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第四十七話:東山道の彷徨、未踏の理への誓い

西暦六二五年(推古三十三年)。初夏の湿り気を帯びた風が、信濃の深い山々を吹き抜けていく。飛鳥を脱出し、北へと向かう道すがら、私たちは幾度となく険しい峠を越え、追手の目を眩ませるために道なき道を突き進んでいた。馬の蹄が湿った土を叩く音だけが、絶え間なく続く静寂の中での唯一の道標だった。

私の肩に深く刻まれた中大兄皇子の矢傷は、鎌足の懸命な処置によって最悪の事態こそ免れていたが、依然として疼くような熱を帯びていた。牛車に揺られながら、私は意識の混濁の中で、没収された図面や試作機のことを考えていた。しかし、それ以上に私の心を占めていたのは、隣で黙々と手綱を握る男、入鹿のことだった。彼は蘇我の嫡男としての地位を、富を、そして家族との絆を、すべて私のために投げ打った。その背中にかかる重圧は、私一人の命よりも遥かに重いものに違いなかった。

「大江、少しは眠れたか」

入鹿が馬を寄せ、私に声をかけた。彼の顔には連日の強行軍による疲労が色濃く滲んでいたが、その眼光は以前よりも鋭く、力強い。かつて飛鳥の庭園で美酒を酌み交わしていた頃の、どこか浮世離れした若者の面影はもうそこにはなかった。

「……ああ。すまないな、入鹿。私一人のために、お前をこんな茨の道に引きずり込んでしまった」

「よせやい。俺が決めたことだ。それに、飛鳥にいた頃よりも、今の方がずっと『生きてる』って実感がするぜ。親父たちの顔色を伺って、誰を失脚させるかなんて姑息な計算に明け暮れる毎日より、泥にまみれてお前の創る新しい世界を追いかける方が、よっぽど俺には合ってる」

入鹿はそう言って不敵に笑うと、再び前方の闇を見据えた。私たちはその夜、人里から隔離された廃寺に身を寄せた。壁は崩れ、仏像の顔も判別できないほどの荒れ果てた場所だったが、今の私たちにとっては、どんな宮殿よりも安らげる隠れ家だった。

鎌足が手際よく焚き火を熾し、周囲の警戒を固める中、私は工廠から持ち出した僅かな手記を広げた。そこには、多賀で失敗に終わった蒸気機関の、致命的な欠陥についての考察が書き殴られていた。当時の技術水準では、シリンダーの内壁を真円に削り出すことが不可能に近く、どうしても高圧蒸気が隙間から逃げてしまう。それを防ぐためのパッキンの素材も、蜜蝋や革では限界があった。

「大江、またそんな小難しい顔をして。今は休めって」

入鹿が焚き火で炙った干し肉を差し出してきた。私はそれを受け取りながら、彼に向かって静かに語り始めた。

「……入鹿。陸奥に戻ったら、最初にするのは旋盤の再設計だ。以前のものは手動だったが、今度は水力を使って、より安定した回転数で鋼を削る。そして、削り出す刃物そのものも、陸奥の良質な砂鉄からさらに不純物を取り除いた『特級の鋼』に変える必要がある。……お前が多賀で見たあの爆発は、火薬の力だ。だが、私たちが次に創り出すのは、火を『継続的な力』に変える魔法だ。これが完成すれば、船は帆を失っても進み、荷車は牛がいなくても山を越える」

入鹿は肉を噛み締めながら、私の言葉を一つ一つ噛みしめるように聞いていた。

「牛がいなくても山を越える……か。親父たちが聞いたら、それこそ腰を抜かして『妖怪の仕業だ』って騒ぎ立てるだろうな。でも大江、俺は見てみたい。その魔法が、この国の形をどう変えていくのか。……なあ、それがあれば、もう二度と戦なんてしなくて済むようになるのか?」

私は焚き火の炎を見つめた。科学は刃にもなれば、盾にもなる。歴史を知る者として、その二面性を誰よりも理解しているつもりだった。

「……戦をゼロにすることは、人間の心が変わらない限り難しいかもしれない。だが、圧倒的な生産力と、飢えを知らない豊かさが広がれば、少なくとも『生きるために奪い合う』必要はなくなる。私がこの時代に来た意味は、それを証明することにあると思っているんだ」

夜の静寂が深まっていく中、私たちは交互に仮眠をとりながら、朝の光を待った。鎌足は影のように闇に溶け込み、一切の気配を消して周囲を監視している。彼の存在がなければ、私たちは飛鳥を出て数日と持たなかっただろう。

翌朝、私たちは再び北への旅路を再開した。信濃の山道を抜け、上野こうずけの平野が見え始めた頃、私たちの行く手に不穏な気配が漂い始めた。街道の先、わずかに土煙が舞っている。追手か、それともこの混乱に乗じた野盗か。

「大江、伏せてろ。……鎌足殿、どう見る」

入鹿が長刀の柄に手をかけ、低い声で尋ねた。鎌足は無言で馬を下り、地面に耳を当てた。

「……馬の足音、六、七騎ほど。足並みが揃っております。ただの野盗ではありませぬ。蘇我の家紋は伏せておりますが、身のこなしは明らかに訓練された武士……蝦夷殿が放った『掃除屋』でしょう」

入鹿の表情に、一瞬だけ苦渋の色が走った。実の父が、自分たちを殺すために刺客を送り続けているという事実。しかし、彼はすぐにその迷いを振り切った。

「……大江、しっかり捕まってろ。突破するぞ」

入鹿が馬腹を強く蹴ると、馬は咆哮を上げるようにして疾走を始めた。前方の林の中から、黒い装束を纏った男たちが飛び出してくる。彼らの手には、鋭い殺気を放つ長槍が握られていた。

「どけッ! 俺は蘇我を捨てた男だ! 立ち塞がるなら、親父の使いだろうと容赦はしねえ!」

入鹿の長刀が閃き、先頭の刺客の槍を真っ向から叩き折った。鎌足もまた、影の中から放たれたような速さで短刀を振るい、次々と敵の急所を突いていく。私は牛車の影に身を隠しながら、手元にあるライデン瓶の予備を確認した。静電気の蓄電には時間がかかるが、一撃の威力は絶大だ。

「大江、右だ!」

入鹿の叫びと同時に、私は瓶の電極を地面に突き立てた。バチッという激しい放電音が響き、回り込もうとした刺客の一人が痙攣を起こして崩れ落ちる。その隙を突き、私たちは包囲網を強引に突き破った。

「はぁ、はぁ……。追っては来ないようだな」

数里ほど走り続け、追手の気配が消えたところで、入鹿は荒い息を吐きながら馬を止めた。私たちは無傷だったが、精神的な消耗は激しかった。

「……入鹿、大丈夫か」

「ああ。……ただ、少しだけ思い知らされたよ。俺たちが目指す北の地へ辿り着くまでは、俺の名前も、お前の知恵も、この国にとっては『毒』でしかないんだってな」

入鹿はそう言って、遠く北の空を見上げた。そこには、多賀の製鉄所から立ち上る煙が……いや、私たちの再起を待つ陸奥の大地が、静かに広がっているはずだった。

私たちは、飛鳥という過去を完全に切り捨てた。もう戻る場所はない。あるのは、これから自分たちの手で創り上げる、鋼と蒸気の未来だけだった。

西暦六二五年。私たちは、ついに下野しもつけを越え、陸奥の入り口である白河の関へと差し掛かろうとしていた。そこから先は、かつて私たちが築き上げた、科学の種が眠る聖域。大江と入鹿、二人の「異端者」による、真の変革が始まろうとしていた。

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