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君の傷が癒えるほど、別れが近づくこの豊島で。  作者: 杠(ゆずりは)


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5 豊島美術館

東京へ戻る日が、三日後に迫っていた。


すっかり空っぽになったマンスリーの古い家には、段ボール箱が二つだけポツンと置かれている。

来た時よりも荷物が少ないのは、東京から持ち込んだ重たいビジネス書や、自分を武装するためだけの窮屈な服を、すべて島のゴミ処理場に置いていく決心をしたからだ。


休職期間の終わりが近づき、私は東京の小さなデザイン事務所への就職を決めていた。

大規模なコンペや派手な広告とは無縁の、地域のパッケージデザインなどを細々と手がける会社だ。


もう、誰かと自分を比べてすり減るような働き方はしない。

自分の呼吸のペースを守れる場所で、もう一度だけ、デザインの仕事に向き合ってみようと思えたのだ。


その報告をした時の誠さんの顔を、私は今でもはっきりと覚えている。

彼は「よかったですね」と、いつものように穏やかに笑ってくれた。

けれど、その声のトーンは普段よりもほんの少しだけ低く、視線は私を通り越して、遠くの波止場へ向けられていた。


祝福と、諦めと、言葉にできない微かな寂しさ。


それらが入り混じったような横顔を見つめながら、私は自分の下した決断が、この島での時間、彼との時間に明確な終わりを告げるものなのだと、改めて突きつけられていた。


「最後に行きたい場所、ありますか?」


そう聞いてくれた彼に、私は島を代表するその場所をリクエストした。


その日、私たちは家浦から唐櫃の丘へ向かって、ゆっくりと自転車を走らせた。

春の陽気に包まれた豊島は、あちこちで花が咲き乱れ、海は陽光を反射して鱗のようにきらきらと輝いている。

坂を登り切った先、海に向かって広がる美しい棚田の風景の中に、白い水滴がふわりと地面に降り立ったような、不思議なドーム型の建物が現れた。


『豊島美術館』

建物そのものが、アーティストの内藤礼と、建築家の西沢立衛による作品。


コンクリートの遊歩道を歩き、森を抜けた先に現れるその入り口で、私たちは靴を脱いだ。

ひんやりとした床の感触が、靴下越しに足の裏へ伝わってくる。


薄暗い通路を一歩ずつ進んでいくと、ふっと視界が開けた。

広大な、そして完全な静寂の空間。


柱を一本も使わない、白いコンクリートのシェル構造。

天井には二つの大きな楕円形の穴がぽっかりと開いており、そこから豊島の青い空と、風に揺れる木々の緑がそのまま切り取られて見えている。

ガラスなどの遮るものは一切ない。

鳥のさえずりも、木の葉の擦れる音も、春の土の匂いも、すべてがダイレクトにこの空間に流れ込み、静かに反響していた。


まるで、巨大な生き物の胎内にいるかのような、あるいは自分自身が水滴の中に入り込んでしまったかのような、圧倒的で不思議な感覚。

私たちは言葉を交わさず、少し離れた場所に並んで、冷たいコンクリートの床に腰を下ろした。


目を凝らすと、撥水加工された滑らかな床のあちこちにある極小の穴から、本当に小さな、針の先ほどの水が絶え間なく湧き出しているのがわかった。

湧き出た水滴は、ある程度の大きさになると、表面張力でぷっくりと丸みを帯び、床のわずかな傾斜に従って、ツー、と滑るように流れ出す。


一つ、また一つ。


水滴たちは、陽の光を反射しながらそれぞれの軌道を描いて進んでいく。

時に別の水滴とぶつかって一つに交わり、大きな水の塊となって、最後には床に設けられた小さな泉へと吸い込まれて、跡形もなく消えていく。


生まれて、交わって、消える。

ただそれだけの物理的な現象が、このドームの中では、世界の法則をそのまま映し出しているかのように美しく見えた。


私は膝を抱え、目の前を転がっていく二つの水滴の行方を追った。

少し離れた場所から湧き出たその二つは、お互いに引き寄せられるように近づき、一瞬だけ一つに重なって、綺麗な一粒の水滴になった。

けれど、それは永遠ではなかった。

重みを増した水滴は、より速く斜面を滑り出し、水たまりの中へ音もなく溶け込んでいった。


「……あんなふうに、ずっとその場に留まっていられたらいいのに」


ドームの静寂を壊さないよう、私は本当に小さな声で呟いた。

主語のないその言葉の意味を、誠さんがどう受け取ったかはわからない。ただ彼は、水滴が消えた跡を静かに見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。


「留まっていたら、いつか乾いて消えてしまうか、濁ってしまうから。……流れ続けるから、水は透き通って、綺麗なんだと思います」


彼の言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

この島という水たまりの中で立ち止まっていた私が、ようやく自分の足で流れ出そうとしている。

それを誰よりも喜んで、誰よりも寂しく思っているのは、他でもない彼なのだ。


「東京に戻ったら、また息ができなくなるかもしれない」


「大丈夫です」


誠さんの声は、静かで、揺るぎなかった。


「冬の冷たい浜辺で、あんなに綺麗な弧を描いてシュートを打てた人ですから。あなたはもう、一人でちゃんと息ができます。もしまた苦しくなったら、目を閉じて、この島の海と、森の風鈴と……ここを流れる水のことを思い出してください」


誠さんの手が、コンクリートの床に置かれた私の手のすぐ隣に、そっと置かれた。

触れてはいない、数センチの距離。

けれど、彼の体温がそこにあるというだけで、張り詰めていた私の心の糸が、ほどけていくのがわかった。


私たちは違う軌道を描いて流れる水滴だ。

冬の豊島で、偶然同じ傾斜を転がり、ほんの一瞬だけ重なり合った。

互いの不器用さや痛みを共有し、温め合ったあの時間は、幻なんかじゃない。

けれど、私たちは一つの水たまりに留まることはできない。

私は私の流れるべき場所へ、彼は彼の愛するこの場所で、それぞれの形を保ったまま生きていかなければならない。


天井の楕円形の穴から、ふわりと春の風が吹き込んだ。

ドームの中に響き渡る風の音は、遠くの波の音のようにも聞こえた。


「……ありがとう」


私は隣に座る彼を見ずに、目の前を流れる水滴に向かって小さく呟いた。

それが、彼に伝えられる精一杯の言葉だった。

これ以上の言葉にしてしまえば、せっかく保っていた輪郭が崩れ、二度と立ち上がれなくなってしまう気がしたからだ。


「俺もです」


誠さんの声もまた、風の音に溶けるように小さかった。


ポツリ、と。

私の目からこぼれ落ちた一粒の涙が、コンクリートの床に落ちた。

それは撥水加工された床の上で小さな水滴となり、別の湧き水と交わって、ツーッと斜面を滑り落ちていく。

私たちは肩を並べて、ただその水滴の行方をいつまでも見つめていた。


何も言わなくても、触れ合わなくても、私たちの想いは確かにそこで一つになっていた。

永遠のような、けれど確実に終わりへと向かっている時間が、豊島の静謐なドームの中で、静かに、静かに流れていた。

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