第4話(前編)――「長安へ帰る」
386年10月。
淝水の戦いから3年が過ぎ、かつて華北の大半を支配した前秦は、すでに昔の姿を失っていた。各地では前秦に従っていた将や部族が相次いで自立し、昨日まで臣下だった者が王を名乗り、皇帝を称している。
長安を中心とする関中も、その争いのただ中にあった。
この頃の天下を大まかに見ると、次のようになっていた。
北
北魏・拓跋珪
│
│
西燕 ―― 山西 ―― 後燕・慕容垂
│ 河北
│
後涼・呂光 ―― 前秦残存勢力 ―― 後秦・姚萇
西北 隴西・関中西部 │
長安
│
関中
│
―――― 秦嶺 ――――
│
漢中
★田朔
│
巴蜀
│
東晋
南
もちろん、実際の国境がこのように一本の線で分かれているわけではない。前秦の支配が崩れた後には、どの勢力にも完全には従わない城や豪族、軍勢が各地に残り、名目上は誰かに従っていても、形勢が変われば旗を替える者も珍しくなかった。
長安を押さえているのは、羌族の姚萇である。前秦から離反して勢力を築いた姚萇は長安を手に入れ、皇帝を称して後秦を建てた。その東では鮮卑の慕容氏が西燕と後燕に分かれ、北では拓跋珪が魏王を称し、西北でも呂光が涼州を押さえつつある。
それでも前秦が完全に消えたわけではなく、旧臣や残存勢力は各地に残っていた。大きな国が崩れ、その跡地をいくつもの勢力が奪い合っているのである。
その天下の南西、秦嶺を隔てた漢中に田朔がいた。
◇ ◇ ◇
10月上旬、南鄭の郡府。
田朔が部屋へ入ると、陸文昭は床いっぱいに大きな地図を広げていた。いつも軍議で使う漢中周辺だけのものではなく、北には長安と山西、その東には河北、西には隴西と涼州、南には巴蜀まで描かれている。
「次に取る城を決めるだけなら、随分と大きな地図を持ち出したものだな」
田朔が地図を見ながら言うと、陸文昭は北側へ置いていた木札を動かした。
「今までなら漢中で誰がどの城を持っているかだけ見ていれば足りました。しかし田様はすでに南鄭と褒中を持ち、周辺の城まで取り始めています。このまま漢中だけを見て勢力を広げれば、いずれ北から来る者とぶつかります。それなら今のうちから、秦嶺の向こうで何が起きているのか知っておくべきでしょう」
陸文昭は長安の東から山西へ指を動かし、西燕の慕容永と前秦の苻丕が争っていることを説明した。前秦は淝水以来崩れ続け、各地に残った将兵も誰に従うべきか定まらない。一方、長安を手にした姚萇は皇帝を称し、関中全体を後秦の支配下へ入れようとしている。
田朔は地図の上へしゃがみ込み、陸文昭の指が動いた場所を順に追った。
「つまり、漢中を取り終えたからといって安心できるわけじゃないんだな。北では姚萇が関中をまとめようとしていて、その周りには前秦の残党や西燕までいる。俺たちがここでのんびりしている間にも、向こうは勝手に片づいていくわけだ」
「そういうことです。今の後秦は田家よりはるかに大きな勢力ですが、姚萇が関中のすべてを思い通りに動かしているわけではありません。前秦に従っていた将も残っていますし、姚萇を嫌う者もいる。西でも東でも戦が続いていますから、関中全体が1人のものになったとは言えません」
田朔の視線が、地図の中央にある長安で止まった。
かつて父の田順と荷車を引き、粟や草鞋を売りながら暮らした街である。役人に銭を渡し、毎日の稼ぎを気にしながら生きていた頃には、自分が長安を支配する者について考えることなどなかった。
漢中へ来た時にも、兵も土地も持っていなかった。
それが今では南鄭を持ち、兵を抱え、段烈や馮岳のように独立して軍を動かせる将まで育ち始めている。
田朔は長安へ指を置いたまま、しばらく地図を眺めた。
「今の兵で姚萇と正面から戦えば負ける。だが、姚萇が関中を全部固めるまで漢中に籠もっていれば、北へ出るのはもっと難しくなる。それなら漢中を固めながら、今のうちに関中へ出る道を作っておいた方がいい」
陸文昭は頷いた。
「私もそれがよいと思います。長安だけを見て急ぐ必要はありません。前秦が崩れたことで、主を失った兵や将も増えています。自分の城を守るだけで精一杯の者もいれば、次に誰へ従うべきか迷っている者もいるでしょう。そういう者へ先に手を伸ばせば、戦わずに田家へ加えられるものもあります」
「だったら分かりやすい。降る将は使えばいいし、兵を連れてくるなら兵ごと受け入れる。城を持ったまま困っている奴なら、城ごと田家へ入ればいい。姚萇と前秦の残党が争っている間に、こっちは漢中から少しずつ北へ近づく」
田朔が言うと、陸文昭は笑った。
「天下の地図を広げても、やることは田様らしいですね。使える者を拾い、使える土地を取るわけですか」
「捨ててあるものを姚萇だけに拾わせる理由はないだろう」
田朔も笑った。
前秦の崩壊は、田朔にとって遠い土地の出来事ではなくなっていた。国が崩れれば、そこに仕えていた兵や将、役人、職人が新しい主を求める。守る力を失った城や土地も出てくる。その一部でも漢中へ引き寄せることができれば、田家は自分たちだけで兵を育てるより早く大きくなれる。
その先に長安があった。
◇ ◇ ◇
その日の軍議には、段烈、趙嶽、賀蘭真、馮岳、鄭達も呼ばれた。
床いっぱいに広げられた地図を見た段烈は、いつもの漢中周辺の軍議ではないとすぐに察した。賀蘭真も地図の北側へ目を向け、前秦に仕えていた馮岳と趙嶽は長安周辺を黙って見ている。
田朔は全員が揃うと、地図の長安へ指を置いた。
「俺は長安から漢中へ来た。今すぐ攻め込むつもりはないが、いずれこの道を逆に戻る。そのために漢中を固め、秦嶺を越えても戦える軍を作る。これからは目の前の城を1つずつ取るだけじゃなく、北へ出ることまで考えて動いてもらう」
段烈は田朔の言葉を聞きながら、漢中から長安へ続く道を見た。
「それなら、取った城を田様が1つずつ直接治めていては間に合いませんな。軍も守備兵として散ってしまいます。将に軍を預けるだけでなく、城とその周辺まで任せる必要が出てきます」
「だから9月に取った城は、そのままお前に任せる。降った兵を組み直して、次の軍を出せるところまで整えてくれ。俺は南鄭から細かく口を出さない」
段烈が了承すると、田朔は馮岳へ向き直った。
「お前には前に、もう一度勝ったら1,000人を預けると約束した。あれを今月から実行する。今度は砦を落とすためだけの500人じゃない。1,000人を1つの軍として預けるから、俺も段烈もついていかない。取る場所はこちらで決めるが、兵をどう動かして勝つかはお前が決めろ」
馮岳は一瞬だけ目を見開いた。
田家へ来た当初に預けられたのは300人だった。実戦では500人を率いて砦を落とし、その働きを認められて700人まで増えている。それが今度は1,000人である。
「以前のお約束を、本当に守っていただけるのですね。でしたら、1,000人を預けたことを後悔させない働きをしてまいります。ただ城を落とすだけではなく、兵も城も次に使える状態でお返しします」
「それでいい。敵が逃げたからといって全部追いかける必要はないし、城を取るために城そのものを壊しても仕方ない。前に負けた時のことも覚えているだろうから、今度は自分で考えてやってこい」
馮岳は深く頭を下げた。
田朔は続いて賀蘭真へ、姚虎を連れて秦嶺へ続く街道と周辺勢力を調べるよう命じた。今すぐ北へ大軍を出すためではなく、どの道なら兵を通せるのか、途中の城や集落が誰に従っているのかを確かめるためである。
鄭達には南鄭と褒中の守りを見直させた。軍を外へ出すほど、本拠地を少ない兵で守る必要が出てくる。守城を得意とする鄭達には、城門や倉、井戸、夜番を含め、どこまで兵を減らしても守れるか調べさせることにした。
最後に田朔は趙嶽へ目を向けた。
「お前には昔のつながりを使ってもらいたい。前秦にいた頃の知り合いで、今の主を失った奴や、この先どうするか迷っている奴がいるなら声をかけてくれ。田家へ来る気があるなら話を聞く。兵を連れて来られる将なら、なおさら欲しい」
趙嶽は地図に残る前秦の勢力を眺めてから頷いた。
「淝水の前なら、前秦を捨てて漢中の新興勢力へ来いと言っても笑われたでしょう。しかし今なら話を聞く者はいると思います。昔の知己を当たってみましょう」
「頼む。出自はどうでもいい。実際に兵を動かせる奴を探してくれ」
軍議が終わる頃には、地図の上でそれぞれの役割が決まっていた。
馮岳には1,000人を預けて独立した軍として動かし、段烈には9月に得た城と周辺の掌握を任せる。賀蘭真と姚虎は北へ続く道を調べ、鄭達は南鄭と褒中の守備を固める。趙嶽は旧前秦の人脈を使い、主を失った将へ田家から手を伸ばす。
田朔自身は南鄭に残り、それらを同時に動かすことになった。
◇ ◇ ◇
軍議が終わった後も、田朔は地図の前に残っていた。
後秦、西燕、後燕、北魏、後涼という国名は、どれも田朔が幼い頃から存在したものではない。乱世の中で将だった者が自立し、兵と土地を手に入れ、王や皇帝を名乗って生まれた国である。
華英から史書を学び始めたことで、田朔は以前よりそうした国の成り立ちを意識するようになっていた。
戸口から足音がして、劉華英が入ってきた。
「まだ地図をご覧になっていたのですね」
田朔は華英を手招きし、長安から漢中まで指を滑らせた。
「俺は昔、この道を南へ逃げてきた。長安では父上と荷車を引いて、粟や草鞋を売っていたんだ。それが今では漢中に土地を持って、1,000人を預けられる将までいる。今日、陸文昭と話していて初めて、この先も見えてきた」
華英は田朔の隣へ座り、長安と漢中を結ぶ道を見た。
「長安へ戻られるおつもりなのですね」
「すぐじゃない。今の俺が姚萇と戦えば負けるくらいは分かってる。だが、漢中だけ取って満足するつもりもない。前秦が崩れている間に兵と将を集めて、北へ出られるだけの力を作る。その先で長安を取る」
華英はしばらく地図を眺めてから、田朔へ顔を向けた。
「それでしたら、私がお教えすることも増えそうです。城を1つ治める者と、多くの土地や人を従える者では、知っておかなければならないことが違います。田様が本当に長安を望まれるのでしたら、戦の勝ち方だけでは足りません」
「また勉強が増えるのか」
「増えます」
華英が平然と答えたので、田朔は苦笑した。
「兵を増やすより大変そうだな。まあいい。必要なら覚えるから、お前も遠慮せず教えてくれ」
「承知いたしました。ただし、途中で逃げないでくださいませ」
「戦から逃げなかった俺が、書物から逃げると思うか」
華英は少し笑った。
「それは、これから確かめます」
田朔も笑い、再び地図へ目を戻した。
漢中から秦嶺を越えれば関中へ出る。その先には、かつて逃げるように離れた長安がある。
今度は荷車を引いて戻るのではない。
田朔はまず、馮岳に預ける1,000人を動かすことにした。
386年10月上旬が始まった。




