第4話(中編)――「1,000人の将」
386年10月中旬。
馮岳は1,000人を率いて南鄭を出た。
田朔は今回も同行せず、攻める場所と目的だけを伝えて兵の動かし方は馮岳に任せた。これまでの田朔なら、自分が行った方が確実だと考えただろう。しかし前編の軍議で長安まで含めた地図を広げて以来、その考えでは先へ進めないことが分かり始めていた。
馮岳が向かったのは、漢中北部から秦嶺方面へ延びる街道を押さえる城である。大城ではないが、将来北へ兵を出すなら放置できず、周囲の村や街道にも影響を及ぼしている。
敵は田家軍の接近を知ると、城へ籠もらず周辺から兵を集めて城外へ陣を敷いた。小部隊を前へ出して矢を射かけ、田家軍が動けば退く。追ってきたところを崩すつもりなのは明らかだった。
馮岳には覚えのある戦い方だった。
前秦にいた頃、偽りの退却に誘われて深追いし、左右から挟まれて80人余りを失ったことがある。その敗戦は馮岳にとって消したい過去だったが、1,000人を預かる将となった今では、二度と繰り返してはならない教訓になっていた。
敵の小部隊が何度近づいても、馮岳は盾を並べて矢を受けさせるだけで追撃を許さなかった。敵が退けば隊列を整え直し、また近づいてくれば同じように迎えたため、誘い出すつもりだった敵の方が焦れ始める。
その間に馮岳は地形を知る兵を集め、別働隊を林へ回していた。
午後、敵が再び前へ出てきたところで、馮岳は初めて追撃を命じた。田家軍が動いたのを見た敵兵は予定どおり退いたが、馮岳は敵の望む場所まで追わず、途中で兵を止めて隊列を整えた。
追撃してくるはずの田家軍が止まったため、敵の動きも鈍った。
そこへ林を回っていた別働隊が横から現れた。
正面から馮岳の本隊が進み、側面から別働隊が迫ったことで敵軍は城へ戻ろうとしたが、すでに整った隊列を維持できなくなっていた。馮岳は崩れた敵を必要以上に追わせず、武器を捨てた兵を集める一方で城への道を押さえた。
翌朝、城門が開いた。
田朔から初めて1,000人を預けられた馮岳は、自分がかつて敗れた戦いから学び、その経験を使って城を手に入れたのである。
◇ ◇ ◇
馮岳が戦っていた頃、田朔は南鄭の郡府で陸文昭と地図を見ていた。
前編で広げた天下図が、そのまま床に残されている。
漢中から北へ秦嶺を越えれば関中があり、その中心に長安がある。さらに視線を広げれば、東には西燕や後燕、北には北魏、西北には後涼があり、崩れた前秦の勢力も各地に残っていた。
田朔はしばらく眺めた後、長安へ置かれた木札を指で動かした。
「昨日から考えてたんだが、長安を取ったとして、その後はどうするんだ」
陸文昭はすぐに答えず、田朔の顔を見た。
田朔は自分から話を続けた。
「俺は今まで、次にいくら儲けるか、どこの土地を買うか、どの城を取るかを考えてきた。それなら答えは簡単だった。儲かるならやるし、勝てそうなら取ればいい。だが長安まで取ったら、もう次の城を探せば済む話じゃないだろう」
「ようやく、そこまでお考えになりましたか」
「何だ、その言い方は」
「田様は商売では先を見るのに、戦になると目の前しか見ませんでしたから」
田朔は言い返しかけたが、やめた。
陸文昭の言う通りだった。
粟を仕入れる時には、いくらで売れるかまで考えた。金を貸す時には、返せなかった場合に何を取るかまで考えた。それなのに兵を持つようになってからは、次の敵にどう勝つかばかりを考え、勝ち続けた先に何を作るのかを決めていなかった。
「長安を取れば終わり、では駄目なんだな」
「長安は大きな城ですが、天下そのものではありません。取った翌日から、今度は長安を守り、関中を治める必要があります。漢中と関中を持てば、それを欲しがる者も増えるでしょう。その時になって初めて考えるのでは遅すぎます」
陸文昭は漢中の西南に広がる巴蜀と、北の関中を順に指した。
「今の田家が天下すべてを相手にする必要はありません。後燕も北魏も遠すぎますし、東晋まで敵に回す理由もない。当面見るべきなのは、田様がすでに足場を持つ漢中、その北にある関中、そして南西の巴蜀です。この3つを別々に考えるのではなく、1つの大きな勢力として結びつけられるかどうかです」
田朔は地図の上で、その範囲を目で追った。
「漢中を真ん中にして、北へ出れば関中、南西へ行けば巴蜀か」
「はい。もちろん簡単にはいきません。しかし田様が何を欲しいのかを決めなければ、どこへ兵を向けるべきかも決まりません」
田朔は長安の木札を手に取り、掌の上で転がした。
「姚萇は前秦の残りと戦ってる。だったら今から俺が割って入って、両方を相手にする必要はないな。好きなだけ戦わせればいい。その間にこっちは漢中を固めて、兵と将を増やす。北から逃げてくる奴も拾う。向こうが弱った時に、こっちが強くなっていればいい」
陸文昭は笑みを浮かべた。
「それなら私も賛成です。田家がすべての戦に勝つ必要はありません。他人の戦で相手が弱るなら、それも利用すればよいのです」
「その方が俺には合ってるな」
田朔は長安の木札を元へ戻した。
「だが、それでも1つ決めておかないと駄目だ。長安を取ったら終わりなのか、それともその先まで行くのか」
今度は陸文昭が答えを出さなかった。
「それを決めるのは、私ではありません」
田朔は地図を見た。
かつての自分なら、長安だけでも途方もなく大きく見えただろう。ところが天下図の上では、長安も無数にある城の1つにすぎない。
「国を作るか」
口に出してから、田朔自身がその言葉を確かめるように地図を眺めた。
「漢中を取って、関中へ出る。巴蜀にも手を伸ばす。長安を取っても、そこで止まるとは決めない。俺が生きている間に取れるところまで取る。そのための国を作る」
陸文昭は田朔の言葉を黙って聞いていた。
しばらくしてから頭を下げた。
「でしたら、私はそのつもりで策を考えます。次の城を取るためだけではなく、田様の国を大きくするための策を」
田朔はそこで初めて笑った。
「それを最初からやってくれ」
「田様が何を欲しいのか分からなければ、軍師にも決められません」
「なら今日決めた。覚えておけ」
地図の上に、まだ田朔の国は存在しない。
それでも田朔の中では、南鄭はすでに終着点ではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
午後、田朔は屋敷へ戻ると、そのまま華英に捕まった。
この日の部屋には玉容、玉蓮、蘭英もいた。田朔の前には竹簡が置かれていたが、いつものように昔の王の名前を覚えるところから始める気にはならなかった。
「華英、今日は俺から聞きたいことがある」
田朔は午前中に陸文昭と話した内容を説明した。漢中だけで終わらず、いずれ関中へ出て長安を取り、巴蜀にも手を伸ばす。その先に自分の国を作るつもりでいることまで話すと、華英だけでなく玉容たちも黙って聞いていた。
「それなら俺が知りたいのは、昔の王が何年に誰と戦ったかだけじゃない。国を取った奴が、その後どうやって国を残したのかを知りたい。逆に、せっかく取った国をどうして失ったのかも教えてくれ」
華英の表情が変わった。
「それでしたら、史書の読み方そのものを変えましょう。誰が勝ったかだけではなく、なぜ人が従い、なぜ離れたのかを見ていただきます。戦に勝って国を得ても、税を取りすぎて民が逃げた者もおりますし、功臣を疑って自ら力を失った者もおります。反対に、異なる出自の者を使いこなして勢力を広げた者もおります」
「それが知りたい。俺は前秦の皇族でもなければ、どこかの名門でもない。俺についてくる理由が血筋じゃないなら、別の理由を作らないと国なんて持たないだろう」
玉容がその言葉に頷いた。
「今の田家には、田様が貧しかった頃からいる者もいれば、戦ってから味方になった者もいます。漢人だけでもありません。それでも一緒にいられるのは、田様についていれば働いた分だけ上へ行けると皆が知っているからでしょう」
玉蓮も商いを任されてきた経験から、土地が広がれば金の扱いも変わると話した。
「店なら儲けが出れば成功ですが、国ならそうはいきません。兵を養うだけでなく、道も倉も必要になりますし、商人が安心して行き来できなければ銭も回りません。田様が全部を自分で見ることはできませんから、誰に何を任せるかも今まで以上に大事になります」
「それなんだよ」
田朔は竹簡ではなく、妻たちを見た。
「俺はずっと、銭が増えれば強くなると思ってた。間違いじゃないだろうが、それだけじゃ足りないらしい。城を増やしたら治める奴がいるし、兵を増やしたら率いる奴がいる。土地を取ったら、そこに住んでる連中を食わせて商売も続けさせないと、結局こっちが困る」
蘭英が笑った。
「ようやく旦那様も、倉の中の銭だけ見ていては駄目だとお気づきになりましたか」
「お前たちまで華英の先生仲間になるな」
「もうなっております」
玉容が涼しい顔で答えたので、田朔は笑うしかなかった。
華英は新しい竹簡を取り出した。
「では今日は予定を変えましょう。田様が国を作ると仰るのでしたら、王が何を持つべきかではなく、何を人に任せるべきかから始めます」
「いきなり俺の苦手そうな話だな」
「だから必要なのです」
田朔は諦めて竹簡を受け取った。
午前中まで、天下を取るには兵を増やせばよいと思っていた。
午後には、それだけでは国にならないことを妻たちから教えられていた。
◇ ◇ ◇
夕餉には小玉、麗華、阿若、蘇瑶、月華、春華、淑蘭も顔を出し、久しぶりに屋敷の女たちが大勢揃った。
玉容が田朔の「国を作る」という話をすると、反応はそれぞれだった。
小玉は真っ先に笑った。
「旦那様が王様になったら、私たちも偉くなるんですか」
「そこを最初に聞くのか」
「大事なことでしょう。旦那様だけ立派な服を着るなら嫌ですよ」
小玉が真顔で言うので、麗華が笑いながら、今でも十分に良い衣を買ってもらっているとたしなめた。
阿若は国という言葉より、北へ軍を進める話に興味を示した。
「秦嶺を越えるなら、馬をどこまで使えるか先に見た方がいい。平地と同じつもりで騎兵を連れていけば困る場所もあるでしょう」
田朔は阿若を見た。
「それ、賀蘭真にも話してやってくれ。あいつは今ちょうど北の道を調べてる」
「私でよければ話します」
「頼む。家にいるからって、お前たちまで何もしなくていいわけじゃない。知ってることがあるなら使わせてくれ」
華英が史書と礼を教え、玉蓮は商いと金を見る。阿若には馬の知識があり、ほかの妻たちにもそれぞれ得意なものがある。
田朔はそれまで、妻たちを守るべき家族として考えることはあっても、自分が国を作る時に力を借りる相手としてまでは考えていなかった。
「俺の家なのに、俺が一番物を知らないんじゃないか」
田朔がぼやくと、小玉がすぐに答えた。
「今頃気づいたんですか」
部屋中から笑い声が上がった。
「お前は本当に遠慮がないな」
「旦那様が遠慮するなと言ったんですよ」
田朔は言い返せず、酒杯を手に取った。
国を作ると決めた日の夕餉にしては、随分と賑やかだった。
だが田朔には、それでよかった。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は玉容の部屋にいた。
玉容は髪を解き、寝台の端に腰を下ろしていた。田朔も隣へ座ると、昼間に自分が口にした「国を作る」という言葉を思い返した。
「昼間は勢いで言ったところもあるが、今になって少し怖くなってきたな。南鄭を取ると言った時とは違う」
玉容は笑わなかった。
「それでよいのではありませんか。何も怖くない方に国を任せる方が、私は怖いです」
「お前は俺が王になれると思うか」
玉容はすぐには答えず、田朔の手へ自分の手を重ねた。
「今のままで十分だとは思いません。でも、知らないことを知らないと言えるようになりましたし、人に任せることも覚え始めています。昔よりは近づいていると思います」
「随分厳しいな」
「妻ですから」
田朔は笑って玉容を抱き寄せた。
「なら、王になれるところまで付き合ってくれ」
「長安を取った後も、その先まで行かれるのでしょう」
「ああ。今日決めた」
「でしたら、最後までお付き合いします」
玉容の身体が田朔へ寄り、2人はそのまま寝台へ入った。
その先は夫婦だけの時間になった。
◇ ◇ ◇
翌朝、郡府から使者が駆け込んできた。
馮岳からの報告だった。
城外へ出た敵軍を破り、翌朝には城門を開かせたという。田家軍の損害を抑え、降った兵をまとめ、兵糧と武器も確保している。さらに馮岳は南鄭から指示を待つのではなく、城内の治安を整えながら周辺の村へ使者を出し、田家に従うなら従来の暮らしを妨げないと伝えていた。
田朔は報告を最後まで読み、陸文昭へ渡した。
「こいつ、もう俺が行かなくても城を取って、その後までやってるな」
「それが1,000人を預けた意味でしょう。田様が国を作るのでしたら、こういう将を何人も持たなければなりません」
昨日までなら、田朔は馮岳の勝利を喜び、褒美をいくら与えるか考えただろう。
今日は違った。
「馮岳には、この城を任せよう」
陸文昭が田朔を見た。
「軍だけでなく、城もですか」
「ああ。俺が南鄭にいて、段烈が別の城を持ち、馮岳がここを持つ。それでも全部が田家として動く形を作る。俺が全部の城に座ることはできないんだから、今から始めた方がいい」
陸文昭はすぐに賛成した。
「でしたら鄭達を一度向かわせましょう。守りを見させた後は馮岳に任せれば、攻め取った将が守るところまで覚えられます」
「そうしてくれ」
そこへ、もう1人の使者が到着した。
今度は賀蘭真からだった。
秦嶺へ続く道を調べていた騎兵が、北から漢中へ下ってくる武装した一団を見つけたという。前秦の軍にいた者たちで、敗戦によって主を失い、新たな仕える先を求めているらしい。
趙嶽が報告にあった将の名を見ると、知っている男だと答えた。
田朔は馮岳の勝報と、北から来る一団についての書状を並べて眺めた。
昨日、自分は国を作ると決めた。
その翌日に、1人の将が城を増やし、北から別の将と兵が流れてくる。
「陸文昭」
「はい」
「前秦と後秦には、まだしばらく戦ってもらおう。その間に、こっちは落ちてくるものを全部拾う。兵も将も城も、使えるものなら田家へ入れる」
田朔は天下図を広げさせた。
南鄭から北へ延びる道の先には秦嶺があり、その向こうには関中と長安がある。
「俺たちだけで強くなる必要はない。他の国が崩れて強くなれるなら、その方が早い」
陸文昭はその言葉を聞き、長安の木札を見た。
田朔はもう目の前の城だけを見てはいなかった。
386年10月中旬、まだ地図には存在しない田朔の国が、形を持ち始めていた。




