第四十六話:落日の決別、二人だけの荒野
西暦六二五年。初夏の陽光が山道を照らす中、私たちは飛鳥の追手から逃れるべく、険しい東山道を北へと急いでいた。馬の嘶きと、時折聞こえる鳥の鳴き声だけが静寂を破る。
「……大江、肩の傷はどうだ。無理してねえか」
馬を並べて走らせる入鹿が、心配そうにこちらを覗き込んできた。多賀での死闘を経て、彼の顔つきからはかつての貴公子のような甘さが消え、一人の戦士としての鋭さが備わっている。私は「ああ、鎌足殿が手際よく処置してくれたおかげでな」と短く答え、手綱を握り直した。
私たちの背後では、鎌足が気配を殺して周囲を警戒している。彼は飛鳥の権力構造を熟知しているからこそ、蝦夷様や中大兄皇子が放つ刺客が、一度や二度の失敗で諦めないことを誰よりも理解していた。
「この先、信濃を抜けるまでは気が抜けませぬ。皇子の放った『八咫烏』の崩れが、まだ山中に潜んでいる気配がございます」
鎌足の言葉に、入鹿は腰の刀の柄を強く握りしめた。私たちは今、蘇我という巨大な盾を失い、ただの「逃亡者」としてこの国を歩いている。しかし、不思議と絶望感はなかった。牛車の中に隠した僅かな道具と、私の頭の中にある知識、そして隣にいる友がいれば、陸奥で再び「未来」を築けると確信していたからだ。
私たちは夜通し走り続け、人里離れた荒れ寺で束の間の中休みに就いた。入鹿は慣れない手つきで焚き火を熾すと、私が陸奥から持ち帰っていた「干し肉」を火に翳した。
「なあ、大江。陸奥に戻ったら、あの『動かなかった鉄の塊』……蒸気機関だったか。あれを真っ先に動かそうぜ。父上たちが見たこともないような、巨大な力で動く船や車を造って、度肝を抜いてやるんだ」
入鹿の瞳には、かつて多賀で見たのと同じ、未知の理に対する純粋な輝きが戻っていた。私は焚き火の煙を見つめながら、これから始まる「再建」の工程を頭の中で組み立てる。精度不足だったシリンダー、熱に耐えられなかった接合部。それらを克服するための「旋盤」の改良案が、炎の揺らめきの中に浮かんでは消えた。
「ああ、約束だ。今度は実験室の中だけじゃない。この国を根底から変える『本物の心臓』を動かそう。入鹿、お前がその最初の目撃者になるんだ」
夜が明ければ、再び北への過酷な旅が始まる。しかし、私たちはもう迷わない。飛鳥という古い器を捨てた私たちは、陸奥の荒野に新しい文明の種を撒くために、力強く一歩を踏み出した。




