6 空の粒子
豊島で迎える最後の朝は、憎らしいほど雲一つない見事な青空だった。
荷物をすべて送り出し、すっかり空っぽになったマンスリーの古い家を見渡す。
三ヶ月前、逃げるようにこの部屋に転がり込んだ時は、ただの冷たい避難所でしかなかった。
けれど今は、畳の匂いも、隙間風の鳴る音も、ひどく愛おしい。
部屋の中央に立ち、一つ深呼吸をした。
来た時と同じように、私の手元にあるのは小さなキャリーケース一つだけだったが、あの頃のような足のすくむような重力はもう感じなかった。
カチャリと鍵を閉める音が、私とこの家との繋がりに静かな終止符を打った。
港へ向かうため、集落の細い坂道を歩き出す。
春の海風が肺の奥まで冷たく、そして優しく入り込んでくる。
ほどなくして、前方から見慣れた白い軽トラックがゆっくりと坂を登ってきて、私の目の前で停まった。
「おはようございます。送りますよ」
窓から顔を出した誠さんは、いつもと変わらない穏やかなトーンで言った。
「ありがとうございます」と応えて助手席に乗り込むと、微かに古い機械油の匂いと、春の土の匂い、そして彼自身の体温のような安心する匂いがした。
この特等席から見る豊島の景色も、今日で最後だ。
「少しだけ、遠回りしてもいいですか? 最後に一つだけ、見てほしい場所があるんです」
誠さんがハンドルを握りながら言う。
私が黙って頷くと、軽トラックは家浦の港とは反対方向、島を半周するように唐櫃の集落へと向かって走り出した。
車窓には、朝日を浴びてきらきらと光る瀬戸内の海と、山の斜面に広がる棚田の鮮やかな緑が交互に映し出される。
私たちは多くを語らなかった。
何か言葉を発してしまえば、この完璧な静寂と、奇跡のように穏やかな時間が崩れてしまうような気がしたからだ。
カーブを曲がるたび、冬の日に凍えながら彼と歩いた道や、遠くに見える森が視界を掠める。
その一つ一つが、声にならない別れの挨拶のように胸に響いた。
唐櫃の清水と呼ばれる、澄んだ水が湧き出る場所を少し越えたあたりで、車が停まった。
車を降りて誠さんの後をついていくと、コンクリートの貯水タンクの周りに、不思議なオブジェが点在しているのが見えた。
「『空の粒子』という作品です」
誠さんが指差した先には、コールテン鋼という錆びた鉄で作られた、無数の円形の彫刻があった。
丸い鉄の輪が、いくつもいくつも精巧に溶接されて連なり、貯水タンクを包み込むように、そして青い空へ向かって踊るように伸びている。
「鉄って、錆びるともろくなって、役に立たなくなるイメージがあるじゃないですか。でも、このコールテン鋼は、表面に緻密な錆の層を作ることで、それ以上内部が腐食するのを防ぐ性質があるんです。つまり、この錆は劣化じゃなくて……」
「……自分を守るための、鎧」
私がその言葉を引き継ぐと、誠さんは少し驚いたように目を丸くし、そして、とても優しく微笑んで頷いた。
「ええ。生きてきた時間の証明であり、未来を守るためのものです」
私は、空に向かって伸びる錆びた鉄の輪を見上げた。
丸い輪の向こう側に、豊島の澄み切った青い空が切り取られて見えた。
重くて冷たいはずの鉄が、ここでは空気の粒子のように軽やかに、自由に空と繋がっているように見えた。
「私、ずっと自分の過去を消したかったんです」
私は鉄の輪を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「東京でボロボロになって、誰かの期待に応えられなくて、壊れてしまった自分のこと、ずっと不良品だと思ってた…」
春の風が、私の髪を揺らした。遠くから、穏やかな波の音が聞こえてくる。
「でも、この島の景色と……誠さんが、教えてくれた。錆びついて、立ち止まった時間があったからこそ、見える空があるんだって。私が東京で擦り切れて作った心の錆も、ただの劣化じゃない。これからの私を守ってくれる、大切な一部なんだって、今はそう思えます」
誠さんは何も言わず、ただ私の言葉を、一つ一つ大切に拾い上げるように聞いていた。
「東京に帰ったら、また失敗するかもしれない。錆びついて、動けなくなる日があるかもしれない。でも、その時はこの空を思い出します」
「……はい」
「誠さんが見せてくれた、この島の全部を」
誠さんは、作業着のポケットに入れていた手をゆっくりと取り出し、そして、何かを堪えるようにギュッと拳を握りしめた。
彼の不器用な優しさが、痛いほどに伝わってくる。彼もまた、私という水滴がこの島から流れ出していくことを、引き止めることなく、ただ全身で受け止めようとしてくれているのだ。
「……そろそろ、行きましょうか。フェリーの時間がありますから」
誠さんの促す声は、かすかに掠れていた。
家浦港に着くと、すでに宇野行きのフェリーが接岸し、乗船を待つ人たちがまばらに列を作っていた。ディーゼルエンジンの低い振動音が、足元から伝わってくる。
トランクを引いて、タラップの前まで歩く。
いよいよ、本当に終わりの時間だ。
「それじゃあ」
私が振り返ると、誠さんは数歩離れた場所で立ち止まっていた。
握手をすることもなく、抱擁を交わすこともない。
私たちは、お互いの人生の軌道がここで完全に分かれることを、大人の分別の名の下に、静かに受け入れていた。
踏み出せば届く距離が、永遠のように遠く感じる。
「あの……」
誠さんが、ふと言葉を切った。
海風が彼の前髪を揺らす。彼は何かを探すように視線を彷徨わせた後、まっすぐに私の目を見た。出会った日と同じ、冬の海のように澄んだ瞳だった。
「いい、デザインを作ってくださいね」
それは、あの日バスケットゴールの下で「ナイスシュート」と笑ってくれた時と同じ、一点の曇りもない、私という存在に対するまっすぐな肯定の言葉だった。
「はい」
私は深く頷き、涙を見せないよう、精一杯の笑顔を作った。
「誠さんも。この綺麗な景色を、ずっと守っていてください」
これ以上言葉を交わせば、本当に帰りたくなくなってしまう。
私はタラップを登り、フェリーの甲板に出た。
振り返らずに手すりの前に立つ。
出港を知らせる重たい汽笛が鳴り響き、係員が太いロープを外した。船がゆっくりと岸壁から離れ始める。
エンジンが唸りを上げ、海面が白く泡立ち、船体と港の間に深い青色の隙間が生まれた。
甲板の手すりから港を見下ろすと、誠さんがまだそこに立っていた。
彼は大きく手を振るような真似はしなかった。
ただ、ポケットに両手を突っ込んだまま、遠ざかるフェリーをじっと見つめていた。
私も手を振る代わりに、彼から教わったように、ただその景色を網膜に焼き付けるように見つめ返した。
二人の距離がみるみるうちに広がり、やがて彼の姿が点になり、港の風景に溶け込んで見えなくなる。
それでも私は、しばらくの間、豊島の美しい緑と青い空を見つめ続けていた。
私たちは、あの美術館のコンクリートの床を流れる水滴だった。
冬の冷たい島で偶然出会い、一つの傾斜を転がり、一瞬だけ重なり合って互いの輪郭を確かめ合い、そしてまた別々の方向へと流れ出した。
水滴が交わるのは一瞬の奇跡だ。
二度と同じ形で交わることはないかもしれない。
けれど、重なり合った瞬間の、あの確かな体温と、透明な水の感触を、私は一生忘れないだろう。
私の内側には、彼が注いでくれた水が、確かに流れている。
吹き付ける潮風は、もう冷たくはなかった。
私はゆっくりと前を向き、遠くに見え始めた本州の灰色の街並みへと視線を移した。
私の帰るべき場所。私の生きる場所。
肺の奥で、新しい空気が静かに、力強く息づいていた。
完結です。お読みいただきありがとうございました。
瀬戸内海に浮かぶ「豊島」を舞台とした作品です。私自身、オフシーズンの冬に以前豊島を訪れており、その落ち着いた空気感と暖かい島の方々に触れ、素晴らしい場所だったと記憶しています。
この物語を通して、豊島と島内のアート作品の魅力が少しでも伝われば嬉しいと思います。作品内に出てきた作品以外にも多くの作品が、島内にはあります。ぜひ一度、調べて、そして訪れていただければと思います。
改めて、お読みいただきありがとうございました。




