
偽の鎌足が輿から降り、興味深げに機関車へと近づいてくる。
「ええ。この機関車は、人の心と『理』が合致した時にのみ、真の出力を発揮するよう設計されています。……入鹿、ボイラーに『特製燃料』を投入しろ!」
「おうよ!」
入鹿が、石炭の中に混ぜておいた「ある物質」――北方工廠で精製された高純度の石油精製廃物と、特定の炎色反応を示す化学物質の混合物――を炉内に放り込んだ。
ゴォォォォォォォッ!!
次の瞬間、零号機の煙突から、目が眩むような「鮮やかな青色の炎」を伴う蒸気が吹き上がった。同時に、安全弁から放たれた超高圧の蒸気が、耳を劈くような高周波の音を奏でる。
「……な、なんだ!? 炎の色が、青い……!?」
偽の鎌足と僧兵たちが、その異様な光景に怯え、後ずさりした。彼らにとって、炎の色が変わることは、人知を超えた「神罰」の予兆に他ならない。
「これこそが、理の深淵。……鎌足殿、今だ!」
私の合図と共に、線路脇に潜んでいた本物の鎌足が、影の中から偽の鎌足の背後へと躍り出た。その手には、探照灯の原理を応用した小型の「凹面反射鏡」が握られている。
太陽の光を一点に集中させ、偽の鎌足が持つ宣旨へと照射する。
「あ、熱いッ! な、なんだ、紙が燃え出したぞ!?」
偽の鎌足が慌てて宣旨を放り出す。それは地面に落ちる前に、目に見えぬ「光の槍」によって真っ黒に焦げ、灰へと変わった。
「……天の意思を騙り、知恵を簒奪しようとする者に、理の女神は微笑まない」
私は、蒸気の咆哮と共に、零号機を一歩前へと進めた。
数トンの鋼鉄が、地響きを立てて偽の鎌足へと迫る。
「……ひっ、ひいぃぃっ!!」
先ほどまでの余裕はどこへやら、偽の鎌足は腰を抜かし、泥まみれになって這いずり回った。背後の僧兵たちも、青い炎を吐く鉄の怪物と、姿なき光の攻撃にパニックを起こし、自軍の火矢射出機をなぎ倒しながら逃げ惑った。
「……大江、最高だぜ! 物理で殴るより、よっぽど効いてやがる!」
入鹿が腹を抱えて笑う。
私は、地面に落ちた灰を、冷徹な目で見つめた。
「……偽りの鎌足よ。都へ帰り、皇子に伝えるがいい。……『理』は、支配の道具ではない。それは、世界を正しく認識した者だけが扱える、自由への翼だとな」
西暦六二六年、春。
下野の平野に、鋼の咆哮が勝ち鬨のように響き渡った。
偽の知恵者を退けた鉄路は、今、何の障害もなく、次なる地――武蔵の国へとその歩みを進めようとしていた。
しかし、逃げ去る偽の鎌足の背中を見つめながら、本物の鎌足は静かに呟いた。
「……大江殿。あやつは、ただの使い走りに過ぎませぬ。……都には、あの男がいます。科学を『魔術』としてではなく、私と同じ『戦略』として組み込もうとする、あの男が」
鎌足の視線の先……遥か南、飛鳥の空には、不気味な黒い雲が再び集まり始めていた。




