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君の傷が癒えるほど、別れが近づくこの豊島で。  作者: 杠(ゆずりは)


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1 勝者はいない─マルチ・バスケットボール

新作です、瀬戸内海に浮かぶ島の一つである、「豊島てしま」を舞台とした物語です。

冬の瀬戸内海は、ひどく静かだった。


岡山県の宇野港から乗り込んだフェリーが波を立てて進んでも、海面はすぐに滑らかな一枚の布のように閉じていく。

鈍色の空と、境界線が曖昧に溶け合うような海の色。甲板に出ると、身を切るような冷たい風が頬を叩いたが、それがかえって心地よかった。

東京でまとわりついていた、焦燥感や他人の視線といった不純物を洗い流してくれるような気がしたからだ。


船内には、島へ帰るらしい数人の高齢者と、仕事の作業着を着た男性しかいない。

国際芸術祭で賑わうという夏の喧騒が嘘のように、オフシーズンの豊島へ向かう船はひっそりとしていた。


三十分ほど揺られ、家浦港に降り立つ。

出迎えてくれたのは、潮の香りと、どこかで焚き火をしているような乾いた匂いだった。

コンビニも、派手な看板のチェーン店もない。

港のすぐそばには古い家屋が身を寄せ合うように建ち並び、その背後には豊かな緑を湛えた壇山(だんやま)がそびえている。

海と山が迫る細い路地を歩いていると、自分の足音だけがやけに大きく響いた。


私は二十八歳。ほんの数日前まで、東京の広告代理店でデザイナーとして働いていた。

誰よりも良いものを作ろうと、文字通り身を粉にして走ってきた。

コンペの勝敗、クライアントの容赦ない修正指示、同期との出世レース。

常に数字と結果で自分を証明し続けなければならない日々に、ある日突然、心がポキリと音を立てて折れた。

パソコンの光る画面を見るだけで吐き気が止まらなくなり、スマートフォンの通知音が鳴るたびに動悸がした。ベッドから起き上がれなくなった私に、会社は「休職」という名のドロップアウトを突きつけた。


社会のレールから弾き出され、完全な「敗者」になった私は、逃げるように東京のマンションを引き払った。

そして、何も考えずに海が見える遠い場所を探し、マンスリー契約ができる豊島の古い空き家を見つけたのだ。


なぜこの島だったのか、自分でもよくわからない。

ただ、商業的な広告とは無縁の「アート」が静かに点在する島なら、私のような欠陥品でも息を潜めていられるような気がしたのかもしれない。


荷解きもそこそこに、私は港の近くで電動アシスト付きのレンタサイクルを借り、あてもなく島を走り出した。

豊島は、想像以上に起伏の激しい島だった。

家浦の集落を抜けると、すぐに長い上り坂が待ち受けている。

電動アシストのペダルは思いのほか軽く、私は冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら坂を登った。

道の両脇には、手入れの行き届いたオリーブの木や、鮮やかな黄色い実をつけたままのレモンやみかんの木が並んでいる。

頂上付近まで登り切り、視界が開けた瞬間、思わず息を呑んだ。


眼下には、山の斜面に沿って作られた美しい棚田が広がり、その向こうにはどこまでも続く瀬戸内海が見渡せた。ぽつりぽつりと浮かぶ小さな島々。海は波一つなく、まるで時間が止まっているかのようだった。

そのまま海沿いの道を下り、島を半周したあたりだろうか。唐櫃(からと)という地区の浜辺近くを自転車で走っていた時、ふと奇妙な黄色いオブジェが目に止まった。


公園のような広場にポツンと立つそれは、いくつものリングが複雑に絡み合った、異形のバスケットゴールだった。

豊島の形を模したという鮮やかな黄色のバックボードに、高さも向きもバラバラな六つのフープが取り付けられている。

低いものは子供でも手が届きそうだが、高いものは見上げるような位置にある。シュートを打つべき「正解」のリングがどれなのか、全くわからない。


自転車を降り、私はその奇妙なゴールを見上げた。

東京では常に「一つの正解」と「一番高い目標」を狙うことだけを求められてきた。だから、目標がいくつも散らばっているこのゴールを見ると、頭の奥が少しだけざわざわとする。


「変わった形ですよね」


不意に背後から声をかけられ、私はビクッと肩を跳ねさせた。

振り返ると、作業用の防寒着を着た青年が立っていた。手には空気入れと、使い込まれて少し黒ずんだバスケットボールを抱えている。

年齢は私より少し下、二十代の半ばくらいだろうか。寝癖のついた髪と、日に焼けた肌。

彼は私の警戒を解くように、人懐っこくも押し付けがましくない、穏やかな笑みを浮かべた。


「驚かせてすみません。この作品の管理をしてるんです。冬は誰も来ないから、ボールの空気が抜けやすくて」


青年はそう言って、私が立っていたゴールの下へと歩み寄り、抱えていたボールのバルブに空気入れの針を差し込んだ。


シュコ、シュコという空気を送る音が、波の音に混じってリズミカルに響く。


「管理って……ボランティアの方ですか?」


「ええ、まあそんな感じです。島の出身なんで、草刈りとか清掃とか、なんでも屋みたいなもんですよ」


青年はボールの弾み具合をコンクリートの地面で確かめると、満足そうに頷いた。


「『勝者はいない─マルチ・バスケットボール』っていう作品なんです」


彼は黄色のバックボードを見上げて言った。


「どれを狙えばいいのか、迷いますね。一番高いところに入れるのが、やっぱり正解なんでしょうか」


私がぽつりとこぼすと、青年は首を横に振った。


「東京みたいな大きな街だと、一番高いゴールにボールを入れないと点数にならないんでしょうけど」


彼は足元の砂利を軽く蹴り、私の方へ向き直った。

その瞳は、冬の海のように澄んでいた。


「ここは、どのリングに、どんな不格好なシュートを打ってもいいんです。低いところに入れてもいいし、一番高いところを狙って外してもいい。入っても、外れても、誰かに怒られるわけじゃない。ここには、勝者も敗者もいないから」


勝者も、敗者もいない。

その言葉が、凍りついていた私の胸の奥に、すっと染み込んでいくのを感じた。


「……打ってみますか?」


促されるまま、私は彼からボールを受け取った。

手渡されたボールは、冷たくて、ざらざらしていて、ずっしりとした確かな重みがあった。

バスケットボールなんて、高校の体育の授業以来だ。


私はゴールの前に立ち、息を吸い込んだ。

的を絞れないまま、ただ重たい何かを吐き出すように、無造作にボールを押し出して放り投げる。

ボールはどのリングにも入らず、黄色のバックボードの端に当たって、ゴツンという無様な音を立てて地面に転がっていった。


「あ……」


思わず顔から火が出るほど恥ずかしくなった。

何か一つくらい、まともにできないのかと自分が嫌になる。

しかし、青年は転がるボールを小走りで拾い上げながら、とても楽しそうに笑ったのだ。


「ナイスシュート。いい弧を描いてましたよ」


全く褒められるような軌道ではなかったはずなのに、彼の声には嘘や嫌味が一切なかった。

ただ目の前の、私がボールを投げたという事実だけを、そのまま柔らかく肯定してくれた。

何者かにならなければと焦り、誰かに勝つことだけが自分の存在価値だと思い込んでいた。

そんな私が放った不格好なシュートを、この島と彼は、あっさりと許してくれたような気がした。


張り詰めていた心の糸が、ふっと緩む。

冷たい海風が吹いているのに、呼吸をするのが、東京にいたときよりもずっと楽になっていた。


「ありがとうございます。……私、しばらくこの島にいる予定なので、またシュートの練習に来てもいいですか」


気がつけば、私はそんな言葉を口にしていた。

「はい。いつでも待ってます。俺、冬の間はこの辺りの作品をぐるぐる見回ってるだけなんで」


青年が照れくさそうに頭を掻く。

その素朴な仕草を見ながら、私はここ数ヶ月で初めて、顔の筋肉が強張らずに自然な笑顔を作れたような気がした。


鉛色の空の隙間から、薄い冬の西日が差し込み、黄色いバスケットゴールを淡く照らしていた。

波の音と、青年がボールを弾ませるダム、という音が、静かな浜辺に響いていた。

実際に訪れた時、ゴール入れようとしたんですけど…

高いところは本当に入らなかったです…


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