2 針工場
豊島で目覚める朝は、いつも耳鳴りがするほど静かだった。
東京にいた頃は、スマートフォンの無機質なアラーム音に心臓を叩き起こされ、這いずるようにベッドから抜け出していた。
けれど、島に来てからの一週間、私は一度もアラームをセットしていない。
障子越しに差し込む白々とした冬の朝日に目を覚まし、ストーブに火を点ける。
やかんでお湯を沸かし、スーパーで買ってきたインスタントコーヒーを淹れる。
ただそれだけのことが、ひどく新鮮で、恐ろしく時間がかかった。
誰にも急かされない。
今日、何もしなくても、誰にも怒られない。
その事実が、空っぽになった私を少しずつ、本当に少しずつだが、人間の形に引き戻してくれているような気がした。
午後になり、少し風が収まったのを見計らって、私は再び自転車のペダルを踏んだ。
あの日、唐櫃の浜辺でバスケットボールを投げて以来、私はあてもなく島内のアート作品を巡るようになっていた。
美術館のように順路が決まっているわけではなく、集落の細い路地や、山道の途中に、それらは唐突に、しかし当然のような顔をして溶け込んでいる。
家浦港の集落を自転車でゆっくりと進む。古い板張りの家屋や、瓦屋根の入り組んだ路地。どこからか、煮魚の甘辛い匂いが漂ってくる。
その生活感のど真ん中に、不自然なほど背の高い、錆びついたトタン屋根の建物がひっそりと建っていた。
かつて縫い針の製造工場として使われていた建物を、そのままアートの展示空間にしたという『針工場』だ。
入り口の引き戸をそっと開けると、冷やりとした空気が頬を撫でた。
土間の匂い。古い木材の匂い。そして、わずかに漂う機械油と鉄の錆びた匂い。
目が暗闇に慣れるにつれ、建物の中心に鎮座している「それ」の全貌が浮かび上がってきた。
「……大きい」
思わず口から声が漏れた。
それは、巨大な木造船の船底だった。
いや、船そのものではない。
全長十メートルは優に超えるであろうその物体は、分厚い木材が幾重にも組み合わされた、ひどく無骨で、どこか生き物の骨格を思わせる塊だった。
「宇和島の造船所に、三十年近く放置されていたものらしいですよ」
暗がりの中から、穏やかな声が響いた。
驚いて視線を向けると、巨大な木枠の向こう側で、長い竹箒を持った青年が立っていた。唐櫃のバスケットゴールの下で出会った、あの青年だ。
彼は今日も作業用の防寒着を着て、首元にはよれよれのグレーのフリースを巻きつけている。
「……また、お会いしましたね」
「冬は観光客も少ないですからね。俺の掃除のローテーションと、あなたの散歩のペースが合ってるのかもしれません」
青年は竹箒を壁に立てかけ、私の隣まで歩いてきた。
彼が動くたびに、古い工場の床板がかすかに軋む音を立てる。
「これ、船じゃないんですか?」
私が見上げるようにして尋ねると、彼は木材の表面を指差した。
「船の形を作るための『木型』なんです。鯛網漁船を作るために設計されたらしいんですけど、結局、一度も使われることなく造船所の片隅で見捨てられていたみたいで」
木型。
つまり、これ自体が海に浮かぶことはない。
何かを生み出すためだけに作られ、そしてその目的すら果たせぬまま、三十年ものあいだ忘れ去られていたガラクタ。
私は、無数の傷と染みが刻まれた分厚い木材の表面に、そっと指先で触れてみた。
ひんやりと冷たくて、ざらざらとしている。
東京で、毎日深夜までパソコンの画面に向かい、消費されていくだけの広告デザインを作り続けていた自分の姿が不意に重なった。
「……私みたい」
気がつけば、自嘲するような言葉が唇からこぼれ落ちていた。
「え?」
「目的を果たせなかった不良品。誰の役にも立てなくて、ただ時間を無駄にして、見捨てられて、こんなところに逃げてきた。……なんだか、この木型と同じだなって思って」
言ってしまってから、ひどく後悔した。
なんて面倒くさい女だろう。
出会って二度目の相手に、こんな重苦しい憐憫をぶつけるなんて。
彼はただ、島の作品の案内をしてくれただけなのに。
「すみません、変なこと言って。忘れてください」
笑って誤魔化そうと、私が顔を上げた時だった。
「でも、俺は好きですよ。この景色」
青年は、巨大な木型を見上げたまま、とても静かな声で言った。
その横顔には、同情や慰めといった安っぽい感情は一切なかった。
ただ目の前にあるものを、あるがままに受け入れる、あのバスケットゴールの時と同じ眼差しだった。
「海を渡ることはできなかったかもしれない。漁に出て、魚を獲るという役目は果たせなかったかもしれない。でも、この木型は今、ここで静かに息をしてる」
青年は、壁の隙間から差し込む一筋の冬の光を見つめた。
工場の古い梁の隙間からこぼれ落ちたその光は、木型の滑らかな曲線を淡く照らし出し、空気中を舞う細かな埃を金色の粒子のように輝かせていた。
「誰かに見捨てられたものでも、こうして残っていれば、誰かの心を震わせる美しい景色になるんです。現に今、あなたはこれを見て、何かを感じてくれた。……それって、すごく立派なことなんじゃないかなって、俺は思うんです」
彼の言葉は、つっかえるような不器用な響きを持っていたけれど、だからこそ、どんなに綺麗に飾られた広告のコピーよりも、真っ直ぐに私の心の奥底に届いた。
凍りついて、ひび割れていた心の隙間に、彼が紡ぐ温かい温度がゆっくりと流れ込んでくる。
「……不良品でも、綺麗な景色になれますか」
「なってますよ。十分すぎるくらいに」
青年は私に向き直り、少しだけ照れたように笑った。
薄暗い廃工場の中で、彼と、巨大な木型と、私だけが取り残されている。
東京の喧騒から遠く離れたこの静寂の中で、私は初めて、自分が「ここにいてもいいのだ」と許されたような気がした。
「……あの、お名前、聞いてもいいですか」
私は、自分の声がわずかに震えているのを感じながら尋ねた。
「誠です。島で生まれ育ったんで、周りからはずっとマコって呼ばれてますけど」
「誠さん。私は……」
私が自分の名前を告げると、誠さんは「いい名前ですね」と、もう一度柔らかく微笑んだ。
工場を出ると、西に傾きかけた冬の太陽が、家浦の港をオレンジ色に染め始めていた。
冷たい風は相変わらず吹いていたけれど、不思議と寒さは感じなかった。
ポケットの中に入れた自分の手のひらが、かすかに温かい。
出会う順番が違えばよかった。
私がもっと完璧で、彼がもっと都会の空気に馴染める人だったなら。
そんな残酷な未来の輪郭にまだ気づかないまま、私は自転車のペダルを漕ぎ出した。
波の音と、彼の不器用で優しい声の余韻が、いつまでも耳の奥で鳴り続けていた。




