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君の傷が癒えるほど、別れが近づくこの豊島で。  作者: 杠(ゆずりは)


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4 ささやきの森

三月に入ると、豊島の空気は一変した。


冬の鋭い冷たさが和らぎ、湿り気を帯びた柔らかな風が、山肌を撫でていく。

集落の軒先にはミモザの黄色い花が溢れ、あちこちのレモン畑からは、まだ青い果実と若葉の混じった清々しい香りが漂っていた。


あの日、『心臓音のアーカイブ』で自分の鼓動を録音してから、私の中にあった「死んだような静寂」は少しずつ形を変えていた。

真っ暗な部屋で明滅する光。

誠さんが背中に置いてくれた、手のひらの確かな重み。

それらが、私の凍りついた感情を、少しずつ、でも確実に溶かしていった。


「今日は、壇山(だんやま)の方へ行ってみませんか。春の音が、一番よく聞こえる場所なんです」


週末。誠さんはいつものように軽トラックを出し、私を助手席に招き入れた。


車は家浦の集落を抜け、急な坂道をうねるように登っていく。窓を開けると、鶯のたどたどしい鳴き声が聞こえてきた。


「誠さん。この間話していた、森の風鈴の話……本当なんですか?」


「ええ。クリスチャン・ボルタンスキーの作品で、『ささやきの森』っていうんです。あの海岸沿いのアーカイブと同じアーティストが作った場所ですよ」


誠さんはハンドルを回しながら、ちらりと私を見た。


「実は昨日、アーカイブの受付に寄ってきたんです。風鈴に大切な人の名前を刻めるって聞いて」


「……登録してきたんですか?」


私は頷いた。

五千円という金額は、今の私にとって決して安くはない。

けれど、あの暗闇の部屋で自分の生を感じた後、私はどうしても、自分を縛り続けてきた「過去」に形を与えて、この島の風に預けたいと思ったのだ。


短冊に記したのは、特定の誰かの名前ではない。


『東京にいた頃の、私』


それまで必死に演じ、守り、そして壊れてしまった、あの頃の私の名前だ。


車は山の中腹にある小さなスペースに停まった。

そこからはもう、道はない。

落ち葉が積もった柔らかな土を踏みしめ、私たちは深い森の中へと足を踏み入れた。


最初は、静かだった。

楠や樫の木が鬱蒼と茂り、木漏れ日が複雑な模様を地面に描いている。

湿った土の匂いと、春を待つ木々の生命力が、肌にねっとりとまとわりつく。


20分ほど歩いた時だろうか。

遠くから、微かな、金属の擦れるような音が聞こえてきた。


チリン。


チリン、チリン。


一つ、また一つと、その音は増えていく。

森の奥へ進むにつれ、その「音」は無数の波となって私たちを包み込んだ。


木々の枝から吊るされた、四百個以上の風鈴。

短冊が風に揺れ、無数の音が重なり合い、溶け合っている。

それは、涼やかな音というよりは、文字通り無数の人々が小声で会話をしているような、「ささやき」のようだった。


「すごい……」


私は息を呑み、立ち尽くした。

一つ一つの風鈴の下に下がる短冊には、かつてこの世に存在した人々、あるいは誰かにとって忘れられない人々の名前が刻まれている。

誰かの父。

誰かの恋人。

誰かの友。

もう触れることのできない人々が、この豊島の森で、風となってささやき続けている。


「誠さん。私の風鈴も、いつかここに吊るされるんですよね」


「ええ。アーカイブで預かった短冊は、順番にスタッフがこの森に届けて、手作業で吊るすんです。あなたの『ささやき』も、もうすぐこの森の一部になりますよ」


誠さんは、風鈴が揺れる様子を静かに見つめていた。


私は、近くの枝に吊るされた一つの風鈴に手を触れた。

短冊が指先に触れ、チリッ、と小さな音が響く。


東京にいた頃、私は常に「完璧な自分」であろうとしていた。

クライアントの顔色を伺い、流行に遅れないよう必死に情報を追いかけ、深夜までデザインを磨き上げる。

けれど、ここにある「ささやき」たちは、そんな私の虚栄心など、取るに足らない小さなものだと笑っているように思えた。


人間はいつか死ぬ。そして、記憶へと変わる。

でも、その記憶はこうして、誰にも邪魔されない森の中で、風に揺れている。


「……なんだか、不思議ですね」


私は深呼吸をした。

冷たくて清らかな空気が、肺の隅々まで満たされていく。


あんなに苦しかった東京での敗北感が、あんなに憎かった他人の視線が、今はもう、遠い海の向こうの出来事のように思えた。

私はもう、あのレールの上に戻らなくてもいい。

私は私のペースで、また新しく、自分の音を刻み始めればいいのだ。


「誠さん。私、この島に来て本当によかった」


私は誠さんの方を向き、心からの笑顔を浮かべた。

自分でも驚くほど、顔の筋肉が柔らかく動く。

三ヶ月前の私には、到底不可能だったはずの、一点の曇りもない笑顔。


誠さんは一瞬、目を見開いた。

差し込む木漏れ日が、彼女の頬を優しく照らしている。

その表情は、出会った頃の冬の海のような冷たさは微塵もなく、まるで今、この森で一斉に芽吹き始めた若葉のような、瑞々しい輝きを放っていた。

その瞬間、誠は悟った。

胸の奥が、痛いほど熱く、そして急速に冷えていく。


(……ああ。彼女は、もう大丈夫だ)


彼女の傷は、治ったのだ。

あの暗闇の心臓音を乗り越え、この森のささやきに自分を預けた。


彼女の目はもう、足元を見ていない。遠い空の向こう、自分が本来いるべき場所を見据えている。

誠が彼女の心を温め、島の景色を見せ、再生を手伝った日々。

それは誠にとってかけがえのない幸福だったが、同時に、彼女を自分のもとから、この島という停泊所から解き放つためのカウントダウンでもあった。


「……よかった。本当に、よかったです」


誠は、喉の奥まで出かかった別の言葉を飲み込んだ。


「ずっとここにいてほしい」


「君を、どこにも行かせたくない」


そんな言葉は、この森の清らかなささやきの中では、あまりにも野蛮で身勝手な不協和音でしかない。


彼女が元気になれば、彼女は去る。

それがこの島という「癒やしの地」に課せられた、美しくも残酷なルールなのだ。


「……誠さん?」


「あ、いや。なんでもないです。少し、風が強くなってきましたね」


誠は不器用に笑い、彼女の視線を避けるように空を見上げた。


無数の風鈴が、いっそう激しく鳴り響いた。

誰かの記憶。

誰かの祈り。

そして、二人の、決して口にされることのない想い。

それらが混ざり合い、春の森に満ちていく。


「帰りましょうか。降りる頃には、ちょうど海に夕陽が沈む時間です。棚田の方から見る夕陽は、格別ですよ」


「はい。見たいです。この島の景色、全部」


彼女の弾んだ声が、森の中に響く。

誠は、その声を一生忘れないだろうと思いながら、彼女を先導して落ち葉の道を歩き出した。

背後では、四百個の風鈴が、狂おしいほどにチリンチリンと鳴り続けていた。


それは祝福のようでもあり、あるいは、永遠に交わらない二人の未来を悼む鎮魂歌のようにも聞こえた。

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