第3話(後編)――「王の学問」
386年9月下旬。
田朔が南鄭へ戻った翌朝、郡府では早くも段烈から報告が届いていた。
降伏した兵は田家の古参兵を混ぜながら部隊を組み直し、東門を開いた将も段烈の下へ入っている。城内では略奪を禁じたため大きな混乱はなく、役人たちも持ち場へ戻り始めていた。
田朔は報告を読み終えると陸文昭へ渡した。
「段烈に任せて正解だったな。城を取った後まで自分で片づけられるなら、俺がそこへ居座る必要はない。これなら別の場所を同時に動かせる」
「今後はそれが大切になります。段烈だけでなく、馮岳やほかの将にも同じように一軍を任せられるようになれば、田様は1つの戦場に縛られません。誰に何を任せ、どこを取らせるかを考える方へ移れます」
陸文昭はそう言いながら、漢中周辺から集めた情報を卓へ広げた。
以前の田朔なら、地図を見るとまず兵をどこへ出すか考えていた。今は城の位置だけでなく、その土地を誰に取らせ、取った後を誰に任せるかまで見るようになっている。
「段烈が戻るまで次を急ぐ必要はない。その間に馮岳と姚虎にも仕事を任せよう。段烈だけが城を取れるようになっても仕方ないからな」
「では、こちらは次に崩せそうな相手を探しておきます。軍を出す前に片づけられるところは、先に片づけてしまいましょう」
田朔は頷き、軍議を終えた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、田朔が屋敷へ戻ると、玉容の部屋に劉華英が来ていた。
玉容のほかに許玉蓮と杜蘭英もいる。
華英は南鄭へ着いてから別の部屋を与えられ、衣服や身の回りの品も用意されていた。田朔が入ると立ち上がって礼をしたが、中編で会った時より顔の強張りは薄れている。
玉容が田朔へ席を勧めた。
「華英殿から少しお話を聞いていたところです。あなたが随分と学問のできる方を連れて帰ってきたので、私たちも驚いていたのよ」
「俺も陸文昭の調べを読んで驚いた。俺が今から覚えようとしていることを、子供の頃から全部やってきたらしいからな」
田朔がそう言うと、華英は控えめに首を振った。
「家がまだ昔の地位を保っていた頃に、必要なものとして学ばされただけです。経書や史書、詩歌、書、琴、礼法など、一通り教えられましたが、すべてに秀でているわけではありません」
玉容は華英の言葉を聞きながら、少し楽しそうに田朔を見た。
「ちょうどよかったわね。私たちは領地のことや帳簿、文書、史書など、今すぐ必要なものから教えてきましたけれど、田様がこれから覚えなければならないことは、まだたくさんありますもの」
「増やす気か。最近は屋敷へ戻るたびに何か覚えさせられてるぞ」
「今まで覚えてこなかった分です」
玉蓮と蘭英が笑った。
華英もわずかに口元を緩めた。
田朔はその顔を見てから、華英へ向き直った。
「玉容たちから聞いただろうが、俺はまともな家で学問をして育ったわけじゃない。必要になったものから覚えてきた。だから、お前が知っていることを俺にも教えてくれ」
「私でよろしいのでしたら」
「お前がいい。俺の周りには戦や商いに詳しい奴はいくらでもいるが、お前みたいな育ち方をした人間はいないからな」
華英は一度だけ玉容を見た。
玉容は穏やかに頷いた。
「田様に教えてあげてください。私たちだけでは手が回りませんから」
「承知いたしました」
華英は深く頭を下げた。
その動きは昨日までより自然だった。
◇ ◇ ◇
それから数日、田朔は午前を郡府で過ごし、午後になると屋敷で学ぶ時間を取った。
玉蓮からは土地と租税、蘭英からは文書と礼法を教わり、玉容とは史書を読む。そこへ華英が加わると、同じ史書でも見方が変わった。
華英は出来事を覚えさせるだけではなく、その国がなぜ栄え、なぜ人が離れ、どこから崩れたのかを話した。強い軍を持ちながら家臣を失って滅びた者もいれば、敗れても人が集まり続けた者もいる。
「今回の城も同じか。守将には兵がいた。それでも東門の将がこっちへ来て、ほかの将まで降ったら、最後に残った兵だけでは城を守れなかった」
「そういう見方もできます。軍の強さは兵の数だけでは決まりません。誰がその人のために残り、誰が離れていくのかは、昔の記録にも何度も出てきます」
田朔は史書へ目を戻した。
陸文昭なら、同じ話を聞けば次の敵をどう崩すか考えるだろう。華英はそこからさらに、なぜ人が離れたのか、なぜ別の者には人が集まったのかまで遡って話す。
田朔には、その違いが面白かった。
「俺が陸文昭より調略に詳しくなる必要はないし、段烈より戦が上手くなる必要もない。ただ、あいつらを使う俺が同じところしか見ていなかったら駄目だということか」
華英はすぐに答えず、田朔の言葉を受けてから静かに続けた。
「田様の家臣には、それぞれ得意なことがおありなのでしょう。ならば田様は、その方々が見ていないところまで知っておかれた方がよいと思います。私には軍のことは分かりませんが、上に立つ方まで家臣と同じものしか見ていなければ、誰をどこで使うべきかも見えにくくなるでしょう」
「なるほどな。それなら学ぶ意味は分かる」
田朔が納得すると、横で聞いていた玉容が笑った。
「私が同じことを言っても、なかなか素直に聞かなかったのに」
「言い方の問題じゃないか」
「人のせいにしないでください」
今度は華英まで笑った。
◇ ◇ ◇
その日の学問が終わる頃、何小玉と李麗華も部屋へ顔を出した。
小玉は卓上に積まれた書を見ると、田朔の向かいに座っている華英へ目をやり、それから玉容を見た。
「また先生が増えたのですか。旦那様を昼も夜も捕まえてしまうのは困りますよ」
「夜まで勉強する気はないぞ。そこまでやったら俺が逃げる」
「それなら安心しました。私たちにも順番がありますから」
小玉が当然のように言ったため、華英がわずかに目を丸くした。
玉蓮が笑いながら、田家では奥向きでも遠慮なく物を言う者が多いのだと教えた。正妻の玉容が上に立つことは皆が認めているが、それ以外の者まで黙って田朔に従っているわけではない。
「華英も、そのうち慣れる。俺より詳しいことがあれば教えるし、言いたいことがあれば言えばいい。うちはそういう家だ」
田朔がそう言うと、華英は部屋にいる女たちを順に見た。
玉容も玉蓮も蘭英も小玉も麗華も、田朔の前で顔色をうかがってはいない。それぞれが好きに話し、笑っている。
「よいお家なのですね」
華英はそれだけ言った。
玉容がその言葉を受けて微笑んだ。
「華英殿も、ここで暮らせばよいのです」
部屋が少し静かになった。
華英は玉容を見た後、田朔へ視線を移した。
田朔は回りくどく言わなかった。
「俺もそのつもりだ。華英、お前を側室として迎える。玉容の下に入り、ほかの者と同じように田家の女として暮らせ。学問もこれまで通り教えてくれればいい」
華英はすぐには答えなかった。
やがて背筋を正し、両手を揃えて田朔へ深く頭を下げた。
「承知いたしました。田様と玉容様にお仕えいたします」
顔を上げた時には、南鄭へ来た日の硬さは消えていた。
小玉が早速、これで田様を叱る先生がまた1人増えましたねと言い、麗華が笑った。玉容も否定しなかったので、田朔は華英を迎えた途端に自分の味方が減った気がするとぼやいた。
華英も声を立てて笑った。
田家の奥向きに、また1人、新しい女が加わった。
◇ ◇ ◇
9月の終わりが近づいた頃、段烈から2通目の報告が届いた。
城内の兵の再編は進み、内応した将たちも命令に従っている。降伏兵の中から田家へ残る者もまとまり始め、役人も仕事へ戻った。城はすでに、次の軍を支える拠点として使えるところまで落ち着きつつあるという。
田朔は報告を読み終えると、陸文昭へ渡した。
「段烈にそのまま任せよう。城を取って、兵をまとめて、次の軍が使えるところまで整えられるなら十分だ。今度は馮岳にも別の仕事をやらせたい」
陸文昭も異論はなかった。次の候補についてはすでに情報を集め始めており、田家と話をしたがっている者もいるという。
「急がなくていい。使えそうな奴は調べておけ。10月は馮岳を動かしてみる。段烈とは違うやり方をするだろうが、それも見ておきたい」
「将が増えれば、同じ戦い方をさせる必要もなくなります。馮岳には馮岳の得意なやり方で働いてもらえばよいでしょう」
「そうしよう。俺が全部決めていたら、将を増やした意味がないからな」
田朔は地図へ目を落とした。
「10月は馮岳だな」
今度も、自分が先頭に立つつもりはなかった。
386年9月が終わった。




