3 心臓音のアーカイブ
朝から降り続く冷たい雨が、古い空き家のトタン屋根を単調なリズムで叩いていた。
瀬戸内の海は重たい灰色に沈み、島全体がすっぽりと薄暗い水の底に沈んでしまったかのようだった。
昼過ぎ、私は傘を差し、集落にある小さな商店へ向かって歩いていた。
雨の日は誰とも会いたくないという気持ちと、誰かの声を聞きたいという矛盾した感情が胸の中でせめぎ合っている。
水たまりを避けながら細い路地を抜けたとき、背後からゆっくりと近づいてきた白い軽トラックが、私の横で静かに停まった。
「こんな日に歩きですか。風邪、引きますよ」
窓がスルスルと下り、運転席から誠さんが顔を出した。
今日も作業着姿の彼は、助手席に置いてあった荷物を後部座席に放り投げると、「乗ってください、送ります」と手で合図をした。
遠慮しようとしたが、雨脚が急に強まり、私はおとなしく彼の好意に甘えることにした。
「ありがとうございます。商店まで行こうかと……」
「なら、その前にもう一つだけ、寄り道してもいいですか?」
誠さんはハンドルを握りながら、フロントガラスのワイパー越しに前を見据えて言った。
「雨の日だからこそ、行くべき場所があるんです」
軽トラックは集落を抜け、島の東の端、唐櫃の海岸沿いへと向かった。
雨に濡れた松林の中に、黒い焼き杉の板で覆われた小さな平屋の建物がひっそりと佇んでいた。
クリスチャン・ボルタンスキーというアーティストが手がけた、『心臓音のアーカイブ』という施設だった。
中に入ると、外の激しい雨音は嘘のように消え、静謐な空間が広がっていた。
「ここは、世界中の人々の『心臓の音』が集められている場所です。まずは、この部屋へ」
受付を済ませた誠さんに促され、私は『ハーツ・ルーム』と呼ばれる細長い部屋の重い扉を開けた。
一歩足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
完全な暗闇。
その中央で、強烈な重低音が部屋全体を震わせていた。
ドクン、ドクン。
ドクン、ドクン。
見知らぬ誰かの鼓動。
その音が増幅されて鳴り響き、その生々しいリズムに完全に同期して、部屋の中心に吊るされた一つの裸電球が激しく明滅している。
光と闇が、暴力的なまでのコントラストで交互に襲いかかってくる。
それは、ただの音ではなかった。
「生きている」という、圧倒的で原始的なエネルギーそのものだった。
誰かの血が巡り、筋肉が収縮し、命が燃えている音。
「……っ」
私は思わず胸元を強く握りしめた。
東京にいた頃、私は自分の心臓の音なんて聞いたことがなかった。
クライアントの理不尽な要求に笑顔で応え、終電の窓ガラスに映る死んだ魚のような自分の顔を見つめながら、私はただの歯車になろうとしていた。
感情を殺し、痛みを麻痺させ、息を潜めて、なるべく波風を立てないように。
自分が「生きている」ことすら、どこかに置き忘れてしまっていた。
それなのに、この暗闇の中で鳴り響く心臓の音は、容赦なく私の内側を揺さぶってくる。
お前は生きているだろう、と。
まだ、温かい血が流れているだろう、と。
明滅する光の中で、東京で押し殺してきた感情が、堰を切ったように決壊した。
悔しかった。誰かに認めてほしかった。
ただ、当たり前のように息をして、笑って生きたかっただけなのに、どうして私はこんなにボロボロになってしまったのだろう。
気づけば、私はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って泣いていた。
重低音の心臓音が鳴り響く中、私の嗚咽は誰に届くこともなく暗闇に吸い込まれていく。
それでも、溢れ出す涙を止めることはできなかった。
誠さんは、「大丈夫ですか」と慰めの言葉をかけるような真似はしなかった。
彼はただ、泣き崩れる私の隣に静かにしゃがみ込み、その大きく温かい手を、私の震える背中にそっと置いた。
ドクン、と響く音に合わせて電球が光るたび、誠さんの横顔が暗闇の中に浮かび上がる。
彼の眼差しは、ひどく優しく、そしてどこか悲痛な色を帯びていた。
しばらく泣き続け、ようやく涙が収まってきた頃、誠さんに手を引かれてハーツ・ルームを出た。
次に向かったのは、壁際に何台ものパソコンモニターが並ぶ『リスニングルーム』だった。
「ここでは、世界中の人たちが登録した心臓音を、検索して聞くことができるんです」
誠さんに渡されたヘッドフォンを耳に当て、私はモニターを操作した。
国籍も、年齢も、性別もバラバラな何万人もの名前が並んでいる。ふと、誰もが知る有名な海外のアーティストの名前を見つけ、再生ボタンを押してみた。
流れてきたのは、驚くほど普通で、等身大の音だった。
ドクン、ドクン、ドクン……。
世界中の人を熱狂させ、歴史に名を残すような表現者も、その内側ではこれほどまでに脆く、ただ一定のリズムを刻み続けるだけの肉体を持って生きている。
それは、私たちが「人間」という同じ生き物であることを突きつける、あまりにも無防備な告白だった。
次に、名前も知らない、遠い国の見知らぬ女性の音を再生する。
少し早めの、軽やかな鼓動。
この音の持ち主は、今もどこかの空の下で生きているのだろうか。
それとも、もうこの世にはいないのだろうか。
どちらにせよ、彼女が「確かに生きていた」という生々しい記録だけが、この小さな島に保管されている。
「みんな、これを持って生きてるんですね」
ヘッドフォンを外し、私が呟くと、誠さんは静かに頷いた。
「ええ。有名だろうが、無名だろうが、ここではただの音になります。命に優劣なんてないんだって、ここに来るたびに思い知らされるんです」
その言葉を聞いて、私はふと、ある決意をした。
「誠さん。私、自分の音も残していきたいです」
受付に戻り、千五百円ほどの登録料を支払うと、『レコーディングルーム』と呼ばれる小さな個室に案内された。
電話ボックスのような密室。
机の前には、聴診器のような形をした特殊なマイクが置かれていた。
白衣を着たスタッフの説明通りに、その冷たいマイクを自分の左胸の奥、心臓の位置に当てる。
静寂。
ヘッドフォンから、私自身の心臓の音が流れてきた。
トクン、トクン、トクン……。
あんなにボロボロになって、もう動けないと思っていたのに。
私の心臓は、私の意志とは無関係に、力強く時を刻み続けていた。
私が私を諦めても、私の体は私を諦めていなかった。
録音ボタンを押す。
この数十秒間の音は、アーカイブの一部としてここに永遠に残される。
いつか私がこの島を去り、もっと遠い未来に、私の肉体が滅びたとしても。
私が最も苦しくて、最も無様だったこの冬に、それでも生きようともがいていた不器用な鼓動は、瀬戸内海の穏やかな海辺で、誰かのために響き続けるのだ。
自分の心臓音が収録されたCDと小さなブックレットを受け取り、施設を出る。
雨は小降りになっていたが、誠さんは外のベンチで、灰色の海をじっと見つめていた。
「終わりましたか」
「はい。……なんだか、不思議ですね。自分の音がここにあると思うと、少しだけ安心しました」
誠さんは立ち上がり、私を見つめた。
その瞳には、深い親愛と、それと同じくらいの切なさが混じり合っていた。
誠は、泣き腫らした目で前を向こうとする彼女を見て、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。
彼女が自分の鼓動を「生きた証」として残した。
それは、彼女の心が再生へと向かい始めた確かな一歩だった。
彼女をこの手で守りたい。
このまま、時間が止まってしまえばいい。
けれど、彼女の傷が癒え、本来の輝きを取り戻すほど、彼女はこの島にはいられなくなる。
彼女は広い空へと羽ばたくべき人であり、この小さな島はそのための停泊所に過ぎない。
誠が彼女に寄り添い、その心を温めれば温めるほど、別れという名の「完治」の日は近づいてくる。
「行きましょうか。商店、閉まっちゃうといけないから」
誠は自分の内側にある寂しさを押し殺して、努めて明るい声で言った。
暗闇の部屋から響く誰かの鼓動が、軽トラックのエンジン音に重なり、雨に煙る松林の中へと消えていった。
ブックレットに挟まれたCDの質量。
誠さんが私の背中に置いてくれた、手のひらの温度。
それだけが、この冷たい雨の日の中で、確かな「生」の質量を持って存在していた。
実際の「心臓音のアーカイブ」にはビートたけしさんや松任谷由実さんの心臓音が収録されているそうです!




